加工された視界、その中で踊る君、それを見つめる悲しげなボクの瞳
AIHARA Masami
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「……」
 投げつけられたひどい言葉に、幸弘はなにも答えなかった。言うべき言葉を見つけることができなかった。
 できることと言えば、言葉をかけることもなくただうつむくことだけ……。
 ただの喧嘩だ。
 蛍はそう思っていた。思いたかった。
 でも、数歩、歩いて振り返ったとき、彼女は少しだけ自分の言葉を後悔した。幸弘の表情を見て、自分の言った言葉を後悔した。
 さっきの言葉を取り消したい。何か言葉をかけて幸弘をその表情から救ってやりたい。蛍はそう思ったけど、かけるべき言葉を見いだすことはできなかった。
 そして、科学はまだ言った言葉を取り消せるほど、進んではいなかった。

 幸弘が披露したそれを見て健吾は、素直に驚いていた。
「すげぇ……」
 TVに映っていたのは、幸弘の視界だった。脳とコンピュータを直結するジャック=イン端子とAV端子から、テレビに延びる2本のケーブル。首の後ろのジャック=イン端子は珍しいモノではなかったが、視界を意志のままに光学処理する光学イコライザーは珍しいモノだった。
 軍用技術の5年落ち。それが光学イコライザーの正体だった。モノ自体はそんなに高いモノではないが、手術代……視神経と視床下部の間にそれを埋め込む費用と、かなりの勇気が必要という代物だった。
 幸弘の意志一つで彼の視界が、通常視界からサーモビューに切り替わる。温度変化に追従しての青から赤の色変化で、視界が表現される。幸弘が健吾を見る。健吾は、普通の人間にしては赤っぽい温度帯で表現されていた。
「まぁ……こんなところだ」
 健吾の興味のテンションが少し落ちてきたことを、敏感に察したのだろう。幸弘はそう幕切れの言葉を口にすると、ジャック=イン端子からコードを引き抜いた。テレビのブラウン管がノイズに変わる。
「なぁ……」
 唇をぬらす程度にコーラを飲み、健吾は言葉を続けた。
「なんで、そんなもん入れたんだ?」
 わずかに間を空けると幸弘は、
「別に……暇だったから」
 理由になってそうで、理由になっていない答えだった。
 もしかしたら……
 言いかけて、健吾は言葉を飲み込んだ。
 言えるわけがなかった。
 「ふられたから、自暴自棄になってるのか?」なんて、訊けるわけがなかった。

 幸弘が光学イコライザーを仕込んでから、5日目。変化は訪れた。
「……るっ?」
 最初、健吾は幸弘の囁きにも似た言葉を聞き取ることができなかった。言葉は街の喧噪に飲み込まれて、すぐに消えてしまう。交差点の信号待ち。気づいたとき、幸弘の視線は何かを追っていた。
「どうした?」
「蛍だ……」
 はっきりと次の言葉は聞こえてきた。妙に定まらない視線のまま幸弘は、はっきりと彼女の名前を口にしたのだ。
「蛍さんがどうかしたのか?」
 聞いて健吾は、幸弘の視界の先を見た。だが、そこには誰もいない。少なくとも、健吾の知っている蛍はいなかった。
 信号が青に変わった。人が流れていくが、二人は取り残されたようにそこに立ちつくしている。幸弘が歩き始めた。人をかきわけるようにして、人通りの少ないオフィス街の道にはいっていく。
「待てよ、蛍……」
 まるで、夢遊病患者のように……。
「待てっ! 幸弘」
 強い調子で健吾は言うと、幸弘の腕をつかんだ。振り返る幸弘の顔は、なにもしていないのに怒られた子供のようだった。その子供のような表情で、健吾に問い返す。
「待てって、どうしたんだ?」
「どうしたもなにも……」
 ほとんどあきれた口調で健吾は言う。
「蛍なんか、どこにもいないじゃないか」
「なに言ってんだ?」
 驚きとあきれが入り混じったような幸弘の声。
「そこにいるじゃないか」
 強い口調で幸弘は言うと、強引に健吾の腕を振り払った。そして、夢遊病者のような足取りで健吾には見えない蛍を求めて、歩き始める。
 なにがどうなっているのか、健吾には理解できなかった。

「なに言ってんの?」
 きょとんとした表情で、蛍は健吾に言い返した。
 昼下がりのキャンパス。人数のまばらな学食で、健吾と蛍は安い定食を食べていた。
「いや、だから……」
 ぬるくなりはじめた水を一口飲むと健吾は、
「お前たち別れたんだろ?」
「……え?」
 なにを言っているのか理解できないと言う表情で、蛍は健吾を見返した。この場に幸弘はいない。なぜか、彼は数日前から大学に姿を見せていなかった。幸弘が学校に来ていない理由を知りたくて、健吾は蛍を捕まえたのだが彼女は知らないと健吾に言った。
「別れてなんかいないよ」
「だって……幸弘が言ってたぞ」
「なんて?」
 白身魚の薄っぺらいフライをつかんでいた箸を置いて、蛍は身を乗り出してきた。すでにご飯を食べる気をなくてしていた健吾は箸を置くと、
「いや、俺たちはもうダメだ、とか、もうあいつは俺のことを好きじゃない、とか……そんなこと」
「そんなわけないじゃない……」
 健吾の言葉を笑い飛ばそうとした蛍だったが、彼女は最後まで笑い飛ばすことができなかった。ある一つのことを思い出したのだ。
「あのことを言ってるの? でも、アレは……」
 やけに真剣な表情で呟く蛍に、健吾の関心は引き寄せられた。定食の乗ったお盆を脇に追いやると、
「どうした?」
「いや、前に喧嘩をしたのよ。で、考えてみるとそれ以来、幸弘とは会ってないような……」
「喧嘩って、どんな喧嘩だったんだ?」
 核心に迫っている。健吾はほとんど確信していた。大学に来ない理由と、蛍を求めて夢遊病者のように歩く彼の姿……。この二つの理由が同じで、しかもそれに近づいているとと……。
「大したこと無いのよ……ただ、別れ際にね」
「別れ際?」
「いや、ほんとにたいしたことないのよ」
 健吾は、だんだんこの女の言いように腹を立てていることに気づいた。自分が幸弘をどれだけ傷つけたのか、蛍は全く自覚していないのだ。そのことが、なぜか、腹立たしかった。イライラして飲もうとしたコップを、乱暴にお盆の上に置く。
「なにを、言ったんだっ!?」
 声が荒くなっていくのが、はっきりと自覚できる。対照的にか細い蛍の声
「なんでもないのよ。ただ……」
 そして、蛍が幸弘に言った言葉。それを聞いた瞬間、健吾は立ち上がっていた。怒りにまかせて鋭い視線を、女に突き刺す。
「そんなことを言ったのかっ!」
「ごめんなさい」
 かすれた泣き声で呟くように言う蛍に、健吾はなにも言えなかった。言うべき事はなにもなかった。自分にできることは……
 椅子を蹴って走り出す健吾の背中に、蛍は叫ぶように言う。
「待ってっ!!」

「なんだ、お前か……」
 3度目のチャイムで部屋から出てきた幸弘は、どこか青白くやつれているようだった。ここ数日間、家から出ていない。そんな感じだ。
「入ってもいいか?」
 肩越しに見える部屋の中は、乱雑としたものだった。蛍が愚痴をこぼしながら楽しそうに部屋を片づけていたことを、ふと思い出す。健吾の視線が自分に戻ってくるのを待ってから、幸弘はうなずいた。
「あぁ、どうぞ」
「おじゃまします」
 短く、聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で言って、健吾は部屋の中に入った。そこら辺のものを適当にどかして座ろうとする健吾に、幸弘のやる気のない声。
「すまんな……最近、蛍が片づけてくれないんだよ」
 言って、幸弘は誰もいないテレビを見た。テレビにはなにも映っていない。にも関わらず、幸弘はテレビに視線を固定すると、
「むくれるなって……」
 と、言って笑ったのだ。はじめ幸弘がなにに笑ったのか、健吾には理解できなかった。理解できないまま、幸弘は言葉を継ぐ。
「蛍、健吾にお茶を出してやってくれないか……」
 と。
 幸弘の視線が蛍が歩くのにあわせて、移動するのがわかる。もちろん、ここに蛍はいない。だが、幸弘の意識の中には、視界の中には……
 そのとき、部屋のドアが開け放たれた。同時に、健吾と幸弘が開け放たれたドアを見やる。そこに立っていたのは、蛍だった。
「幸弘っ!」
 叫び、
「ご…ごめんなさい……」
 泣き崩れる蛍だったが、幸弘の反応はもっと劇的だった。彼は立ち上がり、目を見開く。そして、自分の言う言葉がまるで汚らわしいものであるかのように口から吐き出したのだ。
 ほ、た、る……
 と。
 そして、倒れ込む幸弘を健吾は支えてやることができなかった。大きな音を立てて、床の上に倒れ込む幸弘。
 健吾は自分のやるべきことを自覚していた。どうやれば幸弘の状態を把握できるか、どうすれば幸弘を解放できるかを、悟っていた。近くにあったジャック=イン・ケーブルをつかみ、その片方を自分の首の端子に、もう片方を幸弘の首の端子につなげる。
「な、なにしてるの?」
「奴の意識にダイヴする」
 蛍の問いに答えながら、健吾はAVケーブルで幸弘の首のAV端子とテレビの端子をつなげた。
「幸弘の光学イコライザーのビデオ出力機能を使ってテレビに様子を出すから、モニタしてくれ」
 健吾の言葉に、蛍はただうなずくばかりだ。
「まずいと思ったときは、ジャック=イン・コードを引き抜いてくれ。いいな?」
「わかった……」
「じゃぁ、行くぞ」
 息を吸い込み、健吾は目を閉じた。

 最初に意識を覆うのは、どこかに落ちていくような感じだ。深い深い意識の底に降りていく。ダイヴ。まるで、ダイバーが海の底を泳ぐように、健吾は幸弘の意識の海を泳いでいく。
 意識は、まっくらだった。健吾がどんなに幸弘の意識にアクセスして見ようとしても、見ることができない。ダイヴで重要なのは、ダイヴされる意識が開いていること。閉じてしまった意識は見ることができない。まるで、健吾の意識は電脳学の講義で見た自閉症患者のそれだった。
 準備不足でダイヴしてしまった自分を健吾は呪ったが、もうどうしようもできない。少々荒っぽい方法を使ってでも、視界を確保するしかなかった。
「幸弘の視覚野と俺の視覚野をつなげる」
 目を閉じ壁に背中を預けて座る健吾の口が、そう動いた。ノイズだらけのテレビを見つめていた蛍が驚いてビクンッと震えたが、再び健吾の口は沈黙に戻る。一瞬、テレビに命が灯ったように思えた。
 アクセス。
 幸弘の視覚野と健吾の視覚野がつながって、真っ黒な意識の中に虹色のラインがいくつか生まれた。当時に、視界に色が生まれる。健吾はさらに幸弘の視覚野の中に光学イコライザーのオブジェクトを見つけ、幸弘の視覚野からそのオブジェクトにバイパスを通した。
 これで、健吾の見たものが幸弘の視覚野と光学イコライザーを通してテレビに出力されるはずだ。
 フッとブラウン管に命が宿った。最初に映ったのは、色彩のバランスが狂った画像。だが、すぐに修正され魚眼レンズを通したような画像が現れた。部屋の中に、女が一人。食い入るように蛍は、ブラウン管を見つめた。
 部屋が幸弘の部屋であり、女が自分であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
 これが、幸弘の意識が見ているもの。幸弘が現実を見ているとして、彼の視界に私はいない。じゃぁ、映っているのは誰なの? この自分は誰なの?
「幸弘……」
 閉じてしまった幸弘の意識を見て、健吾は自分の考えが正しかったことを知った。蛍に傷つけられた幸弘が、どこに逃げていったのか……。
 場所は、自分の部屋。映るのは、蛍。ただ踊り続ける蛍を見つめ続けるだけの幸弘の意識。
 光学イコライザーが故障したのか、幸弘の無意識が光学イコライザーを操作しているのか、それはわからない。だが、愛する彼女を失ったと感じた幸弘の精神は確実に引き裂かれていったのだ。
 自我すら崩壊しかねない悲しみの中で、幸弘の意識は一つの選択をした。それは、加工された視界の中で彼女を見つめ続けること。
 幻の彼女を加工された視界の中に創りあげることで、意識に安寧とした場所を与えようとしたのだ。
 だが、それは一つの矛盾であえなく終了した。本物の蛍が視界に現れたことで、唯一無二の彼女が二人いるという状況が出現したのだ。偽物を本物とすることで平穏を得てきた自我が、矛盾によってゆっくりと崩壊していく。
 そこで、無意識は本物の逃げ道を意識に用意した。全ての外部情報をシャットダウンすること、自閉症状態を自ら作り出すことで、自我を守ろうとしたのだ。意識は自閉症の安寧の中に逃げ込み自己巡回する情報の海の中に漂うだけの存在となる。そして、自我が崩壊しかねない現実を遠ざけて、安寧とした幻の中で自我を守り続ける。
 加工された視界の中で、踊る君をただ見つめ続けるだけの存在……
 そうなることを幸弘は選んだのだ。
 全てを知って、健吾はジャック=アウトした。
 急速に幸弘の意識世界が視界から消え去り、かわりに幸弘の部屋が広がる。同時に、蛍の悲しげな声が耳に聞こえてきた。
「ごめんね…ごめんね……」
 泣きながら幸弘の体を抱きしめる蛍。悲しげな瞳で蛍にその体を預ける幸弘。
 健吾はなにも言えなかった。蛍に告げるべきどうか迷って、彼は告げることをやめた。なにも言うべきことはなかった。蛍は全てを理解している。
 自分の言った言葉が引き起こした現実と、「幸弘の中の蛍」を見つめ続けることで「蛍の中の蛍」を拒否した幸弘の弱さ。
 言葉を捜せないまま、健吾は部屋から出ていこうとする。
 だから、彼は聞くことはなかった。
 暖かい蛍の体温に包まれて、幸弘がそっと呟いた言葉を……
「ほたる……」

 その口調は、どこか安心しているようだった。

 The END


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