僕は彼女がそこにいることに、気づいていなかった。
狭いカラオケボックス。ライトの熱気と人いきれで気持ち悪いぐらい暑い部屋の中、彼女と一緒であることを僕は知らなかった。
7曲目の歌までは。
さりげなく席を移動して、彼女の隣に座る。
「来てたんだ」
僕の言葉に彼女はうつむき加減だった顔を上げた。表情は、明るくない。僕は声のトーンを落とすと、
「どうしたの?」
「なんでもない」
答える彼女の言葉は明らかに嘘だった。
10人ぐらいの集まり。カラオケボックスのパーティールームを3時間ぐらい借り切っての無目的な集まりだった。僕はそれなりに楽しんでいるつもりだったが、彼女の存在に気づいた瞬間、この空間がたまらなくくだらないものに思えてきた。
ほとんどアルコールを感じないカクテルを飲んで、中途半端にうまい歌を聴く。
不意に、彼女が話しかけてきた。耳を貸して、彼女の言葉に集中する。2つ、3つ言葉のやりとりをして、僕は彼女の瞳を見つめてうなずいた。さりげなく彼女のそばを離れて、時計の長針が7から8にうつるのをじっと見つめる。
僕は荷物をまとめると、幹事に言葉とお金を渡して部屋を出た。エスカレーターを地下まで下りて、やりたくもないゲームをはじめる。ちょうど最後のボスを倒したとき、言葉が頭上から降ってきた。
「お待たせ」
彼女の声。僕は立ち上がると、うやうやしく頭を下げた。
「さて、今日はどうしましょうか? お嬢さま」
僕の演劇口調に、彼女は笑みを浮かべた。その笑みで僕はとりあえず満足すると、彼女の手を取る。
「前のお店に行こうよ」
彼女の言葉は、前に一緒に行ったショットバーを意味していた。店の座標と名前を思い出して僕は飛ぶ準備をしたが、彼女がそれを止める。
「ねぇ、歩いてこ」
「ん?」
一瞬、訝しんだ僕だったが、すぐに笑顔を作り出すと、
「それもいいね」
と、彼女の提案にうなずいた。ドアを開けて、数カ月ぶりに外にでる。
外に人の姿はほとんどなかった。道路は最低限の整備がされ、ビルや店の外観も最低限の体をなしている。それでも久しぶりに歩く”道”というやつには、ほとんど生活感がなかった。
誰ともすれ違うことなく、僕たちはいつもの店の前につく。
ドアを開けたとき、耳に心地よいカランコロンという音。店の中はほとんど満員で一瞬、僕は席を心配したが、ウェイターは僕たちを奥の席に案内した。座って、ジントニックとブルームーンを頼む。
透明感のあるロングと、きれいな青色のショート。ジントニックを一口飲んでから、僕は口を開いた。
「カラオケ……」
「ん?」
彼女が顔を上げる。
「どうして抜け出してきたんだ?」
「だって、こっちの方が面白そうだったから……」
にこっと彼女は笑うと、ブルームーンを一口飲んだ。小さな音をたてて置かれる壊れそうなガラス。
「面白いか?」
「だったら、なんでノったりしたのよ?」
「あんなところでみんなと騒いでいるよりは……」
僕は彼女の瞳をのぞき込むと、
「お前と二人で飲んでいる方が面白いと思ったから」
「なに言ってんのよ」
笑う彼女が一瞬、僕の視界から消えた。ように思えた。僕は目をパチパチさせて自分の目を疑ったが、彼女は確かにそこにいた。でも、今、一瞬、彼女の姿が揺らいだのは事実のようだった。
「なぁ……」
探るような僕の声。どうして、そんなに慎重になっているのか不思議だった。
「大丈夫か?」
「なにが?」
「なにが……って、今、お前、ゆらいだぞ」
「冗談でしょ?」
でも、今度の彼女の笑いはどう見ても力のないものだった。作り物の笑みだった。僕はそれにごまかされない真剣な口調で言葉を継ぐ。
「なぁ、うまくいってないのか?」
無言で問い返す彼女。僕はジントニックを多めに飲み込むと、
「あいつと、だよ」
「え? いや、そんなことはないよ……」
「嘘つけ」
僕の言葉ははっきりと断定したモノだったが、その口調ほど自信があったわけではなかった。ため息とともに言葉を吐き出す彼女。ブルームーンの青が、悲しい。
「わかる?」
「まぁな」
あまりにも悲しげな僕の声。でも、それよりも、髪をかき上げる彼女の仕草の方が悲しかった。かき上げたまま額に手を置いて、
「……うん、ちょっとね」
「なにかあったのか? 浮気でもされたか?」
僕が少しだけ笑いを含めて言ったのは、彼女の笑みを誘おうと思ったからだった。だが、僕はすぐにその行為を後悔する。
「それもあるわ」
なにを言っていいのかわからなくなって、僕はジントニックを口に含んだ。氷が過分に溶けて水っぽくなっている。
「なんていうか……」
言葉を探してさまよう彼女の視線。
「疲れちゃったのよ」
「大丈夫か?」
彼女の顔をのぞき込むように僕は言う。真剣に心配してのことだった。生きる気力をなくしかけてるんじゃないのか? 僕はそのことだけを心配していた。肉体的な死がなくなったこの世界にあって、もっとも心配せねばならなくなったことは精神的な死だったからだ。
「大丈夫じゃないかも……」
彼女の心の向きが、だんだんと内側にのめり込んでいっているのがわかる。両手で額を覆って、テーブルにひじをつく。瞳から涙がこぼれそうになっていても、僕はまだ言葉を選んでいた。
「あいつにとって……私は大事じゃなかったのよ」
まだ、言葉を選んでいる僕。何もいえずに、ジントニックを底まで飲み干す。
「なんか、疲れちゃった……こんな、私……」
言っちゃいけない。僕はあわてて彼女を止めようとしたが、彼女はその言葉を口にしてしまった。
「消えてしまえばいいのよ」
はっきりと、彼女は薄くなりはじめていた。彼女の姿の向こうに、店の壁紙が見える。周りの客が気づいてざわめき始めたので、僕はあわてて立ち上がった。体に手を添えるようにして彼女を立たせると、逃げるように店を出る。
外には誰もいなかった。申し訳程度に作られた道を歩く人間なんていやしない。座標を思い浮かべれば行きたいところに行けるこの世界で、誰がわざわざ外を歩いて目的地に行くだろうか。
「……ほっといてよ」
弱々しく呟くように言うと、彼女は僕の手の中から強引に抜け出た。よろよろと店の壁に体を預けて、道路の上に座り込む。時間がたって、彼女ははっきりとわかるほど薄くなっていた。
「おい、薄くなっているぞ! もっと、想うんだ!」
僕の言葉に彼女は首を横に振った。
「いいの、ほっといて。私はもう決めたんだから……」
ほっとけなかった。ほっとけるわけがなかった。僕は彼女のことを失いたくなかった。どうして? どうして、失いたくない? なぜなら、僕は……。
「消えるな! もっと、もっと、強く……」
「もう私なんか必要とされていないんだから、消えてしまってもいいじゃない……」
投げやりな彼女の言葉を聞いて、反射的に僕は言ってしまう。
「僕が必要としている! だから、消えるな!」
はっとした表情で彼女は僕を見上げたが、もう手遅れだった。ゆっくりと薄くなっていく彼女。僕はあわてて彼女を抱きしめようとしたが、触れることすらできなかった。消えていく彼女。すでに、彼女は空間に対する訴求能力すら持っていない。
「遅いよ……」
彼女は泣いていた。なぜ、泣いているのか……
「もっと前に聞きたかったな、その言葉。でも、もう……」
僕にできることはもうなにもなかった。薄く消えていく彼女に、できることはなにもなかった。僕にできることといえば、ただ見ていることだけ。消えていく彼女を見つめることしか、僕にできることはなかった。
「もう、私は消えていくのよ……」
そして、彼女は消えた。
塵となり、露と消えた彼女。もう彼女の心はこの世界に残っていない。残ったものといえば、記録だけ。彼女の姿や声はデータからいくらでも掘り起こせるだろう。でも、心は二度と生成されないのだ。
昔は世界から消えるのに、苦労したという。かつて、心を入れていた肉体は消えづらかったと聞く。僕はこの一瞬だけその世界を羨んだ。昔だったら、こんなに簡単に消えなかっただろうに。
消えてしまいたいと願うだけで、消えてしまうこの世界……
僕はこの世界を心の底から恨んだ。
The END
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