時間と、待ち合わせの場所のみ。
普通だったら、キースはこんなメールを信じなかった。即座に捨ててしまう。だが、彼がメールを信じて待ち合わせの場所に現れたのには二つの理由があった。
一つは、そのメールがプライベートなメールBOXに放り込まれていたこと。もう一つは、待ち合わせの場所が”シェオール”であったこと。
騒がしい繁華街から少し離れた雑居ビルの地下にあるバー”シェオール”は、キースが大戦中に愛用していた店の一つだ。「OPEN」の札がかけられているのと、かすれた「シェオール」の文字以外、その黒いドアに目立つところはない。
濃い紺のスーツに黒のダブルのコートというキースは、シェオールのドアの前でまだ迷っていた。こうしてここまで来ても、なお彼はぎりぎりのところでそのメールを疑っていたのだ。
ドアを開ける。耳障りにならない程度の音楽が、耳に滑り込んでくる。黒く塗られた階段を下りて、暖かい照明に満たされた店内に入る。コートを脱いで他の客と同じように壁にかけた。
客の数はカウンターに2名と、テーブルに3名。昔は奥にボックスがあったのだが、今はなくかわりにテーブルが置かれていた。バーテンは変わっておらず、キースに「いらっしゃい」と言った瞬間に表情が少しだけ変わる。
カウンターに座ったキースに、バーテンはゆっくりと近づいてきた。
「お久しぶりですね」
「こんな無精な客でも、覚えていてくれたんだ」
嬉しさの微粒子をのせてキースが言うと、バーテンはにっこり微笑んだ。
「無精って……昔はよく来てくれたじゃないですか」
「でも、最近は全然、ご無沙汰だったろ?」
バーテンは磨いていたグラスを置くと、
「ご注文は?」
「モスコミュール」
キースの言葉を聞いて、バーテンは黙って注文の品を作りはじめた。ロングのグラスに氷を入れ、ウオッカを二つ、ジンジャーエールを注いでライムを浮かべ混ぜる。目の前に置かれた細かい泡の浮かぶ琥珀色の液体に、キースの視線が注がれた。
一口、飲む。店のドアが開く。
キースは振り返らなかった。バーテンの驚きの入り混じった「いらっしゃいませ」という声で、誰が現れたのかわかったからだ。階段を下りる低い靴音。背中に気配を感じて、コートを壁にかける音が聞こえる。そして、そいつはキースの左隣りに滑り込むように座った。
黒の3つボタンスーツ。薄くストライプが入っている。髪は濃い紺色で、肩にかかるかかからないかぐらいで、まとめられている。穏和な雰囲気と冷たい氷をあわせもつ瞳。全体の感じは、女性と言うよりは中性的だった。
「死んだんじゃなかったのか?」
冗談めかしたキースの言葉に、寺西今日子は微笑んだだけだった。
キースと今日子が出会ったのは、大戦中のことであった。キースは陸上自衛隊第1師団第14特務連隊、通称”マーフィー”と呼ばれる非公式特殊部隊に所属しており、今日子は彼が配属された小隊の隊長であった。
初めは二人の関係も上官と部下の枠を出ないモノであったが、いくどか死地をくぐり抜けるうちに互いに惹かれ、やがて、二人は男女の関係となった。キースと今日子は互いを信頼しあうことで充実した期間を過ごしたが、それは突然、引き裂かれる。終戦直前、マーフィーはグリーンベレーの手によってキース、今日子他10名あまりを残して全滅したのだ。
生き残ったのは、今日子の小隊のみ。ほうほうの体で帰国した彼らであったが、日本政府の後継政体である東京行政府は冷たかった。わずかな一時金を与えて彼らを戦後の混乱期のメガ=シティに放り込んだのである。
組織の冷たさをキースは憎悪し組織に属することをやめたが、今日子は違った。そして、それが二人の別れとなった。キースはフリーのエージェントに、今日子はシノハラの警備組織へ、と。
その別れから、数年が経過した。キースは相変わらずフリーのエージェントだったが、今日子は最強の特殊部隊と呼ばれるシノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリーの隊長を務めていた。その間、二人は2度ほど組んだこともあったが、それ以後、連絡を取り合うことはなかった。
「死んだ?」
わざと驚いたような口調で今日子は言うと、
「誰がそんなことを言ったの?」
「巷じゃその噂で持ちきりだぜ。バルキリーが解散して、寺西今日子は死んだってな」
キースの口調は、目の前の今日子が幽霊じゃないかどうかを確かめる雰囲気すら漂わせていた。
「お久しぶり、覚えてくれてる? 私のこと」
まるでキースを無視するように今日子はバーテンに話しかけた。バーテンはにっこり笑うと、
「もちろん覚えてますよ、寺西さん。最初はこれでしたよね?」
彼女の前に置かれたのは、透明感あふれるジン・トニックだった。一口飲んで満足げにうなずく彼女に、話して聞かせるようなキースの声。
「カワサキとの抗争に負け、さらに社内抗争にも負けてバルキリーは解散した。その中で、寺西今日子は死んだって……俺はそう聞いてたぜ」
「確かに、バルキリーは解散したわ」
はっきりと言いきる今日子の口調は、どこか悲しげな雰囲気だった。
「理由もあなたの言うとおりよ。でも、私は死んじゃいないわ」
ぐっとジントニックを飲む今日子。かつて、バルキリーと称され、氷のナイフのような彼女の雰囲気は少しも損なわれてなかった。触れてしまえば、心まで裂かれそうな冷たい空気。
「カワサキとの抗争は、私が育て上げた5人の少年少女をめぐったモノだった。さらに、そこに査察7課の査察がはいった。覚えてる? 葉山香織」
マーフィーの補給担当だった女だ。
「彼女が査察7課の課長だったのよ。抗争の果てに、5人のうち1人は死亡、1人は行方不明、1人はシノハラの保護下、残り2人はカワサキでカゴの鳥」
今日子は顔を上げると、
「マティーニ」
そして、キースの横顔に視線を向ける。
「私は査察7課に拘束されて、暗殺されるところだった。でも、高橋が私を逃がしてくれたのよ」
「高橋? あぁ、副隊長のか?」
「そう。私は彼に一生かけても返せない借りを作ってしまった」
自嘲気味に彼女は言うと、バーテンからマティーニを受け取った。舐めるようにモスコミュールを飲むとキースは、
「んで、今、お前はなにをやってるんだ?」
「某企業の要請で部隊を編成中よ。完全な非公式特殊部隊」
「お前が作る非公式部隊か……間違いなく、東京最強だな」
「ありがと。でも、それとは別にやりたいことがあるのよ」
探るようなキースの視線。視線で言葉の先をうながす。
「カワサキに捕まってる2人。彼らを解放したいのよ」
「ちょっと待て」
少しだけあわてた口調で言うと、キースは飲みかけのモスコミュールをテーブルに置いた。
「まさか、仕事の話をしてるんじゃないんだろうな?」
「報酬は70万。不足はあるかしら?」
「そういう問題じゃない」
そのまま立ち上がりかねないキースの言葉の勢い。
「仕事ならプロデューサを通してくれ」
プロデューサとは、キースのようなフリーのエージェントに仕事を紹介する人間のことだ。プロデューサが仕事を受けると、彼はその仕事の性格、危険度などを判断、仕事を断るか、どのエージェントに紹介するかを決める。
「私とお前の仲だろ? 冷たいことを言うなよ」
珍しい今日子の猫なで声だったが、キースはモスコミュールを一気に飲み干すと立ち上がっていた。
「こっちの世界にはこっちの世界の決まりがある。決まりが守れないんなら、仕事を受けるわけにはいかない」
今日子はさらに何か言おうとしたが、それよりも早くキースはダブルのコートを掴んでいた。代金分のコインを置いて、ドアを荒々しく閉めて出ていく。今日子になにも言わせない、迫力に満ちた行動だった。
「寺西さん」
不満げな表情の今日子に、バーテンの優しい口調。
「キースさんの言っていることの方が、筋が通ってますよ」
そんなことはわかっていた。
西区郊外に連立している同じ大きさ同じ形の公営住宅のアパート群。長方形型の鉄筋アパートが規則正しく並んでおり、似たような家族が似たような部屋で似たような生活をしている。
沈みかけの太陽がアパート群をオレンジ色に染め上げている日曜日。今日子の姿がそこにあった。規格品のような公園の入り口。まるで、何かから隠れるように彼女はそこに立っていた。
視線の先には、一組の夫婦。公園のベンチに座って静かに話をしている。今日子の視線はその夫婦に注がれているようだったが、しかし、瞳は男のみを写していた。
男は、かつて彼女の副官だった男。バルキリーの副隊長を務め今日子の伝説の裏側にいつもいた男、高橋。バルキリーが解散した今、彼は小さな警備会社の課長となり結婚し小さな家庭を築いていた。
はかなげに動く今日子の唇。それは高橋に何かを語りかけているようだったが、その声は彼の耳には届いていない。届けるわけにはいかない。今日子に今の高橋の家庭を壊す権利など、どこにもないのだ。
ゆっくりと、彼女は背中を向けた。体内にインプラントしている通信機が、電話の着信を告げた。電話をとる。キースだった。
「仕事を受ける」
脳に響いているはずの彼の声は、しかし、今日子の全身を包み込むようだった。
限りなく黒に近いグレーの3つボタンスーツに、ミラーシェード。珍しく青空になっているビルとビルの谷間を見上げながら、キースは車が来るのを待っていた。
ビジネス街の昼下がり。書類を持ったお使いOLや、忙しそうにキースの横をすり抜けていくサラリーマン。秋というより冬のはじまりを感じさせる空気だったが、日射しのせいで寒さは感じない。
すぅっと、目の前に一台の黒塗りのセダンが止まった。見た目は普通の車だが、助手席に今日子が乗っているところを見るとそれなりの戦闘仕様車なのだろう。防弾ガラスに装甲車体、特殊タイヤ。そんな感じか。
助手席の窓が開いて、ミラーシェードの今日子が顔を出す。
「乗って」
後部座席のドアが開いて、キースは車に乗り込んだ。静かに走り出す。
車内はわずかに暖房が利いていて、暖かかった。車の流れに乗って10分ほど走ったところで、キースが口を開く。
「どこにつれていく気だ?」
今日子はなにも答えなかった。車はそのまま流れに任せるように走って、住宅街を抜けたところにある病院に入っていく。広い敷地を持つ総合病院だったが、不思議と生きている感じはしない。廃墟なのか? 訝しがるキースを乗せたまま車はガランとした地下駐車場に入って、ようやく止まった。
「つぶれた総合病院を買い取ったのよ」
先に降りた今日子はキースが降りてくるのを待って、そう説明した。うながされるまま、キースは今日子と車を運転していた彼女の部下とともにエレベータに乗る。
「病院なんか買って、どうするつもりだ?」
「ここが私の部隊の本部よ」
さらっとした口調で今日子は言うと、
「これだけでかい病院だと内部に一通りの設備を持つことが可能だし、どんな車が出入りしていても不思議じゃない。部隊の隠れ蓑としては、もってこいだと思わない?」
キースはなにも答えなかった。
「もっとも、患者が来たら困るから公的には医療実験設備ってことにしてるけど」
エレベータのドアが開いて、3人は降りた。病院らしい白い廊下。新しく塗り直したばかりなのか、白い壁が照明を反射して妙に目に痛い。敷地の広さの割にあまり人の気配は感じない。部屋に行くまでの間、キースは誰ともすれ違わなかった。
通された部屋は、デザイン性を廃し機能性のみを追求したようだった。部屋の中央に地図が広げられた大きなテーブルと、いくつかの椅子、サイドテーブル。あらかじめ用意していたのか、サイドテーブルの上にはアイスコーヒーがのっていた。
「コーヒー飲む?」
今日子の勧めにキースは首を横に振ると、
「いや、仕事の話をしよう」
「仕事熱心ね」
嫌みともとれる口調で今日子は言うと、テーブルの側面についているスイッチの一つを入れた。テーブルの上の地図がライトアップされる。
「仕事は前に言ったとおり、カワサキに捕まってる私が育てた少年2人の保護よ。2人は現在、カワサキ・セキュリティ社の特務7課が管理していて、通常は特務7課の本部の中にいるわ」
「じゃぁ、手が出せないんじゃないのか?」
キースの言葉に今日子はうなずいた。特務7課と言えばバルキリーほどではないが、その名は知られている特殊部隊だ。その特務7課の本部に攻撃を仕掛けるというのは、とてもじゃないが正気とは思えない。
「でも、唯一、手を出せるポイントがあるのよ」
今日子の視線が地図に向けられる。南区と東区の境目あたりの地図だ。地図上のいくつかのポイントには、赤い×印がつけられていた。その一つを今日子は指さすと、
「週に一回、2人はこの病院まで輸送される。そのときを狙うってわけ」
「病院?」
「カワサキ系の一般には公開されていない病院よ。理由はわからないけど、毎週水曜日、2人は午前10時に病院に入って、午後5時半に出てくる」
「でも、輸送経路は毎回、違うわけだろ?」
キースの言葉を聞いて、今日子は出来の良い生徒を持った先生のような表情で彼を見た。微笑みを浮かべて、
「そう。でも、一カ所だけ毎回、通るところがあるのよ」
びしっと今日子が指さしたのは、×印の付いた交差点だった。赤いマジックを取ってその交差点から次の×印の交差点まで赤い線を引くと、彼女は顔を上げた。
「ここは、絶対に通る。これを狙うわ」
赤い線の長さはほんの数センチしかなかった。実際の距離にしてみたら200メートル程度だろうか。
「でも、向こうはこのことに当然、気づいていてるだろう。難しいんじゃないのか?」
「じゃぁ、当日のルートをキースが突き止めてくれるというの?」
キースはなにも言えなかった。地図に目を落とす。赤い道路に面しているのは、ペニーレーンという名のライブハウスと、24時間営業のコンビニエンスストアぐらいで、残りは民家。直線で目立った脇道もなく、襲撃には好都合の場所のように思えた。
心を入れ替えるように、息を吐き出す。
「タイミング合わせはいつやるんだ?」
鋭いキースの声に、今日子はにぃっと笑みを浮かべた。
「ここでいい」
誰も住んでいないようなアパートの前に、黒塗りのセダンが止まった。東区の無秩序でエネルギーにあふれた喧噪が、かすかに聞こえてくる。ドアが開く。降り立ったのはキースだった。
東区。東京の闇の部分が集合し、行政府が再開発をあきらめ治安維持を放棄した街である。大戦によるスクラップと大戦前からの建物、再開発によって誕生した規格的な新しい建物が、奇妙にアンバランスな街並みを作り上げている。
セックス、違法ドラック、奴隷、違法ソフトウェア、違法ハードウェア。
手に入らないものはなにもない。法は存在せず、かわりにいくつかの不文律とマフィアの力とヤクザの力、それらのせめぎあいが存在する。どうしようもないほど混沌だがその混沌の中から活気が生まれ、東京一激しい街を創り出しているのだ。
セダンが走り出すのを待って、キースはゆっくりと歩きはじめた。角を曲がると、今にも倒壊しそうな団地が見えてくる。大戦直前に建てられて、大戦をへて様々な事情により今は管理者がいない団地。キースはその中の一棟に入っていった。
と、キースの足が入り口のところで止まる。階段のところに誰かいる。一瞬、緊張したキースだったが、それが見知った顔であることに気づいて、彼はその緊張をゆるめた。顔見知りの少女。このアパートに住んでいるもう一人の住人、アイリスだ。
「おかえり、キース」
肩までの透明度の高い金髪と、エメラルド色の大きな瞳が印象的な少女。アイリスの言葉にキースが片手を上げて応えると、
「はい、これ」
アイリスが一枚の紙片を差し出した。とりあえず受け取るとキースはそれを見ずに、
「なに、これ?」
「ライブのチケット」
かすかにふくれっ面のアイリス。そんな彼女を見てキースは、ふっと淡い笑みを浮かべると、
「また、ジェネレーションか?」
キースの言った名詞は東区にある著名なライブハウスだったが、アイリスはうれしそうに首を横に振った。
「違うもんね」
「え?」
驚きを含んだキースの口調を聞いて、アイリスの喜びは一つの山を迎える。笑みを浮かべて下からのぞき込むように少女はキースの顔を見上げると、
「ペニーレーン、知ってる?」
どこかで聞いたことがあるな。キースの”ペニーレーン”という名詞に対する認識は、そんなものだった。だから、反応も鈍いモノしか返せない。
「……ん〜、いや」
「南区にあるライブハウス。プロも使う凄いところなんだよ」
「へぇ〜、出世したんだな、ルナティックも」
ルナティックとは、アイリスがヴォーカルをつとめるバンドだ。メジャーデビューをしていないインディーズではあるが、CDも何枚か出しているしライブの動員数もかなりのものだ。アパートの一階がアイリスの住居兼ルナティックの専用スタジオとなっており、メンバーはいつもそこで練習していた。
「まぁね」
アイリスは階段から、ぴょこんと飛び降りた。部屋のドアノブに手をかけて、思い出したように振り返ってキースを見やる。
「絶対に来てね。約束だからね」
「約束なんて、できねぇよ」
再び、アイリスの表情がふくれっ面となった。さっきとは違う、最大級の奴だ。
「そんなこと言って、前も来てくれなかったじゃない」
「仕事で行けなかったんだから仕方がないだろ?」
前回のライブもキースはチケットをもらっていたが、そのときキースはマフィアのある幹部を殺す仕事で行けなかったのだ。アイリスはそのときのことを、いまだ根に持っているのである。
「仕事、仕事って……」
ため息混じりにアイリスは言うと、
「いったい、キースはどんな仕事をやってるの?」
「……」
キースに答えられるわけがなかった。自分の両手が血にまみれていることを、彼女に知られるわけにはいかなかった。キースが過去、マーフィーに所属していたことも、彼の今の仕事もアイリスには全て秘密なのだ。
「ねぇ、どんな仕事をやっているの? 教えてくれたっていいじゃない」
なぜ、アイリスに教えられないのか? その理由は、不思議なことにキース自身にもわからなかった。わからないけど、教えるわけにはいかない。そのことだけは、確かだった。強く確かだった。
「んまぁ〜、いろいろとだ」
曖昧に答えて逃げるように階段を上っていくキース。その背中にアイリスの怒りの混じった声が聞こえてくる。だが、キースは振り返るわけにはいかなかった。振り返りたい衝動をこらえて階段を上がり自分の部屋の前に立ったとき、キースは気づいたのだ。
ライブと、作戦地点。場所も日付も同じであるということに……。
キースのその言葉を聞いた瞬間の今日子の表情は、「なにを馬鹿なことを言ってるの?」だった。その表情を見てキースは自分の言葉を後悔したが、言ってしまった言葉が引っ込むわけではない。
「どうして?」
表情を消して真剣なモノに塗り替えると、今日子はそう訊いた。そう訊かれて、瞬間にキースは気づく。どう答えていいかわからないことに……。
襲撃ポイントを変更しないか?
それが、キースの問題となる言葉だった。
演習途中の休憩時間。演習自体は非常にうまくいっていた。今日子の部下たちの腕は確かだったし、チームのリズムが一つにまとまっていくのをキースは実感していた。これなら特務7課相手でもなんとかなるかもしれない、と実感させるようなできだった。
今日子もそう感じていたはずだ。それなのに、全てが順調にいっているはずだったのに、そんなことを問われれば誰だって怪訝に思う。キースは今日子の心理を痛いほどわかっていたが、それでも訊いてしまったのだ。
「いや……」
歯切れの悪いキースに、今日子の表情は怪訝なものとなる。
「そう言うからには理由があるんでしょ?」
まさかアイリスのことを言うわけにはいかない。知り合いが目の前のライブハウスでライブをやるから、作戦変更してくれないか? そんなこと言えるわけがない。言ってしまえば、その瞬間にプロとしてのキースはいなくなるのだ。
「いや、すまん……無理なのはわかってるんだ」
なんだか意味のなさない言葉を続けると、キースは再び言って後悔する言葉を吐き出してしまったのだ。
「じゃぁ、襲撃の日を変えることはできないか?」
「なんで?」
同じことの繰り返しだった。また、キースは問うたことを後悔し返答に困ってしまったのだ。
「すまん。いや、忘れてくれ」
謝ってばかりのキースだったが、今日子はそれ以上なにも言わなかった。ただ、
「変な奴」
と、肩をすくめただけだった。
アイリスの部屋のドアから漏れてくる歌声に、キースはじっと聴きいっていた。夏が近いとはいえ夜の空気はまだ冷たいが、それでも彼はコンクリートの階段に座って少女の歌声に聴きいっていた。
晩飯かわりのパンをかじって、眼を伏せて少女の歌声に心を任せる。コンクリートから冷気が体に伝わってくるが、それも感じないかのようにキースはじっと階段に座っていた。
歌を聴く。
どうしても言えない言葉がある
君の目の前に立つたびに 消えていってしまう言葉
どうしても言うことができない
パンをかじることも忘れて、キースはじっと少女の歌を聴いている。
雨の向こう 走っていく君を
消えるまで見つめていた 日曜の午後
どうしても言えなかった言葉を 噛みしめて
ボクは君のぬくもりを思い出そうと 努力する
気が向いたとき、ルナティックが練習しているとき、キースはこうやって歌を聴いていた。もちろん、アイリスたちは知らない。無関心を装いながら、キースはしっかりとアイリスを見守っているのだ。
本人も知らぬ間に……。
ただ 許して欲しい
君を想いつづけることだけを
そして、できれば聞いて欲しい この言葉
激しいドラムとベースが、不意にやむ。
君のために、生きているのかもしれない
歌が終わりドアが開きそうになるのに気づいて、キースは慌てて立ち上がった。階段を数段上がって、今、降りてきたような雰囲気で階段を下りてくる。果たして彼の意図したように、キースとアイリスは偶然、ばったりと出会ったのだ。
「アイリス」
キースの控えめな声に、アイリスは振り返って階段を見上げた。練習の休憩、ミネラルウォーターを片手に夜の空気を吸いに来るのが、アイリスのいつものパターンだった。
「どうしたの? キース」
汗で肌の色がうっすらとにじんだ白いTシャツ。かすかに肩も上下している。なぜか、アイリスに近づけない気がしてキースは階段の上に立ち止まったまま、
「いや、ペニーレーンのライブ……何時からだっけ?」
「チケット見てないのね? 書いてあるじゃない」
演技の怒りの口調でアイリスは言う。
「6時半開場で、7時スタート」
「アイリスたちは何時に入るんだ?」
「12時ぐらいだと思うけど……」
訝しげなアイリスの口調に、キースは彼女の興味の矛先がどこを向いたのかを敏感に感じ取っていた。どうにかそれを別の方向に向けさせようと考えるが、出てきた言葉はあまり役に立たない言葉だった。
「いや、別に……」
「別にって……」
どこかあきれた口調で彼女は言うと、
「来てくれるんじゃないの?」
「仕事でどうなるか……わかんないよ」
キースにしては珍しく弱気な口調だった。そのことに言った本人は全く気づかなかったが、アイリスはしっかりと気づいたらしい。キースににらむような視線を突き刺すと、
「どうしたの? なんかあったの?」
ここで言ってしまえば、どんなに楽だったろう。お前がライブをやる日、その目の前で車を襲撃する。だから、巻き込まれないように逃げてくれ、と……。
でも、言えなかった。アイリスを守るにはそれが確かだとわかっているのに、言えなかった。ギリギリのラインでも自分を守りたいのか、アイリスの中の自分を壊したくなかったのか、なにを言われるかわからないのが怖いのか……おそらく、その全てだろう。
「なんでもないよ」
否定でも肯定でもない言葉を吐き捨てるように言うと、キースは背中を向けて階段を上りはじめた。いつもよりゆっくりと階段を上りはじめたその背中は、少女の温かい手を求めているようだった。
でも、手が触れることはなかった。
今日子がキースに声をかけたのは、2セット目の演習が終わった後だった。
「今夜、あいてる?」
一瞬、今日子がなにを聞いてきたのかキースは理解できなかった。ハンドガンからマガジンを抜いて、やっと彼女がなにを言ったのか気づく。
「別に、予定はないけど……」
言ってから、キースは訝しげな表情で今日子を見やった。
「どうしたんだ?」
「別に……」
力弱くはぐらかしの台詞に続けて今日子は、
「じゃぁ、8時にシェオールね」
そして、シェオール。
キースが扉を開け階段を下り始めたとき、すでに今日子は一杯目のグラスをあけようとしていた。午後8時、5分過ぎ。待ち合わせの時間を少し過ぎてはいるが、今日子が先に来ているというのは珍しい。
コートを掛けて、今日子の座るテーブルに近づく。彼女が気づいて手を振って、キースは顎を引くようにうなずくと向かいのスツールに座った。ほとんど空になりかけているグラスを見やって、キースは、
「待ったか?」
「いや、そうでもない」
笑みを浮かべて、今日子は答える。
おしぼりを持って、ウェイターがやってきた。見たことのないウェイターだ。キースは思わず顔見知りのウェイターを捜したが、この店が昔と同じバーテン一人、ウェイター一人だとしたら、もう彼はいないことになる。
「スクリュードライバー」
静かにキースはウェイターに告げると、いじわるな口調で今日子に言った。
「で、少佐は?」
「ジントニック」
何事もなかったようなすました表情の今日子。だが、ウェイターが去ると彼女の声は一変した。すねたような表情でキースを見やると、
「プライベートの時は、名前じゃなかったっけ? それに、こんなところで階級で呼ぶことないじゃない」
キースはなにも答えず、にぃっと笑っただけだ。
客の数は少ない。キースと今日子のほかには、カウンターにカップルが一組。カウンターの方からはバーテンがシェイカーを振る音だけが、静かに聞こえてくる。それと、耳障りにならない程度のクラシック・ジャズ。
「飯は食ったのか?」
キースの問いに、今日子は曖昧に答えた。食べてないけど、いらない。少し考えてキースはナッツを頼んだ。
静かな時間が流れる。心地よいジャズの音だけが耳に聞こえてくる。キースは今日の用件を今日子に尋ねようとしたがすぐにやめて、ジャズのリズムに意識を預けることにした。だが、それもウェイターがスクリュードライバーとジントニック、ナッツの盛られた木の皿を持ってきたことで終わりを告げる。
短い楽しみだったが、キースにはそれで十分だった。
「おつかれ」
グラスをぶつけることなくキースはそう言うと、トールグラスに唇をつけた。ぬらす程度にしては多すぎる量を飲むと、彼は静かにグラスをおく。置いた瞬間の氷のぶつかる音が、妙に耳に心地よかった。
それがもう一度、聞きたくて、キースはグラスを揺らすが、二度と聞くことはできない。
「どう、うちの部隊? いい感じに仕上がってきたんじゃない?」
今日子の言葉にキースは曖昧にうなずいた。彼女の言うとおり、部隊の仕上がりは上々だった。兵士の練度には問題がないし、士気も高く、組織行動も申し分がない。十分、作戦遂行能力がある部隊になっていると言えた。
「さすが、寺西今日子の部隊だな」
冗談よりも本気の微粒子を多く含ませてキースは言った。だが、今日子は首を傾げ肩をすくめてみせると、
「私よりもキースの力の方が大きい。私一人だったら、ここまでできなかった」
「バルキリーと言われたお前に、そこまで言われるとは光栄だね」
笑みとともにキースは言う。
再び、空白の時間。ジャズの音色が静かに感覚を満たしていき、ゆったりとした空間と時間を生み出していく。
「ねぇ……私と一緒にやってみる気はない?」
「今日の用事というのはそれか?」
はっきりと鋭くなったキースの口調に、今日子は吐き出した言葉を少しだけ後悔した。だが、言ってしまったものは仕方がないし、どのようなタイミングで言おうとキースの反応は予想できたことであった。
「まぁね」
「前にもはっきりと言ったはずだ」
曖昧な今日子の口調に対して、キースの断定の口調は強いものだった。
「俺はもう部隊に属して人を殺したくはない。どこかに属して戦うのは、もうまっぴらだ」
「キースのことは調べた」
今日子の口調は静かだった。彼女から今まで「何度か一緒にやらないか?」という誘いはあったが、今日のはいつものと違う。何かが違う感じだった。
「終戦後、私と別れたあと、結局、あなたは人を殺して食べていたじゃない」
「殺し屋じゃない。エージェントだ」
「はっ!」
だが、キースの言い様は鼻で笑われてしまった。そして、今日子以上にキース自身が今の言葉の苦しさを知っていた。そう、自分は人を殺して生きてきた。
朱にまみれた僕の両手……
その罪深さは、部隊に属していようが個人でやっていようがその差はない。自分自身がそのことを一番、知っていたんじゃないのか? だから、アイリスに本当のことをうち明けることができない。うち明けてしまえば、きっと嫌われてしまうから……
「フリーのエージェント? 冗談じゃない。あなたの仕事はほとんどが暗殺じゃない。しかも、ヤクザやマフィアの抗争の片棒を担いだものばかり」
そこまで言って、今日子も自分が何を言っているのかに気づいた。気づいて、口をつぐむ。一口、ぐいっとスクリュードライバーを飲んで、喉の奥で冷たさを味わってから、キースは口を開いた。
「どうして、そこまで俺に執着する?」
それは今日子に最初に誘われてから、ずっと疑問に思っていたことだった。
「俺より、作戦指揮能力が高い奴は東京には腐るほどいるだろう。組織戦、特に特殊戦から俺は遠のきすぎた。今日子のそばにいて、お前の能力を高めてやれるようなことが、俺にできるとは思えない」
今日子は何も言わなかった。物言わぬ彼女の瞳を見つめながら、彼は言葉を継ぐ。
「それに、あいつはどうした? 副隊長の……」
一瞬、今日子の表情が曇った。
「そう、高橋っ! 彼の方が俺よりよっぽどできるんじゃないのか?」
「高橋はダメよ……」
今日子の言い様は、今までに見たことがないほど苦しげだった。
「高橋にこれ以上、迷惑をかけることはできない」
「だから……俺なのか?」
探るようなキースの言葉に、今日子は即座に首を横に振った。
「違うっ! そうじゃない!!」
「だったら、なぜ?」
今日子は何も答えなかった。視線を床にずらして、何事かを考えているようだった。じっと待つキースに、やがて今日子の静かな声。
「マスターズ大佐を覚えているか?」
はじめ今日子が何を言っているのか、キースには理解できなかった。マスターズ……名前をゆっくりと噛みしめる。そして、脳の奥の方でコトッと音がしたのは、本当に突然だった。
目の前によみがえってきたのは、ベトナムのあの暑い夏の日。
西脇っ!
友の名を叫びながら、キースはコンクリートむき出しの階段を駆け上がっていった。2段飛ばしで駆け上がっていって、目の前の扉を開ける。
そこに西脇はいた。コンクリートの壁に背中を預けて、目を閉じている。その様は眠っているようであり、キースはさっきの報告を嘘ではないかと疑いはじめていた。
西脇……嘘だろ?
片膝をついて、西脇の肩を揺らす。かすかに甘酸っぱいにおいが鼻につく。だが、彼は何も答えなかった。答えぬまま、どおっと床の上に西脇の体は倒れ込む。そして、そのまま……
本当かよ、マーフィーはアジア最強じゃなかったのか?
だが、誰も答えない。奇妙な静寂だけが、周囲を包む。死の静寂。
西脇の首のペンダント。そのペンダントの中の写真。写真の中でほほえんでいるのは、ベトナムに来る前に結婚した妻。その彼女の微笑みが、キースにはたまらなくつらかった。
中尉! キース!!
無線機から今日子の声が聞こえてくる。
グリーンベレーが掃討戦にくる可能性がある。撤退するぞ。
西脇を、連れてかえらなきゃ……
死体を回収する暇はない。すぐに戻ってこい、キースっ!
そうだ。ヤン、恵、ジャックも連れて帰らなきゃ……
しっかりしろっ! 死体を回収している暇はないんだ!
なぁ、今日子。戦争はもう終わったんじゃないのか?
「……キース?」
急速に、意識が現実に戻る。目の前のベトナムが消え失せて、先ほどまでのバーが出現する。不意に見える現実。
「ベトナムだろ?」
鋭いキースの声に、今日子はこっくりとうなずいた。
「あのときのグリーンベレーの指揮官、マスターズ大佐。あいつが、東京にいるんだ」
「本当か?」
すでに、キースの意識は決まっていた。あとは、どのように会話を運んで、自分自身を納得させるかだけだった。
「本当だ。佐川電子警備部の企画立案室の室長というのが、奴の今の肩書きだよ」
「一流の部隊じゃないか……」
噂には聞いたことがある。バルキリーほどではないが、それでもできれば避けて通りたい相手だ。腕は超一流、伝説と化した作戦もいくつかある。他の警備会社の部隊と違って、要人警護などの警備任務は行っていない。あくまでも少数精鋭、非公式な特殊作戦が専門の部隊だ。
「復讐か?」
無意識のうちに嘲笑のいり混ざった声で、キースは言った。復讐をしたところで死者が帰ってくるわけじゃない。西脇の妻の悲しみが癒えるわけじゃない。
「報復だよ」
うつむいた今日子の声は、限りなく氷のようだった。硬い硬い、氷のような決意。氷のような決意の声に、キースはなにも言えなくなる。
「私はあいつに部下を何人も殺された。あの男だけが私の唯一の心残りだった」
一気にジントニックを飲み干し、グラスを置く。
「で、キースはどうする? やるのか? やらないのか?」
「今でも夢に見ることがある。あのベトナムの暑い夜だ。もしかしたら、俺はあの夜からずっと逃げているのかもしれない……」
「……やるんだな?」
だめ押しの今日子の言葉に、キースはこっくりとうなずいた。
「OK。今から、お前もリベンジャーだ」
「今日子……」
静かなキースの声。
「マスターズを殺したら、お前はどうする気だ?」
「わからない。引退するかもしれない。もしかしたら……」
ゆっくりと今日子は立ち上がった。逆光に浮かび上がる彼女の姿は、バルキリーの美しさ。
「私はあの男を殺すために、ずっと戦ってきたのかもしれない」
シャワーで濡れた体をバスタオルで拭くと、アイリスは手早く下着とTシャツ、スウェットパンツを身につけた。髪をぐしぐしとタオルで拭きながら、水分を求めて洗面所を出る。
そこで彼女は戸口に立っているキースに気づいた。いつからそこにいたんだろう。インターフォンを鳴らしたがシャワー中のアイリスは気づかなかった。そこで、キースは勝手に上がり込んで待っていた。そんな感じ。
「どうしたの?」
わずかだけアイリスは驚いていた。キースが無断でアイリスの部屋に上がり込むことなんて、今までに一度もなかったからだ。
「いや、ちょっとな……」
語尾を濁すのもどこかキースらしくなかった。アイリスの目を見ずに、キースは言葉を継ぐ。
「今、いいか?」
「いいよ。あがって」
アイリスの了解を得てキースはようやく部屋にあがった。
冷蔵庫を開けてストックしてあるスポーツ飲料を取り出すと、アイリスはキースにそれを掲げて見せた。飲む? という意思表示に、キースは首を横に振る。アイリスは立ち上がると、プルタブに指をかけた。
「鍵、どうしたの?」
プシュッという音がして、缶の口から少量の霧が吹き出る。
「開いてた」
「そう」
短く答えてアイリスは冷えたスポーツ飲料をのどに流し込む。鍵は必ず閉めているはずだが、キースが開いていたというのだから開いていたのだろう。一瞬、嫌な想像をしかけたがぐっと我慢する。
キースがそんなことをするはずがない。
「どうしたの?」
アイリスの問いに、キースはわずかだけ逡巡した。この期に及んで用意してきた言葉にためらっているようだった。天井を見て、床を見てから用意してきた言葉を吐き出す。
「行けなくなった」
静かにチケットをテーブルの上に置く。キースの予想だとここでアイリスが子供のようにだだをこねるはずだった。それをなだめて、ふくれっ面の彼女をおいて帰るはずだった。
「そう、わかったわ」
だが、アイリスは静かに答えるとチケットを受け取ったのだ。呆気にとられるキースの目の前でアイリスは、チケットを戸棚の上にしまう。
「……悪かったな」
言うつもりのなかった言葉を言うキース。その言葉にアイリスは何も言わなかった。何も言わずにスポーツ飲料を一口、飲む。
いやな沈黙。予想だにしなかった展開に、キースはどうしていいのか全くわからなくなった。読めない表情のままにスポーツ飲料を飲むアイリスに、かけるべき言葉が全くみつからない。
「じゃぁ、帰るわ」
どことなくぎこちなく言うと、キースは片手をあげて玄関に向かって歩き始めた。ゆっくりと振り返って、一歩を踏み出す。
「……待って」
弱々しいアイリスの声。
「なんで来れなくなったの?」
「し……」
反射的にいつもの言葉が出かかって、なぜか、キースはその言葉を飲み込んだ。理由はわからない。やましいところはどこにもない。本当に仕事で行けないのだから、そう言えばいい。
でも、キースは言えなかった。
後ろ手にドアを閉める。
だから、キースはアイリスの呟きを聞くことができなかった。
薄い明かりの下で、キースはチケットを眺めていた。チケットに刻印されている日付は、今日。
アイリスに返したはずのチケット。だが、このチケットは今朝、キースの家の郵便受けに放り込まれていた。なぜ、そんなことをしたのか? キースはずっと考えていたが、アイリスの気持ちはわからなかった。
丁寧に折り畳んで、スーツの内ポケットにしまう。かわりに、左肩の下にぶら下げている銃を取り出した。
狭苦しいトラックの中に10名ばかりの男たちと、キースと今日子。トラックには引っ越し会社の会社名がペイントされていたが、その実、中身は立派な戦闘指揮車両だった。重厚な防弾処理に、小隊規模の指揮能力を有する電子機器。
「もう一度、作戦を確認する」
14インチの小さなモニターに映し出された作戦マップを参照しながら、今日子の声がトラック内に響く。鋭い今日子の声に、隊員たちはうなずくだけだ。彼女の言葉の合間、合間に質問が飛び、今日子はそれらに適切に答えていく。
だが、キースはほとんど今日子の言葉を聞いていなかった。作戦内容は頭に入っていたし、そもそもキースに作戦通りに動く気はなかった。彼は自分の仕事を今日子のサポートだと考えていたからだ。今日子の動くままに動き、サポートして、彼女の行動能力を限界まで高めるよう努力する。
それが、自分の仕事だと考えていた。
キースたちは、戦闘後の離脱を考慮して都市迷彩ではなく、スーツを着ていた。それと片手持ちができるアタッシュケースが一つ。アタッシュケースの中には、サブマシンガンのマガジンと手榴弾が入っていた。標準の装備はこれだけだが、キースはその他にも自前の銃を肩のホルスターに、腰の後ろにナイフを下げている。
「少佐」
後方支援班のオペレータの声が、車内に響く。
「周辺ネットの制圧を完了しました。半径2キロ、24時間監視下においています」
基地である病院跡地にいる後方支援班の任務は、ネットワークを通した戦闘支援や衛星高度からの周辺監視などである。今日子達、前線の兵士が後方の憂いなく戦えるよう、彼らは静かに戦い続けるのだ。
「目標、病院を出ました」
監視班からの通信。
「よし」
今日子はかすかに緊張の色のにじんだ笑みを浮かべた。
「監視を衛星班に引き継ぎ、撤退せよ。悟られるなよ」
「了解しました」
男の声に変わって、少女の片鱗をかすかに感じさせる女性の声。
「こちら、衛星監視班です。目標を確認しました」
「諸君」
珍しいことに、今日子の声は興奮していた。それと、緊張が少し。バルキリーと呼ばれ戦場を駆け抜けた彼女であっても、未だ緊張することがあるというのか。それとも、戦いの序章が始まったことの喜びなのか。
そう、この戦いはこれだけでは終わらない。あの暑い夏にケリをつけるための、これは始まりにすぎないのだ。
「我々の初陣だ。せいぜい楽しもうではないか」
息を吸い込む。
「時計をセットする」
言われて、キースは自分の脳の123番ポートを開き、今日子の脳とコネクションをはった。全員が今日子と脳内時計をあわせるために、123番ポートのコネクションを彼女とはる。全員が自分の脳に接続したことを確かめると、今日子は時計を合わせるコマンドを全員に発行した。
そのコマンドにあわせて、キースは時計をあわせる。
「よし、作戦開始だ」
何度も聞いたその今日子のその言葉は、今までで一番、高らかに響いたような気がした。
「装備の最終チェック。もうミスは許されないぞ」
ライブハウスの中に響く、獣の彷徨のようなギター。客が誰もいないガランとしたライブハウスは、どこか寂しげだった。
ルナティックの最終リハーサル。客が入る1時間前。照明や音響の最終チェックも兼ねたリハーサルが終わった。あとは、片づけて客を入れるだけだ。その間、ルナティックのメンバーには休憩と精神集中という大きな仕事がある。
「お疲れ!」
今回のライブを企画したプロデューサの安っぽい声が響いたが、答えたモノは誰もいなかった。一瞬、プロデューサの顔が不機嫌色に染まりかけたが、それを防ぐようにドラムのサリーが「どうも」と答える。
「本番もその調子で頼むよ!!」
かろうじて機嫌を維持しているプロデューサの声に、メンバーは今度は片手をあげて答えた。そして、そのまま、聖域である楽屋に入っていく。
メンバーが言葉をかわす中、アイリスだけが無言だった。無言のまま彼女は上着を着て、外に出ていこうとする。
「どこにいくんだ?」
八木の声に、アイリスは立ち止まった。ドアノブを握ったまま振り返らずに、
「ちょっと外に」
「正気?」
ベースの美佳の素っ頓狂な声。
「そろそろお客さんも集まってきているのよ。今、出ていったらパニックになるわよ」
「大丈夫。眼鏡、かけていくから」
アイリスの言葉に美佳は納得しなかった。何か言いかけたが、それを制するように八木が言う。
「何しに行くんだ?」
「……」
間。何かを考えているように見える。
「ちょっと外の空気を吸いに……」
「5分だけだぞ」
八木の言葉にアイリスはこくっとうなずくと、ドアを開いて外に出ていった。
「よし」
今日子の低い声で、車内に緊張が走った。
「一号車、出発しろ。2号車、3号車、続け」
小さな切れ目のような窓から、外をうかがう。見た目はどこぞの会社の商用バンだが、その実、重量2トンの完全防弾車が走り出すのが見える。続いて、キース達のトラック。最後に、重量2.5トンの完全防弾ベンツが続く。
サブマシンガンを手に取り、最後にマガジンを確認する。スライドを引いて最初の弾丸を、銃倉に送り込む。胸ポケットからミラーシェードを取り出して、瞳をメタリックブラックで隠す。
流れるような一連の動作の後、囁くようなキースの声。
「なぁ……ショットガン、使ったらダメか?」
「ショットガン・ヒーロー……」
今日子の声は、子供をたしなめる母親のようだった。
「今日はそういうのはなしだ。わかるだろ?」
キースは不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。体を90度入れ替えて、切れ目のような窓から外を見る。車内でゆっくりと高まっていく緊張感とは無縁のようなキースの行動に、今日子は薄くほほえんだ。
道は帰りを急ぐ車や人でいっぱいだった。こんな場所で戦闘をすれば、一般市民が巻き添えになるのは必至だ。キースにだってそれぐらいの想像力はあったが、彼はその想像を頭の外に追いやっていた。
そんなことを考えたら、その瞬間にこのトラックを降りなくてはいけなくなる。キース達は、食卓のパンをちぎるように人の命を奪わなくてはいけないのだ。何も考えずに、呼吸すると同じ等しさで人を殺す。
トラックのスピードが上がった。車内に響くオペレータの声が、目標との距離が接近してきたことを告げる。無意識のうちに、サブマシンガンを持つ手に力がこもる。
トラックが左折する。戦場までは、ほんの少しだ。
不意に、黒山の人だかりが見えた。キースは、すぐにそれがルナティックのライブに来たファン達であることを理解した。カトリックの教会を模したその建物は、間違いなくペニーレーンだ。
瞳を閉じてゆっくりと開ける。それから、視線を車内に戻そうとしたときだった。キースはその場にいてはいけない人間を見たのだ。ライブまでわずかの時間しかないのに、どうしてそのバンドのヴォーカルがライブハウスの外にいるのだ?
もちろん、アイリスは色の深いサングラスをしていて、パッと見には彼女とはわからない。いや、よく知っている人間でも気づかないだろう。それぐらい、彼女の変装はうまくいっていた。それでも、キースは一目見た瞬間に、彼女だと気づいたのだ。
「今日子!」
ほとんど反射的にキースは、指揮官の名前を呼んでいた。それは、犯してはならない愚行であったが、今日子はそれをとがめなかった。それをとがめる暇がなかった。
なぜなら、一号車が目標車両に接触、作戦がスタートしたのだ。
アイリスがそれに気づいたのは、女性の甲高い悲鳴があたりに響いたからだった。同時に、にぶい衝突音とガラスの砕ける鋭い音。アイリスは体ごとそちらに向き直った。
事故だ。ドアに会社のロゴが入った白いバンと、トレーラーの正面衝突事故だった。バンが対向車線を走っていたトレーラーに突っ込んだらしく、鋭角にバンがトレーラーに突き刺さっている。
トレーラーの横に並ぶように2台のベンツが止まり、バンの後ろにトラックとベンツが止まった。アイリスはただの事故かと思い興味をなくしかけたが、しかし、ただの事故であったのはそこまでだった。
トラックの後ろのドアが開いて、バラバラと人が降りてきたのだ。同時にベンツのドアも開いて、人が降りてくるのが見える。そして、驚くべきことに彼らは全員、武装していた。ほとんど、同時に散発的な銃声。
「なに……?」
呆然と、アイリスはその場に立ちつくすことしかできなかった。
トラックのドアが開かれると同時に、兵士達は飛び出していった。兵士達の最後にキースはトラックから出て、最後に今日子が飛び降りる。的確な動きで兵士達は戦場の橋頭堡を確保し、確実にトレーラーに詰めていく。
「隊長自ら、最前線に立つのはあまりお勧めしないのですが?」
皮肉混じりな口調でキースが言うと、今日子はにぃっと微笑んだ。
「それでも、私は最前線に立つんだよ」
言うなり、今日子も動き始める。的確に目標に銃弾を叩き込みながら、キースのサポートを受けてトレーラとの距離を詰めていく。距離は、10メートル前後。一気に詰めることができる距離ではない。
それにしても、舌を巻くのは今日子の実戦能力だった。普通、部隊の長ともなればその個体戦闘能力は部下の兵士よりも劣るはずだ。だが、どうだろう。彼女の場合はその公式が当てはまらないらしい。確実に部下よりもいい動きをして、距離を詰めていく。その戦いの様は、まさにバルキリーだった。
バルキリーとは、彼女の率いる部隊に与えられる称号である以上に、彼女自身の称号なのだ。戦場でしか生きることのできない戦乙女、寺西今日子。敵は伝説と化している彼女を見ると同時に、また、死も見るのだ。
「少佐、行政府警察緊急展開部隊が動きはじめようとしています」
オペレータの声。オペレータと今日子の通信は、キースも傍受していた。作戦行動上、必要な情報だからだ。
「行政府警察の動きを止めろ。野村部長の名前を出してもいい」
今日子の指示を聞きながら、キースは視線をすっと横にずらした。先ほどアイリスを見たあたりを見やるが、彼女はすでにそこにはいなかった。軽く視線をさまよわせて……いた! ペニーレーンから少し離れたところに、彼女はまだいた。なにを考えているのかわからないが、彼女はこの戦闘を見続ける気らしい。それとも、キースを見つけたのか?
最悪の選択肢を頭から振り払うと、キースは眼前の戦闘に集中した。
戦況は良くなかった。確実に距離は詰めているものの、時間がかかりすぎている。行政府警察の部隊もいつまで押さえ続けることができるかわからないし、カワサキの部隊が展開してくる可能性もある。
悲鳴と怒号と銃声。
様々な音が交錯していく中を、キースと今日子はトレーラへ接近していく。その中にいるはずの、二人のこどもたちに近づくために。
「K……」
どこか夢遊病患者のような今日子の呟き。
「M……」
今日子の戦闘のサポートしながら、キースはもう一度、視線を横にずらしてアイリスを捜した。さっきの場所にはもういない。ライブハウスの中に戻ったのか? そう考え、キースが安堵の息をつこうとしたときだった。
再び、アイリスを見つけたのだ。そして、視線があう。さっきよりも彼女は戦場に近いところにいた。はっきりとした驚きの表情で、キースを見ているのがわかる。
「カワサキが部隊の展開をはじめました。現場到着まで、およそ5分です」
ミラーシェードをしているから、キースとわからなかったかもしれない。だが、そんなものは一時の慰めでしかなかった。アイリスは確実にキースであることをわかったはずだ。そうでなければ、あんな表情をするわけがない。
一瞬、キースの頭の中が真っ白になる。
女の声。
「キース、突っ込むぞ!」
アイリスは自分が見たモノが信じられなかった。まさか、そんなところにキースがいるわけがない。じゃぁ、自分が今、見たのはいったい誰なの? 間違いなく、あれはキースだった。
「どうして……」
これが、キースの仕事だって言うの?
本人の意識せぬまま、アイリスは一歩、前に踏み出していた。
電撃のようなスピードで、キースと今日子は一気にトレーラとの距離を詰めていった。正確な射撃で敵にブレッドを叩き込み、おまけとばかりにトレーラの運転席に手榴弾を投げ込む。
投げ込まれた手榴弾に運転手は反応しようとしたが、残念ながらそれは叶わぬ夢だった。窓ガラスを破りシートの上を転がっていく手榴弾。運転手がその存在を知覚した瞬間、手榴弾は爆発したのだ。
鼓膜を叩く爆音と熱と爆風の嵐にその場にいた全員が動きを止めたが、キースと今日子だけは違った。五感を揺るがす嵐の中を的確に動いて、トレーラに肉薄する。嵐が収束したとき、トレーラの一番後ろ、カーゴ部の扉はキースと今日子によって確保されていた。足下には、いくつかの死体。
「少佐、行政府警察が動き始めました。カワサキ、現場到着まで3分」
カーゴの扉がロックされていることを確認すると、キースはアタッシュケースからLINEX爆薬を取り出した。爆薬を扉にセットし、信管と有線の爆破装置をセットする。今日子と兵士達が安全圏まで下がったことを確認して、キースは爆破装置のスイッチを入れた。
さきほどの手榴弾よりも控えめな爆音。爆風でカーゴの扉が少しだけ開いたのが、ロックが破壊された証だった。
「おい」
キースの声に、兵士が二人、カーゴの扉のそばに立った。他、数名の兵士が中への突入に備えて、配置につく。
「カウント3だ」
声には出さずに、インプラントしている無線機でキースは兵士達にそう指示をした。了解の旨が帰ってきてから、キースはカウントをはじめる。
「3、2、1、Go!」
二人の兵士によってカーゴの扉が開かれる。すぐには、突入しない。外で戦闘が行われていることから、カーゴ内の兵士が突入を予想しているからだ。
だが、予想された銃撃はなかった。キースはカーゴの中に視線を走らせたが、中は暗く肉眼では様子をうかがうことができない。
「少佐……」
キースの声に、すべてを理解して今日子がカーゴの中を見やる。彼女の視界は可視光線や赤外線と切り替えることが可能で、今の彼女は暗闇を見通す赤外線でカーゴの中を観察していた。カーゴの中には、4人いた。だが、不思議なことに誰もが銃を構えていなかった。
「4人いるが……」
呟くように言うと、今日子はカーゴによじ登った。部下たちがあわてて止めようとしたが、今日子はその動きを片手で制する。迷わず、キースもその動きに従った。カーゴによじ登って、中に立つ。
不意に明かりが灯された。うっすらとしたやわらかい明かりの下で、キースも中の様子がやっとわかるようになる。
作業服のようなものを着た4人の男が両手をあげて、立っていた。銃器は持っていない。一番、年長の男、おそらくこの4人の中のボスであろう男の足下に、大きなジュラルミンケースが二つ。
ほかには、なにも、誰もいなかった。
「リーダは?」
鋭いナイフのような今日子の声に、年長の男がうなずく。
「私だ。抵抗はしない。全員、投降する。ガーンズバッグ協定に基づいた処遇を要求する」
「KとMは?」
すでに、今日子はKとMがどうなっていたかを理解していた。リーダの足下にジュラルミンケースを見た瞬間、すべてを理解していた。にも、関わらず、今日子の声は落ちついていた。
「これだ」
声とともに、視線で指し示されたのは足下のジュラルミンケース。今日子の瞳が微妙に変化したように、キースには思えた。
「草上っ! こいつら全員を連れていけ」
今日子に言われたとおり、今日子の部下が4人を連れてカーゴから降りた。降りたところで、今日子は振り返りもせずに言う。
「4人とも殺せ」
「馬鹿なっ!」
叫んだのは、さきほどのリーダだった。
「ガーンズバッグ協定を破る気かっ!? カワサキが黙っていないぞ!!」
「カワサキなど関係ない」
今日子の冷たい氷のような声に、リーダは口をつぐむ。背後で散発的な銃声を聞きながら、彼女はジュラルミンケースを見下ろした。
「今日子……」
キースの声に、今日子は黙ってうなずく。
「いや、こうなっていることはわかっていたんだが……」
ゆっくりと、今日子は二つのジュラルミンケースを開けた。中に入っていたのは、培養液に浸かっている二つの脳。KとMのなれの果てだった。
「……今日子」
キースはどう声をかけたらいいのか、わからなかった。こんなに悲しげな表情をする今日子を見るのは初めてだったし、彼女の背中はすべてを拒絶しているようだった。物言わぬ物体になってしまった二人の子供を、見下ろす今日子。
「私はこいつたちを……救ってやりたかった」
呟くような今日子の声。彼女はさらに何か言いかけたが、
「少佐、カワサキ、現場到着まであと2分30秒です」
オペレータの声を待っていたかのように、今日子はサブマシンガンを構えた。銃口をゆっくりとKとMに向ける。
引き金をひいた。連続した銃声がカーゴの中に反響し、耳を覆いたくなる。悲鳴のような音をたててガラスが割れて、脳髄が不気味な音を立てて破裂する。銃弾がカーゴの床に突き刺さり、脳がゆっくりと流れ出す。
マガジンが空になり、今日子は次のマガジンを取り出した。空のマガジンが吐き出されて、新しいマガジンをサブマシンガンにセットする。そして、引き金を引こうとした右腕をキースが力強く押さえ込んだ。
ハッとした表情でキースを見る今日子に、彼は黙って首を横に振った。
「そこまでだ」
「キース。わたし……」
泣き出しそうな今日子の顔。彼女が泣くのを忘れてしまって、どれだけの時間が過ぎたのだろう。ベッドの中で泣く彼女をいくどとなく慰めていたことを思い出す。あれ以来、今日子は泣いてないのだろうか?
「泣くのはあとだ」
わざとキースは突き放すように言う。
「今はバルキリーの仮面を被っていてくれ」
今日子の視線の先には指示を待つ部下たちがいた。優秀な部下たち。だが、今日子の指示があってこそ部隊は一つの動物として機能するのだ。そして、今日子の率いる部隊は間違いなく最強の猫科の動物だった。獲物を狩るためだけに進化した、究極の戦闘動物。
「わかってる……」
顔を伏せ、部下たちを見やる。
「よし、離脱するぞっ!」
今日子の声に部下たちは一斉に行動を開始した。
現場離脱に際して、今日子は特に作戦を作成していなかった。今日子が指示したことと言えば、待ち合わせの時間と場所だけだ。現場からの離脱は各々の力量に任せる。今日子は部下たちにそう言っていた。
密度の高い都市において、部隊を編成し撤退することには大きなリスクを背負うことでもある。今回の作戦において今日子は部隊を細かいセルにわけることで、巨大都市に浸透させようとしたのだ。水に溶け込んだ食塩を分離することが容易ではないように、都市に溶け込んだ人間を狩り出すことは容易ではない。今日子はそれを狙ったのだ。
今日子とキースがカーゴから降りたとき、すでに部下たちの姿はなかった。指示通りである。あとは、今日子とキースが逃げ出すだけだ。
「さて、少佐殿」
任務が8割方終わった開放感か、キースの口調は明るいものだった。もちろん、作戦はまだ終わってない。だが、この二人にとって戦闘現場からの離脱などディナーの最後のデザートみたいなものだった。
「どう、逃げ出しましょうか?」
「近くのスーパーに車を置いてある。そいつを使う」
にこりともせずに、今日子は言った。
「了解」
今日子の逃走手段に相乗りするつもりであったためキースは、自前の逃走手段を持ち合わせていなかった。それをおくびにも出さずに慇懃にうなずくと、キースは今日子の後ろについて走りはじめた。
戦闘によって交通が麻痺した道路。立ち往生している車をすり抜けて、二人は今日子の言うスーパーに向かって走る。
どこからか散発的な銃声が聞こえてきた。未だ抵抗する勢力があるというのか? キースと今日子の間に軽い緊張が走った瞬間だった。
キースの走る足が、不意に止まったのだ。視線はただ一人の少女をとらえて、彼は文字通り立ちつくした。少女と視線があい、からみあってほどけない。もう言い訳はきかない。
右手にサブマシンガン、返り血を浴びた黒いスーツ、煤けたミラーシェード。
「……キース?」
アイリスの呟くような声。それに答えるようにキースはミラーシェードをはずした。もう一度、二人の視線がゆっくりとからみあう。
「どうして、ここに……」
キースはなにも言えなかった。答えるべき言葉を見つけることができなかった。もっともアイリスに見せたくなかった姿を、見られてしまったのだ。真っ赤な血に汚れた自分の両手。いくら洗ってもその血は、けっして落ちることはない。
頭上をヘリが通過していく。カワサキの部隊が到着したのか? ここにこれ以上とどまれば、戦闘になることはわかっていたが、キースは動けなかった。何か言わねば、という気持ちだけが空回りして、なにも言えなくなる。
「キースっ!」
今日子の声。意味はわかっていた。一秒でも長くいればそれだけ危険は増す。そんなことは言われなくてもわかっていた。だが、キースは動けなかった。ただ言葉だけを捜している。
「アイリス……」
やっと出てきたのは、呟くような彼女の名前。一歩、前に踏み出して、両手を広げる。まるで、神に懺悔しているよう。
「これは、全部、キースがやったの?」
視線で戦場を指し示して、アイリスが訊く。感情のこもっていない平坦な声だった。冷たくなってしまった死体と、重傷を負ってうめき声をあげることしかできない兵士たち。これらすべてがキースの仕業なのか? と、アイリスは訊いているのだ。
「いや、これは……」
しどろもどろになるしかないキース。作戦のすべてを説明するか? そんなことできるわけがない。かといって、アイリスの言葉を無条件に認めることなどキースにできるわけがなかった。言葉を捜すが、望むような言葉は出てこない。
「こんなことが……キースの仕事だっていうの?」
もっとも聞きたくなかった言葉。アイリスの口調は、血と硝煙にまみれたキースを嘲り見下しているようだった。やはり、知られてはならなかった。知られた以上、もう元には戻れない。
「どうして……」
だが、次のアイリスの言葉はキースの予想を裏切るものだった。涙の混じった声。視線をあげてアイリスの顔を見る。そして、驚く。両目に涙をためて泣くのをこらえる少女の姿に。
どうして、泣いているのか? キースの本当の姿があまりにも情けなかったからか? それとも、なをキースを受け入れようとしてくれているのか? アイリスの涙の意味を推し量ろうとするキース。だが、次の言葉を聞いて彼はすべてをやめた。
「どうして、言ってくれなかったの?」
ゆっくりと、氷が溶けていくようにアイリスの心を理解していく。
「私が理解できないと思っていた? 受け入れることができないと思ったの? 教えて、キース。どうして、こんなことをしているの?」
「大戦が終わって、俺にはこれしかなかったんだ」
叫ぶようなキースの声。
「政府に見捨てられた俺に残っていたモノといえば、殺しの技術だけだった。あの混乱期を生き抜くためには仕方がなかったんだっ!」
叫び、キースはサブマシンガンを持ち上げた。
一歩、前に踏み出る。
銃口がアイリスに向けられる。驚きと恐怖の入り混じった表情でキースを見るアイリス。ゆっくりと人差し指が、トリガーにかけられる。キースの瞳に殺意が満ちていく。
「キース!」
アイリスが叫ぶ。
「伏せろ、アイリスっ!」
叫びながら、キースの視線はアイリスの背中の向こうに向けられていた。キースの後ろで今日子が同じようにサブマシンガンをかまえるのが見える。しゃがみ込みながら、アイリスは振り返った。仲間の死体を盾のようにして立ち上がった兵士。強固な殺意を集中させている彼の銃口に、アイリスの動きが止まる。
銃声。
銃弾がキースの右の太股を貫いた。熱く焼けるような痛みにキースの体が傾ぐ。「くっ」と、歯をかみしめ倒れ込むのをこらえようとして、反射的に右手の人差し指に力がこもる。トリガーを引いてはならないと、キースは力を抜こうとしたが、遅かった。
サブマシンガン特有の軽い連続した銃声。
痛みにゆがむ視界の中で、キースは見た。銃弾がアイリスの体に突き刺さっていくのを。
「アイリス!」
血にまみれ倒れていく彼女にキースは駆け寄ろうとしたが、右足はそれを許さなかった。彼の意志に反して右足はその仕事を放棄し、キースはぶざまに路上に倒れ込む。立ち上がり少女に近づこうとするキースの腕をつかんだのは、今日子だった。
「キース、撤退だ!」
「でも、アイリスがっ」
子供のようなキースの声。今日子の腕を振り払って彼は倒れている少女に近づこうとしたが、今日子はそれを許さなかった。
「シノハラ医科大学に救急ヘリを要請した。5分以内に到着する。問題はない」
「でも、アイリスがっ」
「行くぞっ!」
キースの腕をつかんで強引に立ち上がらせると、今日子は走り出した。今日子に引きずられるように走り出したキースだったが、それでも視線はアイリスからはずれることはなかった。空の上にヘリの音。それが救急ヘリなのか、キースにわかるすべはない。
角を曲がって視界からアイリスが消えるまで、キースはずっと彼女の名前を叫び続けていた。彼女の血で自分の両手が染められたことを感じて、もう一度、叫ぶ。
以後、キースはアイリスの前から姿を消した。
To Be Continued...
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