ジャック=インとは、サイバースペースにログインすることである。サイバースペースとの接続を仲立ちする(もちろん、ごく一般的な情報処理能力を有した)コンピュータと通常は首の後ろの付け根に2もしくは4個あるジャック=イン端子をケーブルでつなぐことで、ジャック=インが可能になる。
 サイバースペースへのログオン環境を提供するのは、コンピュータ(というより、提供されるプロトコル、インターフェイスソフト、ネットワークOSなど)の能力であって、ジャック=イン端子と脳内に埋め込まれた機器、そのBIOSが提供するのは、あくまでも、脳とコンピュータ環境の橋渡しである。
 したがって、ジャック=イン端子はジャック=イン以外にも様々な手段に提供される。脳で直接、コンピュータが操作可能になる(また、その逆)ができるため、その応用範囲は広い。
 幸弘が、視界をテレビに映しているのはほんの一例。この場合、映像信号はAV端子で送られているが、制御信号はジャック=イン端子を通している。
 ちなみに、ここでいうサイバースペースは、概念的に「インターネット」と同義である。
 作者は、五感を通して情報を操作する、映画「JM」に見られたような従来のサイバースペース感には否定的である。なぜなら、五感をインターフェイスとして情報を操作することにメリットを感じないし、脳で直接、コンピュータと対話した方が速いのは当然である。
 脳内言語とコンピュータ言語の仲立ちの開発は大変であろうが、その総合的コスト(実現の難しさを含む)は五感をインターフェイスとした情報システムの開発と同じぐらいであろうと、作者は考えている。
 サイバースペースは概念的に「インターネット」と同義と書いたが、これも正確には違う。
 現在、インターネットは一層しかないが、作者はこれが3層ぐらいに分離するであろうと、考えているからだ。
 すなわち、

 A:一般市民がアクセスできる世界的ネットワーク
 B:国際機関の審査にパスした企業、大学、国家機関が参加できる世界的ネットワーク
 C:軍事施設、関連した学術施設、企業の一部しか参加できない世界的ネットワーク

 の3種類。ちなみに、これら3種のネットワークの相互乗り入れ、物理的な接続は禁止されている。また、AからCに変化するに従って、流通する情報の重要性は増し、セキュリティも厳しくなっていく。
 こういう動きは、すでにアメリカの一部の企業を中心に始まっているという噂も聞くので、あながちこういう近未来ネットワーク像は嘘ではないと思う。
 ちなみに、幸弘や健吾がアクセスできるのはAのみ。大学には、Bに乗り入れているコンピュータもあるかもしれないが、それには当然、アクセス権がない。



 こういった、五感を強化するものは珍しくない、ということにしておこう。越えるべきものは、コストと、脳に手を入れるという勇気だけ。
 脳にジャック=イン・システムを入れることは一般化しているが、それでも、現在(1999年)の家庭にインターネットに接続できるコンピュータがある、という程度の一般化にすぎない。
 抵抗ある世代と、ない世代のギャップは、今のインターネット・ギャップ以上かもしれない。取り残された人に対する不利益も、今以上かもしれないが……。
 したがって、ジャック=イン・システム以上に脳に手を入れることは、あまり多くの人がしていない。仕事か、でなければマニアがやっている程度である。
 視覚系を強化するパーツというのは、今の暗視ゴーグルなどの技術の発達を考えると、意外と速くでてくるかもしれない。技術的なハードルはそう高くなく、倫理的なハードルの方が高いかもしれない。
 ちなみに、故障したときのことも考えて、光学イコライザーをパスして通常視界のみを提供するモードも、当然、残されている。



 女性の方の多くは憤慨するかもしれないが、女性が(男性に比べて)自己中心的なのは「自分が子を産む存在」であるから、というのはどこかで読んだか、聞いたか、した記憶がある。(記憶が曖昧なので、もしかしたら、無意識の思考の産物かもしれない)
 性差による行動原理の男女差は、いくつかの事例があるので興味深い。
 例えば、女性テロリストの方が男性テロリストよりも残酷である、とか(理由:男性社会であるテロリスト社会で、よりマッチョになろうと、女性は残虐行為に走る傾向があるんだそうだ)
 ついでに書いておけば、私は「心理学」というものをほとんど信用していない。
 行動科学者や心理学者が何年にも及ぶ実験に基づいて考察したものには、敬意を表するし興味深いが、心理学の本を数冊読んだくらいで「心理学的には、君は〜」などとのたまう輩の言うことを、私はいっさい信用しないことにしている。
 数学のように真理が一つしかない学問であるなら、まだしも、学派によって解釈が真っ向から反発するような未熟な学問の世界で、本を数冊読んだぐらいでその学問を知っているように語られては、たまったものではない。



 ここでは、サイバースペースにログオンすることと、他人の意識にログオンすることを、ジャック=インとダイヴと呼び分けているが、本質的には同じ技術である。
 小説に書いておいて、なんだが、このように人の意識を扱うことができるかどうか、作者ははなはだ疑問視している。娯楽としては、面白いギミックであるが。
 だいたいにして、脳内の情報モデルが現存のコンピュータ・ネットワークと論理モデルで一致している保証はないし、それ以前に、脳のモデルであるニューロ・ネットワークを従来のコンピュータ・ネットワークみたいな形でアクセスできるのだろうか?(あぁ、ニューロを専攻している先生が二人もいる学科を卒業しているのに、このていたらく(笑))
 また、脳を単一のコンピュータのように扱うのも、脳の情報容量、活動規模から考えると少し無理がある考えられる。
 非常に概念的で申し訳ないがこのようにちょっとだけ考えると、意識にダイヴはできないように思える。
 が、私は最近、こういう概念的なネットワーキングをウオッチしてないので、新しい概念が生まれていて、もしかしたら、うまくいく概念が生まれているのもかもしれない。そのときは、教えてください(笑)



 ここで、蛍が「蛍の中の蛍」と「幸弘の中の蛍」、「健吾の中の蛍」などの差異に気づかないのは、いたしかないことである。
 でも、彼女は、直感的に、幸弘が見ているのが少なくとも「蛍の中の蛍」ではないことに気づいている。
 まぁ、もっとも、いくら頑張っても幸弘が「蛍の中の蛍」を見ることはできないのだが……それは、以下に続く。



 ここでいう、自閉症はあくまでも言葉を借りただけであって、当然、精神病の自閉症とは概念も、状態も違う。
 実際の自閉症は情報を受けることはできるが、出すことを拒否している状態。(だと、思う。よくわからん)



 早い話が、「他人の見ている自分」と「自分の中の自分」は違うんだよ、ということ。当然だけど、「作者の中の作者」と「会社の先輩の中の作者」と「友達の中の作者」と は、全て違う。個としての存在を考えた場合、同じものはなく、全て違う。
 これが、テーマというわけではないんだけど、まぁ、この作品の中では重要なテーマの一つ。