第1章 ひとりめは少女
一億人を抱える超巨大都市東京の郊外には、鬱蒼とした森林が広がっている。大戦によって荒れ果てた土地を復活させようという、緑化プラン。その成果である。
その森を横切る幹線道路。人気のない道路を、数台の車が走っていた。深夜、周囲に明かりはなく、車のヘッドライトが照らすのみ。
車は巨大なカーゴを牽引したトレーラーと、4台の乗用車だった。乗用車は2台づつトレーラーを縦に挟むように位置しており、の幹線道路を東京に向けてひた走っている。
トレーラーのカーゴに描かれているのは、野沢運送の文字とそのマーク。
その車内には、二人の人間がいた。運転席と助手席。性別は違った。ハンドルを握っているのが男性で、助手席で夜の森を眺めているのが女性。ラジオからは、深夜放送の古い歌が流れている。
運転手は、チラッと助手席の女に視線を走らせた。ハンドルを握りながら、気づかれないように本当に一瞬だけ。いつも通り、ミラーシェードに男物のスーツ姿。その姿を一瞬だけ見て、運転手は視線を前に戻した。
シノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリー、隊長。それが女、寺西今日子の持つ肩書きだった。社内での階級は少佐。
この時代、シノハラ・セキュリティ社やSSF社といった企業グループの警備部門は、行政府の軍や警察機構と同等かそれ以上の権力を持っていた。東京の政治を行っているのは行政府だったがそれは表看板だけであり、実際に東京を支配しているのは行政府に出資している大企業なのだ。そして、シノハラグループはそれら大企業の代表格だった。
今日子がトレーラーの助手席に乗っているのに、特に格別の理由はなかった。重要物品を輸送する際に隊長自ら護衛に付くのは珍しいことではないが、それでも普通は前後どちらかの車に乗る。今日子がトレーラーの助手席に座っているのは、全くの気まぐれだった。もっとも、トレーラーの運転手には荷の重い気まぐれではあるが………。
ラジオから流れてくる曲が変わった。昔、流行ったACCESSというユニットの曲。
「あ………」
今日子が小さく言葉を漏らすのを、運転手は聞き逃さなかった。
「少佐、なにか?」
「いや、この曲………」
今日子の視線の先が、窓の外の森から車内に移った。真っ直ぐにラジオを見ると、
「私が好きだった曲だ………」
「ヴォリューム、上げますか?」
訊くと同時に、運転手はラジオを操作していた。先ほどより少しだけ大きな音が、車内を満たしはじめる。少し高めの男性ボーカル。ほとんど無意識のうちに、今日子は足でリズムを取っていた。
爆発音と衝撃がトレーラーを襲ったのは、その次の瞬間だった。閃光が視覚を、爆発音が聴覚を激しく刺激し、衝撃でトレーラーの片輪が浮く。運転手は何が起こったのか理解できないまま、横転を防ごうとハンドルを闇雲に回した。
だが、それは無駄な努力だった。そのままのスピードを維持しながら、トレーラーは横転したのだ。金属がアスファルトにこすれる音が今日子の耳を痛く刺激し、横転の衝撃が彼女の体を揺らす。
横転したトレーラーはアスファルトの上をそのまま横滑りしていき、ガードレールを破った。大きくバウンドして草地に落ち、森の中に突っ込んでやっとその動きを止める。
体に大きな異常がないことを確認すると、今日子はシートベルトを外した。それから運転手を見やる。気を失っているのか、ドアに体を預けたままぐったりとしている。
「軍曹!」
運転手の階級を呼んでその肩を揺らすが、運転手は目を覚まさなかった。もう一度、名を呼んで肩を揺らすがやはり同じだ。仕方がない。今日子は運転手を起こすのをあきらめて、車外に出ようとした。
「少佐!!」
体内に内蔵している通信機から、ほとんど悲鳴のような声が脳に飛びこんできた。護衛の車に乗っていたバルキリー副隊長、今日子の右腕である高橋中尉の声だ。脳を直接刺激したその声に、今日子は顔をしかめると、
「どうした? 中尉」
「無事でしたか………少佐」
「状況を説明しろ」
通信機を体内に内蔵………インプラントしているために、声を出して通信する必要はない。脳で考えれば、通信することができるのだ。ゆえに、他人から見れば通信しているとは思えない。
今日子は懐から銃を抜くと、銃把で助手席のドアの窓ガラスを打ち破った。そこまでやってようやく彼女は気づいたのだ。硝煙の匂いと、行き交う銃声に………。戦闘がはじまっている。
「現在、交戦中です、少佐」
高橋の報告が今日子の考えを裏付けた。
「敵規模は不明。位置は道路を挟んだ向こうと思われます」
「本部に緊急連絡。第2、第3小隊を緊急展開させろ」
指示を与えながら今日子は割った窓から顔を出して、外の様子をうかがった。ミラーシェードに組み込まれている暗視機構によって、彼女の視界は昼間と同等になる。
情勢は完全に不利だった。敵の位置がどこか完全にわからないので、部下達も銃声の聞こえてきた方向にやみくもに撃ち返している。敵の狙いがトレーラーの中のモノであることは明白だった。とすれば、すでにトレーラーも敵の手の中かも知れない。
その時、カーゴのドアが開く音が聞こえてきて、今日子は反射的に体をそちらに向けた。見れば、カーゴのドアが開こうとしている。だが、人の姿は見えない。不可視迷彩か? 今日子はそう即座に判断すると、狙いもつけずにトリガーを絞った。現状で敵の姿を視認できない以上、狙いをつけても無駄だった。
だが、すぐに銃弾が今日子の周りに殺到して、彼女はすぐに首を引っ込めた。どう考えても不利な戦闘だ。銃弾が殺到して、今日子は窓から顔を出すことすらできない。
「敵はトレーラーだ!」
叫ぶように部下に指示を与えたとたん、銃撃がやんだ。散発的な銃声が聞こえてくるが、これは今日子の指示を受けた部下のモノだろう。たっぷり30秒ほど待ってから、今日子は再び部下に指示を出した。
「銃撃やめろ。1班、2班、トレーラー周りを調べろ」
全ての銃声が消えた。妙な静寂が場を支配する。
今日子は窓から外に這い出ると、草地の上に降り立った。開け放たれたままのカーゴのドアの周りには、すでに部下達が集まっている。カーゴのドアの前にいた高橋が今日子に気づいて、彼女の階級を呼んだ。
「少佐!」
「なにかあったか?」
少し小走りで今日子は近づくと、高橋の横に並んだ。それから、カーゴの中をのぞいて、
「やられたな」
今日子はそれしか言葉にならなかった。それ以上は言えなかった。
「負傷者は?」
事務的な今日子の言葉に対して、高橋も事務的な言葉で対応した。
「5名です。どうしますか?」
「ここから一番近い基地はどこだ?」
「SSF社の第3基地です」
ほんのわずかの時間、今日子は考えると、
「そこのベットを借りるしかないな。基地指令との回線を開け」
「了解しました」
高橋が車に戻っていくのを見送って、今日子はもう一度カーゴの中を見た。
カーゴの中にあるのは、密閉型の特殊なベット。
今は開放され中には何もない5つのベット。そのベットの中にいた5人の少年少女は、もうどこにもいなかった。
SSF社第3基地内、演習場。
バトルシェルの狭いコックピットの中で、サーリット・メイスンは大きく息を吐き出した。何度目かは、彼女自身もわからない。極度に緊張したときの彼女の癖だった。
ジャック=イン端子を通して脳に直接流れ込んでくる戦術情報を整理すると、彼女は目の前の森に向かって熱源スキャンをかけた。森の中に潜んでいると思われる敵役………322中隊のバトルシェルを探し出すためのスキャンだ。
網膜投影で映し出されている光景に、サーモグラフの映像が重ねられていく。
戦場にバトルシェルと呼ばれる人型の高機動装甲兵器が出現したのは、大戦が勃発する2年前だった。バトルシェルは世界がきな臭くなるにつれ世界中に広まっていき、大戦で従来の装甲車両に並ぶ戦場のもう一つの主役となった。
平均的な全高は、約10メートル。一般的には人型。2本の手で重火器を扱い、2本の足で移動する。装甲は機動性を重視しているために、20ミリバルカンに耐えうる程度。兵装も手にライフルを持つ程度で、重武装タイプは滅多に存在しない。
コックピットは、胸部。完全密閉型で視界は網膜投影によって確保され、視覚的要素を必要としない戦術情報は全てジャック=イン端子を通して、パイロットに供給される。
ジャック=インとは、コンピューターネットワークの究極的な姿サイバースペースに精神を投影する技術のことだ。従来のネットワークアクセス・デヴァイス、キーボードなどに比べて、信じられないほどの量の情報を一度に扱うことができるため、バトルシェルにその技術が応用されたのだ。
30秒ほどの時間をかけた熱源スキャンは、徒労に終わった。バトルシェルらしき熱源分布の存在を確認できなかったのだ。ここにバトルシェルがいないとしたら、中山かフォスターの方か?
メイスンがそう考えを巡らせながら機を動かそうとしたときだった。センサーが林の中に一つの特殊な熱源分布をとらえたのだ。林の中に人らしき熱源分布が存在している。
「どこかのスパイか?」
口に出してメイスンは推測したが、すぐにその推測を捨てた。熱分布を分析したコンピューターがそれを「10代の少女相当」と報告したからだ。スパイの中に少女がいることは否定できないが、それでも現実的な推測ではない。
メイスンは機をゆっくりと林の中に入れると、その熱分布に近づいて行った。すぐに、視界の中にうつ伏せになっている少女の姿が現れる。だが、少女はバトルシェルが近づいてもピクリとも動かなかった。
「………やばいな」
メイスンは呟くと、ヘルメットを跳ねあげた。プシュゥとエアの抜ける音が聞こえコックピットが開き、2本のコードが首の後ろのジャック=イン端子から抜ける。
コックピットから飛び降りると、彼女は倒れ伏したままの少女に走り寄った。抱き抱えて、静かに仰向けにする。年の頃は、16か17。Tシャツにジーパンというラフな格好。かなり衰弱しているようで、メイスンの声にも反応しなかった。
基地に連れていくか………。
そう呟き、メイスンが少女を抱きかかえ立ち上がったときだった。男の声がインプラントしている通信機より飛び込んできた。
「メイスン少佐、背部中央に2発被弾。遺憾ながら、少佐の体は蒸発です」
その声は敵である322中隊の大尉の声だったが、彼が期待したような心理変化はメイスンの心に生まれなかった。
324中隊のオフィスのドアを開け室内に入った瞬間、中山、フォスター両少尉の行動は凍りついた。なぜか。オフィスにおかれている安物のソファー。そこれで、少女が規則正しい寝息をたてていたからだ。
「なんだ、これ?」
先に疑問を発したのは、中山だった。オフィスの中には彼とフォスターの他に誰もいない。
「俺が知りたいぜ」
軽い口調でフォスターは答えると、そっとソファーに近づいていった。中山もそれを真似たのか、ゆっくりとした足どりで少女のそばに立つ。二人の少尉は同時に少女の顔を見下ろし、そして、フォスターが口を開いた。
「誰の子だ?」
「お前の娘じゃないのか?」
中山が訊き返す。
「起こしてみるか?」
視線の先を少女の寝顔から親友の横顔に移動すると、フォスターが少しだけ笑みを浮かべて言った。
「お前のことをパパって呼ぶんじゃないのか?」
「あのなぁ………」
中山が何か言い返そうとして、口を動かそうとしたときだった。ドアを開けてバーガー軍曹が入ってきた。今年入社したばかりの新人で、中山やフォスターの良いおもちゃとなっている新兵だ。
ソファーの上で寝ている少女と、その前で何やら話をしている二人の先輩。ディスクと書類を持って入ってきたバーガーはその光景を見て、至極理論的な結論を出した。
「少尉のお子さんですか?」
「………軍曹」
たっぷり30秒ほど間を空けてから、フォスターがあきれたような口調で言った。
「この場には少尉が二人いるんだぞ」
「だから………」
自分の机に向かいながら澄ました口調でバーガーが言う。
「どちらの子どもか、話してたんでしょ?」
バーガーの言いように、中山とフォスターは完全に言葉を失った。何か言ってやろうと思うのだが、気の利いた言葉が思いつかない。かといって、月並みの言葉だったら泥沼にはまるだけだ。
ゴホンッと、照れ隠しのような咳払いをすると中山が訊いた。
「バーガー、少佐は?」
「わかりません」
ディスクを端末のドライブに入れながらバーガーは首をひねると、
「演習が終わって整備班の人間と何か話をしていたようですけど………。それより、その子はどうするんですか?」
「どうすると言われても………」
フォスターは中山と顔を見合わせると、
「俺達がこの部屋に来たときはすでにソファーの上で寝てたからなぁ………」
「そうなんですか」
バーガーは無関心を決め込むことにしたのだろう。関心のなさそうな声で答えると、キーボードを叩き始めた。カチャカチャとキーボードを叩くリズム的で無機質な音を聞きながら中山が何か言おうとしたとき、
「どうした?」
ドアが開いてメイスンがオフィスに入ってきた。慌てふためいて中山はメイスンの方を見ると、
「いや……その………」
言葉を濁しながら、どのように少女の存在を説明しようかと必死に考えた。だが、良い考えが出てくるわけがない。なにせ、中山も状況を把握してないのだ。それはフォスターも同じだった。二人で少女の前に壁のように立ちメイスンの視界に少女を入れないよう努力しながら、無意味な音声を発し続ける。
「あっ………」
だが、その間にも事態は進展していた。しどろもどろにメイスンに言葉を言い繕おうとする中山とフォスターの後ろで、少女が目覚めたのだ。ソファーの上で上半身を起こしクッと伸びをする。その時点で、中山は事態が最悪の方向に進んだことを確信した。どう少佐に説明すればいいんだ? その言葉だけが彼の頭の中を駆けめぐる。
「起きたようね」
だが、メイスンはそう明るい口調で言ったのだ。意外な展開に直面して呆気にとられながら、二人は少女のためにコップに水を注いでいるメイスンを見る。
問いを発したのは、フォスターだった。
「少佐のお子さんですか?」
水道の蛇口をキュッとひねり冷たい水が半分ほど注がれたコップを少女に渡してから、メイスンはいつもと変わらぬ口調で答えた。
「それはジョークと受け取っていいのか?」
その言葉を聞いて凍りついた部下を見て微笑んでから、メイスンは演習場で少女を拾ってきたことを彼らに説明した。その言葉を聞いて、3人の部下は納得する。
「少佐、司令部には報告したんですか?」
自分の机でコーヒーを飲みながら、フォスターが訊いた。自分と少女の分のカップにコーヒーを注ぎながら、メイスンが答える。
「いや………報告してない」
「報告してないって………」
中山はそれっきり何も言えなかった。
メイスンからコーヒーを受け取り小声で「ありがとう」と礼を言う少女を見て、フォスターが中山の言葉を引き継ぐ。
「それはやばいんじゃ………」
「確かに上にばれたらやばいかもしれないが、わざわざ報告して大事にすることもないだろ?」
一口コーヒーを飲んでから澄まして答えるメイスンに、中山とフォスターは何も言えなかった。メイスンがそう割り切ってしまい事態を知ってしまった以上、中山とフォスターにメイスンに協力する以外の道はなかった。
「名前は、何と言うんです?」
事態を傍観していたバーガーが訊いた。少女にと言うよりメイスンに訊いたのだが、答えたのは少女だった。
「ミレア………」
「で、何であんなとこにいたの?」
窓の枠に腰かけるとメイスンが訊いた。だが、少女は何も答えなかった。黙って口を閉ざしたまま、コーヒーを飲むだけだ。
「まっ、答えたくなかったらいいんだけどね」
明るい口調でメイスンは言い、空になったコーヒーカップを机の上に置くと、
「でも、私としてはいつまでもあんたの面倒を見るわけにはいかない。早いうちに、あんたの親にでも来てもらわわないと………」
「両親は死んでもういません」
ぽつりとミレアは答えた。どこか影のある口調にメイスンは、
「じゃぁ、まぁ、これからどうするかゆっくり考えればいい。それぐらいの時間は面倒みれるから………」
「ありがとうございます」
ほんのわずか頭を下げて微笑んだミレアを見て、メイスンも微笑んだ。それから、
「じゃぁ、ついておいで。寝るとこに案内するから………」
「どこに寝かせるんですか?」
フォスターの質問にメイスンは開ける途中のドアを止めて答えた。
「とりあえず、うちの宿泊室を使う」
「じゃぁ、夜勤の時、我々はどうすればいいんですか?」
「お前達は、ソファーで十分だろ」
そっけなくメイスンは答えると、反論が来るよりも早くドアを閉めたのだった。
ドアがノックされる音を聞いて今日子はスピーカーのヴォリュームを少し下げると、
「どうぞ」
と、答えた。それから、キーボードを叩きディスプレィを真っ黒にする。
シノハラグループの本社であるシノハラ・サイバネッティクス社。その巨大なアーコロジーに寄り添うように立っている150階建てのビルが、シノハラ・セキュリティ社のビルだ。バルキリーのオフィスはその128階にあった。128階ワンフロア全てがバルキリーのオフィス。
「失礼します」
ありきたりの言葉と共にドアを開けたのは、高橋だった。背中でドアが閉まるよりも早く今日子の机の前まで来ると、彼は少々興奮した口調で言ったのだ。
「ミレアの居場所がわかりました」
「本当か?」
高橋の報告を聞いて、今日子は一動作でファイルを全てセーブすると作業を中断した。冷めかけたコーヒーを一口飲んで、
「で、どこに?」
「SSF社の第3基地です」
「………本当か?」
にわかに信じられない報告だった。SSF社はシノハラ・グループの警備を担当している系列会社の一つだ。両者の違いは、シノハラ・セキュリティ社が都市部での活動を主としているのに対して、SSF社は軍隊的な側面が強く海外での紛争処理を主としていることだ。
今日子は他社の特殊部隊がトレーラーを襲撃し、5人を奪っていったと考えてそのように行動していた。だが、ミレアがSSF社第3基地にいる?
「第3基地にはミレアしかいないのか?」
「少なくとも、ミレアの存在しか確認していません」
「誰が確認したんだ?」
スピーカーのヴォリュームを少しだけ大きくして会話の邪魔にならない程度のレベルにすると、今日子は訊いた。
「第2小隊の永野少尉です。現在、SSF社の第3基地内の病院に入院中でして、基地内でミレアを見たというんです」
高橋の答えを聞いて、今日子は状況を把握した。
「身元不明の少女を保護したとか、第3基地内でその手の報告はあるか?」
「確認しますか?」
「あぁ………」
今日子がうなずくのを見て、高橋はインプラントしている通信機を使って指示を出し始めた。第3基地のメインをハックし、そのような報告がないかどうか調べるのだ。バルキリーの電脳班にしてみれば系列会社をハッキングすることなど簡単な仕事だ。すぐに結果が出て高橋に返ってくる。宙を泳がせていた視線を今日子に向けると、高橋はできたての報告をした。
「報告はないようです」
「となると、基地ぐるみではないな。すると、誰かが個人的に………」
「そこらへんは調査してみないことには………」
困ったような口調で高橋は言った。
「まぁ、どちらにしても………」
今日子は冷たくなったコーヒーを一気に飲み干すと、
「ミレアを連れ戻すことができれば、それでいい」
そして、彼女は立ち上がると、椅子の背もたれに掛けてあるスーツの上着に袖を通し始めた。そんな今日子の仕草を見ながら高橋が訊く。
「少佐、どちらに?」
「専務のところだ。いくらなんでも、今回の作戦は許可を取らなくてはまずいからな」
幸いにして140階の役員専用食堂に専務は居た。アポイントメントなしに現れた今日子と高橋を見て食事中の専務は顔を少しだけ歪めたが、自分の部屋で待っているよう彼らに告げた。
専務の部屋で待つこと、10分。
「待たせたな」
ソファーに座って待っていた二人を見て専務は感情のこもってない口調で言うと、ドアを後ろ手に閉めた。すぐに今日子と高橋は立ち上がると、専務が座るのを待って机の前に立つ。
「用件を聞こう」
懐から煙草を取り出し、専務が尊大な口調で訊いた。
「作戦許可をいただけませんか?」
「5つの実験体の居場所が分かったのか?」
専務がゆっくりとライターで煙草に火をつけた。今日がうなずくのを見て、専務は煙草を口に持っていく手を止めると、
「で、作戦はどこに仕かける気だ?」
「SSF社の第3基地です」
煙草をくわえ煙を吸い込んでから、専務は今日子の言葉の意味に気づいた。
「少佐、どういうことだ? 系列企業への戦闘行為が禁止されているのを、理解した上で言っているのか?」
「理解しています」
いつもと変わらない口調で今日子は答えた。
「しかし、ミレアを奪回するのにこれ以上の手はありません。SSF社に事情を説明して、ミレアの返還交渉を始めますか?」
だが、専務は何も答えなかった。高橋も何も言わない。一つ大きな息を吸い込むと、今日子は言葉を続けた。
「”学園”の存在をこれ以上広めることは、望ましくないと私は考えます」
「確かに、”学園”は我々のアキレス腱だ。秘密漏洩は絶対に許されない。予算規定違反で終わりだからな」
そこまで専務は言うと、
「しかし、なぜ、第3基地にミレアが居るんだ?」
「不明です。だが、組織だったモノではないことは確認しています。おそらく、内部の誰かが偶然、保護したのではないかと………」
「トレーラーを襲撃した組織はわかったか?」
「現在、調査中です」
かすかに勢いのついた口調で今日子は答えた。それから真っ直ぐな視線で専務の顔を見ると、
「私としては余計な詮索は置いて、早急にミレアだけでも奪回すべきだと考えます。そして、その最善の策が第3基地強襲であると………」
「その作戦で、バルキリーが仕かけたとばれる可能性は?」
「ないとは言い切れません」
はっきりと今日子は答えた。
「だが、イリーガルを使いますのでゼロには近づきます」
「イリーガルか……傭兵は、信用できるのか?」
慎重で歯切れの悪い専務の言葉に対して、今日子の言葉ははっきりとしていた。すでに彼女は作戦を決定していたのだ。専務の許可が下りなくてもやるつもりだった。
「大丈夫です、専務」
「わかった」
ほとんど吸っていない煙草を灰皿でもみ消すと、専務は決断した。
「作戦を許可する」
ドアがノックされてミレアは顔を上げた。「はい」と答えてから、ミレアは立ち上がりドアを開ける。ドアを開けたところに立っていたのは、両手に自販機のコップを持ったバーガーだった。
「入ってもいい?」
少しぎこちない口調でバーガーが言った。そんなバーガーを優しい視線で見るとミレアは、
「どうぞ」
と、ボツリと言い、バーガーを中に招き入れた。
「様子を見に来たんだ」
ミレアの隣に腰を下ろすと、バーガーは右手のコーラをミレアに渡した。ほんの少しだけ頭を下げて彼女は黒色の炭酸飲料を受け取ると、口をつけた。そんなミレアを見てバーガーは微笑むと、
「元気そうで良かった………」
「え?」
「いや、少佐がミレアを見つけたとき、かなり衰弱していたって聞いていたから………でも、今は元気そうで良かった」
「少佐って………サーリットさんですか?」
「………あぁ」
バーガーがワンテンポ遅れて返事した。それから、
「サーリットさん、か………」
バーガーはミレアの言葉を口の中で繰り返すと、微笑んだ。それが不思議だったのか、ミレアは不思議そうな表情でバーガーの顔を覗きこむ。
「なにかおかしいんですか?」
「いや、おかしくはないけどさ………」
だが、バーガーの笑いは止まらなかった。微笑みが声を出して笑うレベルに達する。30秒ほど笑っていたバーガーだったが、ミレアが睨むような表情で自分を見ていることに気づいて慌てて表情を引き締めた。
「ぇ………あぁ、いや、少佐をサーリットって名前で呼んでいる人間は居ないからさ。だから、なんかおかしかったんだ」
「じゃぁ、皆さんなんて呼んでるんですか? バーガーさんとか………」
「クリフでいいよ」
と、バーガーは言ってから、
「俺とか中山少尉とかフォスター少尉は、みんな少佐って呼んでるな。ウェブスター大佐とか上の人間は、メイスン少佐かな?」
「じゃぁ、私も少佐って呼ばなきゃダメなのかなぁ……」
何かを探るようなミレアの口調。バーガーは無意識のうちに一呼吸、間をおくと、
「そんなことはないと思うよ。ミレアは、サーリットさんって呼べばいいさ。俺達は、上下関係で少佐って呼んでるだけだし………」
「そうよね」
ほっとした口調でミレアが答えるのを聞いて、バーガーは改まった口調で言った。
「訊いてもいいかな?」
「なに?」
「ミレアってさぁ………どこに住んでたの?」
それまで明るかった少女の表情が硬くなるのを見て、バーガーは訊いてはいけないことを訊いてしまったことを知った。だが、言ってしまったことを、今さら後悔しても仕方がない。
「いや、答えたくなかったらいいんだ」
「答えたくないわけじゃない……答えれないのよ」
聞き取れないほどの小さな声でミレアが言った。
「え?」
「どこに住んでいたのか………わかんないの」
「記憶がないってこと?」
恐る恐るバーガーが訊いた。だが、ミレアの返答はバーガーの想像とは違った。
「違う。覚えてるけど………」
そこまでミレアが言って、バーガーは彼女の瞳が濡れはじめていることのに気づいた。なにがどうなっているのかはよくわからないが、とにかくバーガーの質問がミレアの心に変化を与えたのは確かだった。
黙ってしまったミレアを前に、バーガーはどうしていいのかわからなかった。
なにをしてやればいいのかわからなかった。
どんな言葉をかけてやればいいのかわからなかった。ただ、軍人はうつむく少女を見ることしかできなかった。
不意に、ミレアが顔を上げた。濡れた視線が真っ直ぐにバーガーの薄茶色の瞳を射抜く。そして、少女が静かな声で訊いたのだ。
「バーガーさんは、人を殺したことがある?」
突然、突きつけられた質問。バーガーはどう答えていいかわからなかった。いや、答えは決まっている。ただ、質問の裏にミレアの意志が見えないのだ。どういう考えで、ミレアがバーガーにそんなことを訊いてきたのか? その疑問に対する答えを見つけられないまま、バーガーの口は答えを吐き出していた。
「人を殺したことはないよ」
「軍人なのに?」
「まだ、俺はそういう場面に直面したことがないんだ」
「サーリットさんや、中山さん達は?」
「少佐や少尉達は………」
少し時間を使ってバーガーは言葉をまとめた。
「殺したことがあると思う。大戦中は傭兵をやっていたみたいだから………」
「そう………」
消え入りそうなミレアの言葉にバーガーは訊かずにおれなかった。
「でも、なんでそんなことを………」
すぅっと息を吸い込んでミレアが何か言おうとした時だった。突然、部屋が大きく揺れた。地震ではない。その後に続く爆発音が非常事態を物語っていた。
「な………」
バーガーはドアを開けると、廊下の様子をうかがった。他の中隊の宿泊室のドアも開いて、数名が廊下に出ている。誰もなにが起きているのか把握していない。不思議そうな顔で互いに顔を見合わせているだけだ。
と、再び爆発音。建物全体が大きく揺れてバーガーは倒れそうになったが、ミレアのか細い手が彼の体を支えた。バーガーは振り返り間近にミレアの顔を認めると、
「あっ………ありがとう」
と、ほとんど消え入りそうな声で礼を言った。それからドアを閉めて中に戻ると、
「なにが起きてるんだ?」
その疑問は自分自身に向けられていた。
「わかんないんですか?」
ミレアの心配げな言葉にも、バーガーは首を横に振るしかなかった。
「あぁ………とりあえず、中隊に電話をかけてみよう。誰か居るはずだから………」
できるだけミレアを安心させるよう優しい口調で言うと、バーガーは内線電話の受話器を取り上げた。相変わらず爆発音は続いており、建物は小刻みに揺れている。
バーガーは素早くダイヤルすると、返事を待った。だが、声は返ってこない。そこまで来て彼は内線が不通になっていることに気づいた。発信音がない。爆発で線が切れてしまったのか?
「内線が使えない」
事実だけを平坦な口調でミレアに告げると、バーガーは受話器を戻した。
「え?………じゃぁ」
不安げな表情でミレアはバーガーの瞳を見つめたが、その視線を受けとめることができないぐらいバーガーも不安だった。彼自身もなにがどうなっているか、全くわからないのだ。メイスンに指示を仰ごうと思っても、内線も通じない。無線も手元にない。
その時、バーガーの耳に銃声が聞こえた。初めは聞き間違えかと思ったが、再び今度ははっきりと連続した銃声が聞こえてきた。間違いない。基地内で戦闘が発生している。何者かの襲撃なのか?
ゆっくりとした芝居がかった調子で、バーガーは腰のホルスターから銃を抜いた。社がバトルシェル・パイロットの護身用にと、支給している22口径のオートマチックだ。
「銃声が聞こえる」
銃を見て驚いた様子のミレアにバーガーは事実だけ説明すると、ほんの少しだけドアを開けて隙間から廊下の様子をうかがった。そして、彼はそこに展開していた戦場を見て目を見開き息を呑んだのだ。
飛び交う銃弾。悲鳴がバーガーの耳を叩く。廊下の向こうに隠れた襲撃者と、他の中隊の宿泊室にいた兵士達が激しく撃ち合いをしていた。だが、銃弾を受けて倒れているのはSSF社の兵士ばかりで襲撃者の方はほとんど無傷だ。
そこまで観察してバーガーはそぅっとドアを閉めた。グリップを握っている右手が妙に汗ばんでいることに気づいて、彼は慌てて上着の裾でその汗を拭う。バーガーはバトルシェルでの実戦は何度か経験しているが、こういう銃撃戦は初めてだった。
壁に背中を預けて座り込むと、バーガーはミレアの顔を見た。少女は不安な表情でバーガーを見つめている。その視線を受けとめて、バーガーは気づいたのだ。この場でミレアを守ることができるのは、自分だけだということに………
「大丈夫………」
自分に言い聞かせるようにバーガーは言った。その言葉を聞いてミレアがこくっとうなずく。ゆっくりとバーガーが立ち上がりドアのすぐそばの壁に背中を預けたとき、ドアが蹴り開けられた。
突入してきた男は一人だった。薄いグレーの都市迷彩服に、目と口だけがくり貫かれたパラグラヴァ帽。手にはサブマシンガン。妙に鋭い男の視線に意識が飲み込まれそうに感じたのは、一瞬だった。想像以上に冷静にバーガーは銃口を男に向けると、トリガーを引いたのだ。
22口径特有の小さなキックが手首を襲い、銃声がバーガーの鼓膜を刺激した。男がぐぐもった悲鳴を上げる。偶然にも銃弾は男のサブマシンガンに当たったのだ。甲高い金属音と火花が飛び散り、同時にサブマシンガンの銃口にいくつものマズルフラッシュが瞬く。
熱い塊が左肩に撃ち込まれるのを感じて、バーガーは声にならない悲鳴を上げるとよろめいた。痛みで右手から力が抜けそうになるが、それを意志の力でこらえる。
左肩に弾を喰らったな。後ろに倒れそうになりながら、バーガーはまるで他人事のように考えた。
「小僧!」
男のぐぐもった怒りの声。バーガーが体勢を立て直すよりも早く、すでに男は体勢を立て直していた。バーガーが銃撃戦の素人だとしたら、男はプロだった。自分にサブマシンガンの銃口が向けられるのを他人事のように感じながら、バーガーは叫んでいた。
「逃げろ! ミレア!!」
「バーガーさん!」
瞬間のミレアの動きをバーガーは見切ることができなかった。バーガーの視覚が認識できないスピードで移動すると、次の瞬間、ミレアは男の首に右蹴りを叩き込んでいたのだ。
不意打ち同然で蹴りをまともに喰らいよろめく男の腹に、ミレアの右ストレートが決まる。さらに、流れるように右足のつま先が男の顎先を的確に蹴り上げる。それでKOだった。5秒にも満たない戦闘で、少女がプロの兵士をノックアウトしたのだ。
「ミレア?」
右手で左肩の銃創を押さえながら、バーガーは少女の名前を呼ぶことしかできなかった。それ以上は言葉にならない。なぜなら、振り向いたミレアは涙を流していたからだ。少女の涙には、どんな言葉も通用しないように思えた。
「バーガーさん………」
銃声が聞こえ悲鳴が聞こえてくる。
何か言葉をかけなくちゃいけない。バーガーはそうわかっていたが、なにを言ってやればいいのかわからなかった。突然の出来事に頭の中がグルグル回る。
ミレアは右手で涙を拭うと、不意に頭を下げた。
「ごめんなさい、バーガーさん。もうこれ以上、迷惑をかけるわけには………」
そこまで言ってミレアは部屋を飛び出していった。振り返りざまに涙が飛び、それが光を受けてきらめく。
「待って、ミレア!!」
ミレアの後を追いバーガーも部屋を飛び出したが、すでにミレアの姿はなかった。廊下を走り角の左右を見るが、どこにも少女の姿はない。もうミレアが彼の手の届く範囲にいないことを悟って、バーガーはその場に立ちつくした。
痛い感情が心をゆっくりと占めていく。それはメイスンにどう言い訳しようかというモノではなく、もうミレアに会うことはできないんだという気持ちだった。
以後、ミレアの消息は知れない。
ドアがノックされて、西崎は顔を上げた。彼が入れと言う前にドアが開き、西崎の部下である椎名真奈美が入ってきた。縁なし眼鏡をかけた冷たい印象の美しい女性だ。クリーム色の女性用のスーツを隙なく着こなしている。
「課長、調査部から報告です。バルキリーがSSF社第3基地を襲撃しました」
「内部抗争か?」
興味深そうな西崎の声。彼の丸眼鏡が光を受けてきらめいた。
「どうも、ミレアが第3基地にいた模様です。それを奪回するためにバルキリーがイリーガルを使ったようで………」
「5人目はそんなところにいたか………」
呟くように西崎は言ったが、真奈美の耳にはしっかりと入っていた。人差し指でかすかにずれた眼鏡を直すと、
「対応はどうしますか?」
「ミレアの所在を突き止めるだけでいい。我々が一番欲っしているのは、その少女なのだからな」
「了解しました」
僅かに頭を下げて命令を受領した旨を示すと、真奈美は西崎に背中を向けた。だから、背中を向けた真奈美は西崎の呟きを聞いてなかった。
「”学園”か………」
彼は囁くような声で、言葉を続けた。
「面倒なものをつくったな………寺西今日子」
西崎の襟に止められた”カワサキ・セキュリティ”の社章が妖しく光った。
第2章 ふたりめは少年
大戦は国家から領土という概念を奪い、人々はメガ=シティという超巨大都市に住むようになった。かつての大都市を背景に誕生したメガ=シティには億単位の人間が住んでおり、多国籍企業群が作った枠組みの中で暮らしている。
いわゆる「大戦」は、それまでの2度の世界大戦とは違う様相を呈していた。まず、大戦が従来のような国家集団対国家集団という図式を持っていなかったこと。大戦と便宜上呼ばれているだけで、実質的には世界各地で同時に地域紛争が起きていただけだった。ただ、その地域戦争の数が異常に多く、また複雑に絡み合っていたために、大戦と呼ばれるにふさわしい状態を地球に生み出したのだ。
その大戦を終結させたのは、大戦後の世界を支配することになった多国籍企業達だった。彼らがマドリードで締結したマドリード企業間条約によって、戦争は終結し国家はその力を失った。
日本列島は諸外国などに比べて細菌兵器や核などの汚染が少なかったが、それでも世界の流れは東京にメガ=シティを誕生させるに十分だった。現在では推定で2億の人間が、ひしめき合うように住んでいる。
東京の東区は、行政府警察が治安の維持を放棄した街だ。マフィアやヤクザ、チンピラや難民といった人々が流れ込み、アジア一の暗黒街を形成している。違法ドラッグ、武器、奴隷、違法ソフト、女、ありとあらゆるものが取引され、街は膨らんでいく。
きらびやかで妖しげなネオン。妙に間延びした女の悲鳴。ありとあらゆる臭いが混じった独特の街の香り。通りに溢れるむせかえるような人の海。
路地で不良少年どもが、中国系の男を袋叩きにしているが誰も気にとめない。日常茶飯事の出来事だった。
ミラーシェードにいつもと変わらない街の景色を無機質に映しながら、一人の女が人の海を縫うように歩いていた。少しくせっ気のある金髪をショートにまとめて、瞳の色を街をミラーシェードで隠す。両手を黒のジーンズに突っ込みながら、女は通りを歩いていった。彼女の名前は、カリン。
「なんか、ジェイルが切れてきた」
女に話しかける男の声。カリンは右の耳に男の声を感じながら、二人の間を割ってすれ違っていく。すれ違って少し離れてから、女の声が聞こえてきた。
「なぁに、今の女!」
「やめとけよ。それに変態のオカマ野郎かもしれないだろ………」
あざ笑うような男の声も、カリンは無視した。
左脇の下にぶら下げている銃が乳房に当たっているのが気になって、カリンはジャンバーの上からホルスターの位置をずらした。右手で髪をかき上げ何度か手櫛を通してから、彼女は”ワイアード”のドアを開ける。
ワイアードはいつも通りの喧噪に包まれていた。店に入った途端、人の声や音楽が聴覚を刺激し、煙草やドラッグの煙が入り交じった臭いが臭覚を刺激する。店主の政治力によってワイアードは、ヤクザやマフィアが干渉しない”中立地帯”となっていた。
ゆえに、この店はビジネスの場として東区ではかなり有名だ。何か欲しかったらまずこの店に来て人を捜せ、というわけだ。
タンクトップを着てわざと機械的にサイバー化した両腕を娼婦に自慢している男のそばを通り抜けると、カリンはカウンターのいつもの席に座った。
「今日は私の方が先みたいね」
カリンの右側に座る女がそう言って、微笑んだ。紅茶色の髪を背中ぐらいまで伸ばした、どう見たって少女に見える童顔の女。その第一印象は美しいというよりも、あきらかにかわいいだ。だが、彼女を馬鹿にすることはできない。なぜなら、彼女………セモリナは、サイバースペースにおいて”魔女”と呼ばれているのだ。
サイバースペースとは、コンピューター・ネットワークが究極的に進化して誕生した、現実世界と表裏一体のネットワーク世界だ。膨大な情報のみで構成されたその世界に、人はジャック=インと呼ばれる手段を持ってその精神を投影していく。
「珍しく早いわね………どうしたの?」
カリンは訊くと、音もなく近寄ってきたバーテンの夜叉を見た。夜叉の右腕は大戦で戦った名残としてサイバー化されている。機械の部分がむき出しの粗悪なサイバー化。カリンはそんな夜叉の右腕にチラッと視線を走らせると、
「ジン・トニック」
「たまには早く来たっていいじゃない」
モスコミュールを一口飲んでから、セモリナがなぜか口をとがらせるように答えた。
「ははぁん」
ジン・トニックを受け取りながら、何かを悟ったような口調でカリンはうなずく。
「さては………男にふられたね」
「ふん」
セモリナは鼻を鳴らすと、
「ふられたのは、カリンと一緒に住んでるのが原因なんだからね」
「人のせいにしないで欲しいわね」
冷徹にカリンは答えて、ジン・トニックを受け取った。
「だって、カリンと一緒に住んでいるって言ったら、レズは嫌いだって言われたのよ」
「自分が何をやって喰っているのか、説明したの?」
「ボディーガードって、言った」
「その表現は間違えちゃいないわね」
微妙なカリンの言葉だった。ロングのカクテル・グラスを手の中でもて遊びながら彼女は、
「確かに、ボディーガードもやるわね。でも、仕事のほとんどは殺しだけど………」
「それは関係ないわよ。………やっぱ、私たち別に住まない?」
「私たちがどれだけの人間の恨みを買ってるのか、わかって言ってるの?」
相変わらずカリンの言葉は冷たい。彼女の手の中で氷がグラスに当たり冷たい音を響かせる。
「恨みを持ってる連中が攻めてきたとき、あんたが自分の身を守り切れるって自信があるんならいいけど、ね」
「………ないわよ」
消え入りそうな声でセモリナは答えると、グラスに口をつけた。唇を濡らす程度にモスコミュールを飲むと、
「そりゃいいわよ。カリンは銃が使えるんだから。私よりずっとうまく………」
「私だってサイバースペースを絡めて攻めてきたら、手も足もでないわ。結局………」
グラスをカウンターの上に置くと、カリンは微笑みを浮かべて言った。
「私たちは今の状態が一番、いいってわけなのよ」
そのとき、カリンの左隣のスツールに少女が座った。どう見たって、ワイアードじゃ珍しいティーンズ。ゆえに、カリンの関心を引いたのだ。ショートの黒髪にデニム地のジャケット、ジーンズ。ジャケットの左脇が膨らんでいるところを見ると、それなりの銃をぶら下げているようだ。
そこまでカリンが少女を観察したとき、セモリナが彼女の脇腹を人差し指でつんつんと突っついた。
「なに?」
無関心そうな口調でカリンは振り返って、いつの間にか彼女たちの後ろに立っていた男達を認めた。数は3。全員色は違うもののスーツ姿であり、サングラスをかけている。多国籍企業の人間であることは雰囲気でわかったが、サラリーマンって感じじゃない。警備関係の人間だろう。
「カリン・ベレクトムさんと、セモリナ・タカハシさんですね?」
リーダー格と思われる細身のモニターグラスをかけた男が訊いてきた。ほとんど確認でしかない質問を受けてカリンは表情を引き締めると、
「そうだけど………。あんた達は?」
「カワサキ・セキュリティ社特務7課のカニングです。ご同行をお願いできますか?」
「どこに連れてこうっての?」
どこか挑戦的な口調でカリンが訊く。
「お手間は取らせません。お願いできますか?」
「仕事の話なの?」
モスコミュールをグビッと飲んでセモリナが興味深そうな声を上げた。その声にカニングがセモリナの方に顔を向ける。モニターグラスにライトの光が反射して、一瞬の太陽を作り出した。
「そうです」
「だったら、ここでもいいんじゃない?」
と、カリンはあくまでも食い下がる。彼女は初めて会った相手の話に乗って、ほいほいとどこにでもついて行くほど馬鹿ではなかった。
「少女を一人、捜して欲しいのです」
カニングが少しだけ声のトーンを落として話し始めた。
「女の子?」
言葉を変えてセモリナが鸚鵡返しに訊く。カニングはわずかに顎を引くようにうなずくと、
「そうです。少女の名前はミレア」
カニングがミレアという単語を発した瞬間、カリンの左隣に座っている少女が体を揺らした。そんな気がしてカリンは少女の方にチラッと視線を走らせたが、少女の様子に変化はない。気のせいか?
「夜叉………ピーチマルガリータ」
次のカクテルを注文してからセモリナはくるっと椅子を回して、カニングに体を向けると、
「KSの特務7課って言えば、それなりに噂は聞いているわ。そんな組織がどうして少女を捜すぐらいで、イリーガルを雇うわけ?」
「その件に関しては、私の上司が説明すると思います」
「ところで………」
セモリナと同じようにくるっと椅子を回すと、カリンもカニングの方に体を向けた。左に座っている少女に背中を向ける格好になるが、危険はないだろう。
「報酬はどれぐらいなの?」
だが、カニングは何も答えなかった。知らないわけではない。何かに心を奪われてしまって、答えることができないのだ。3人の男達の驚きの視線を見てカリンが振り返ろうとしたとき、彼女の耳もとで銃声が轟いた。
サングラスがきれいに砕けて、カニングの左の男の眉間に銃弾が突き刺さる。カニングが銃を抜こうと懐に手を走らせ、カリンとセモリナは立ち上がると素早い一動作で襲撃者との間合いを取った。
襲撃者は少女だった。カリンの左隣に座っていたデニム地のジャケットの少女が、銃をかまえていた。9ミリのオートマチック。至近距離とはいえ9ミリを抜き撃ちで扱うことができるということは、少女が訓練を受けているということの証明だった。
ほんの数秒だけ、妙な間が生まれる。誰も何も行動しない。相手の動きを見極めようとお互いが考えて、行動が手詰まりになるのだ。だが、そんなガラスの均衡も異常に気づいた娼婦の悲鳴によって崩れさった。
初めに行動したのは、少女だった。カウンターを飛び越えると、料理を運んできたボーイを押しのけて厨房に逃げ込んだのだ。カリンとセモリナもカウンターを飛び越えて、少女の後を追う。その後ろをついてくるカニングとその部下たち。
狭い厨房を器用に障害物をよけて走りながら、カリンは少女の後を追う。走りながら銃を懐から抜き、安全装置を解除した。裏口から路地に抜ける。
素早く左右を見る。はじめに表通り、ついで路地の奥。汚い路地の奥に少女のデニム地の背中を見つけて、カリンとセモリナは再び走り始めた。
ごみ箱を蹴飛ばし座り込んでいる路上生活者の上を飛び越え、二人は少女の後を追い続けた。カニング達もついてくる。やがて、少女がほとんど空き屋の雑居ビルの裏口の中に入って行くのを見て、カリンとセモリナはそのドアの前で立ち止まった。
「あの娘なら、中に入っていったわよ」
カニング達がやってくるのを待って、カリンが言った。カニングは5階建てのビルを見上げると、
「ミレアを捕まえるのに協力していただけますか?」
「あの女の子がミレアなのね?」
懐から銃を抜きながら、セモリナがカニングに訊いた。もちろん、セモリナもカリンも自分たちが追いかけている少女がミレアであることは状況から知っていた。ただ、カニングに確認しただけである。
カニングは大きくうなずく。
「そうです。もちろん、報酬はお支払いします」
「OK」
カリンはうなずき、言葉を続ける。
「じゃぁ、中で二手に別れましょう。異存はないわね?」
「ありません」
ほんのわずか微笑みを浮かべてカニングは答えた。
カリンが異変を感じて足を止めたのは、2階の廊下を調べているときだった。カニングと部下は5階からカリンとセモリナは1階からビルを調べていき、2階を半分ほど調べたところでカリンがそのわずかな物音に気づいたのだ。
「どうしたの?」
セモリナがインプラントしている通信機を使って訊いてきた。
「ドアの向こうから音が聞こえた」
ドアの前から少し離れたところで立ち止まり、カリンが答えた。
「どんな?」
カリンから3メートルほど後ろのところで止まって、セモリナがあまり興味なそうには訊きかえす。
「こんな音よ」
言葉に続いてカリンが送ってきたのは、高いところから何かが落ちてくるような音だった。カリンは3分間の視覚と聴覚の変化を脳の増設メモリーに常時残しており、セモリナに聴かせたのはそのメモリーに残っていた音だった。
「調べてみる必要性はあるわよね?」
カリンは自分自身に言い聞かせるように言うと、セモリナの言葉を待たずにドアノブに手をかけた。ノブを回しいきなりドアを開け放つと、彼女は部屋の中に飛び込む。部屋には窓も明かりもなく真っ暗だったが、目に暗視機構をインプラントしているカリンには関係がない。銃口と視線を一緒に動かして中を見回す。
天井近くの棚の上からミレアが飛び降り、カリンに襲いかかったのはその瞬間だった。ナイフを抜いて飛び降り着地と同時に首の根元にナイフを刺し込む。ミレアはカリンの命を奪うことができると確信していたが、現実は違った。
彼女が着地した瞬間には、カリンはもうその場に居なかったのだ。前に飛び出し床の上を転がるようにして体の向きを変え、ミレアに銃を向けている。カリンの銃口を見た次の瞬間、背中に人の気配を感じてミレアは自分が完璧に敗北したことを知った。
「ナイフを捨てた方がいいわよ、お嬢さん」
まるでゲームを楽しんでいるかのような口調でカリンは言うと、銃口を油断なくミレアの方に向けながら立ち上がった。その間にセモリナはミレアの膝裏を蹴って彼女をうつぶせに転ばせると、器用に足を使って彼女の両腕を背中で組ませた。重なった手首を右足で押さえつけ銃口を後頭部に向ける。
「クッ………」
屈辱のうめきを上げてミレアはセモリナの拘束から逃れようとしたが、それは無駄なあがきでしかなかった。しっかりとセモリナの右足は少女の手首を押さえつけている。逃れることなどできるわけがない。
抵抗するだけ無駄だとミレアは悟ると、ゆっくりとナイフを握っていた右手を広げた。ナイフを拾い上げてカリンは微笑むと、
「状況判断はできるようね。まぁ、詰めが甘かったけど………」
それから、彼女はナイフを部屋の隅の方に放ると、きつい口調で言った。
「立て」
セモリナが右足を手首から離し、ミレアはゆっくりと立ち上がった。カリンが少女の体を丹念にボディチェックし、脇の下の銃と足首の銃を見つける。彼女はそれらの銃を取り上げると、カニングに携帯している通信機で連絡を取った。
「ミレアを拘束したわ。どうする?」
「了解しました。では、裏口の外で合流しましょう」
カニングの言葉をセモリナに伝えると、3人は裏口に向かって歩き出した。
廊下を歩いている間ミレアはずっと無言だったが、階段を降り始めたところで彼女は不意に口を開いた。
「あんた達もカワサキの人間なの?」
「いや、私たちはフリーのエージェントよ。こういった仕事を受けて、金にしてるってわけ」
ミレアの横に並んで階段を降りながらカリンが答えた。セモリナはミレアの真後ろに立って銃口を彼女の背中に向けている。
「じゃぁさ。あいつらよりも多く払うから、私を逃がしてよ」
「冗談」
ミレアの申し入れをカリンは即座に一蹴した。
「一度受けた仕事を途中で裏切ったりしたら、信用がた落ちよ。私らはそう言うことはしないの。それに………」
カリンは階段の最後の段を飛び降りると、
「彼らがいくら払うかわからないのに、どうやってあんたがそれ以上の金を払うの?」
ミレアは何も言い返せなかった。悔しいが何も言い返せない。せいぜいカリンの顔を睨みつけ悔しさ混じりの言葉でこう言うぐらいだ。
「ふん………裏切られるのがオチよ」
だが、カリンはそれには何も言わなかった。かわりに、
「セモリナ、念のためここら辺を把握して………」
「了解」
セモリナは相棒の言葉に快くうなずくと、インプラントしている通信機で自宅のコンピューターと回線を開いた。そのコンピューターを経由してカッティンを呼び出す。
カッティンはサイバースペースの中にいた。いや、この表現は正しくない。カッティンはサイバースペースに住んでいるのだから………。義体でも手に入れない限り、サイバースペースが彼の世界の全てだ。なぜなら、カッティンはサイバースペースの住人と称されるにふさわしいAIだから。
AIである以上、彼を作り上げた組織もしくは個人が存在し、それは同時に彼の主たるマスターだった。カッティンの場合、マスターはセモリナだ。カッティンはセモリナがほとんど独力で組み上げた人格と感情を持つA級AIだった。
5度目のコールでカッティンは回線を開いた。
「さっさと、出なさい!」
回線が開かれると同時に、セモリナの怒声が飛び込んでくる。
「なんやねん」
「私の位置は把握しているわね」
「デフォルトで把握しとるけど」
「OK………じゃぁ、私の周囲1ブロックを押さえなさい」
「えぇ!」
カッティンが抗議の声を上げた。
「なにが、えぇ! よ、早くしなさい」
「りょ〜かい」
どこか気の抜けた返事で通信を切ると、カッティンはサイバースペースを駆け出した。
「カッティンが始めるわ」
「OK」
セモリナの返事を聞いてカリンはうなずくと、ドアを開けた。カリンが外に出て、ついでミレア、その後ろにくっついてセモリナが出る。そこで3人の行動は止まった。なぜなら、右と正面の両方から銃口を突きつけられたからだ。
「銃を捨ててもらおうか………」
カリンの正面に立つカニングが陳腐な台詞を言って、微笑んだ。その微笑みはまるで友人に向けられてるかのように暖かいものだったが、向けられている銃口は氷のように冷たい。最初にカニング、ついで彼の部下を横目で睨みつけるとカリンはセモリナとともに銃を捨てた。
「こういうことをするわけ………」
「悪いな。ミレアを欲しがってる組織は多いんで、ソースとなりうる人間は減らしとかないといけないんでね」
「その判断には賛成するけど………」
緊張に満ちた会話をしながら、カリンはインプラントした通信機でセモリナに指示を出した。その指示を聞いてセモリナはそっと半歩だけ後ろに下がる。
「それは、相手を考慮して判断すべきじゃないかしら」
「………というと」
「私たちを敵に回すのは得策じゃないってわけ」
「面白いことをいうな」
カニングはにっと笑みを浮かべて言った。それにつられたようにカリンも微笑みを浮かべる。3。カリンは脳の中でカウントを始めた。
「まぁね、良く言われるわ」
カリンがとぼけた調子で言ったその言葉は全員の耳に入ったが、同時に彼女が2を数えたことに気づいたのはセモリナだけだった。すぅっと一気に場の緊張が高まる。
1、0。
セモリナがミレアの襟首を掴んでビルの中に飛び込むのと、カリンが非人間的なスピードでカニングの懐に飛び込んだのはほとんど同時だった。左袖からナイフを引き抜き、引き抜きざまのワンアクションでカニングの頚動脈を切り裂く。
カニングの部下は彼の頬を上司の鮮血が濡らすまで、カリンの行動に気づかなかった。ビルの中に逃げ込んだセモリナに対処しようとしていたし、第一その瞬間のカリンのスピードは視覚系に何も手を入れていない彼が認識できるものではなかったのだ。
「うわぁ!」
反射的に彼は叫ぶと銃口をカリンに向けようと意識したが、向けることはかなわなかった。なぜなら、彼が意識してから手が動くよりも早く、カリンが彼の懐に飛び込んでいたからだ。
顔のすぐ近くでカリンが微笑んだように思えたが、彼にはそれが事実かどうか確認している時間はなかった。次の瞬間にはカリンのナイフが彼の頚動脈を、切り裂いていたから。
「終わったわよ」
カニングとその部下の死を確認してから、カリンはそうセモリナに呼びかけた。ミレアを引き連れてセモリナがビルの中から出てくる。彼女は頚動脈を切り裂かれた二つの死体と、髪や顔を血で真っ赤に染めた相棒を見て言った。
「相変わらず派手だわね」
セモリナの憎まれ口にもカリンは息を切らしたまま微笑むだけだ。本当は何か言い返してやりたいのだが、体が言うことを聞かない。
カリンは”スピード”というサイバーウェアを体に入れていた。こいつを使うと数秒間だけ通常の人間の数百倍のスピードで行動することができるのだ。ただ欠点がある。スピードは体の生身の部分やサイバーウェアに負担をかけるため、大きく体力を消耗するのだ。だから、いざというときにしか使えない。
「早く逃げないとカワサキの人間が来るわよ」
緊張した声でミレアが言ったが、裏腹にセモリナの声はリラックスしたものだった。
「大丈夫よ。周囲1ブロックは私のAIが電脳的に押さえてるから………。彼らの救急信号はカワサキまで届いていないわ」
「そう………」
ミレアは安心したように息を吐き出すと、それからきっと顔を上げてカリンとセモリナを見た。
「で、私をどうする気ですか?」
「どうするって………」
やっと体力が回復したらしいカリンが訊き返した。コンクリートの壁に背中を預けて、肩で息をしている。しゃべれる程度までには回復したらしいが、まだきちんと回復はしていないようだ。
「どうもしないわよ。私たちがカニングを殺ったのは成りゆきだったんだから………」
セモリナがカリンの言葉を引き継いで言った。それから、銃を拾い上げて自分の銃をホルスターにしまい残りの銃をカリンに渡すと、
「せっかくだから、一つだけ訊いとくわ。一体、あんた何をやってるの?」
「何って………」
それっきり何も言わないミレアを無視して、セモリナは言葉を続けた。
「あんたが何かやってるから、カワサキがあんたを欲しがるわけでしょ?」
「それは……学園」
つぶやくようにそこまで言って、ミレアは口をつぐんだ。彼女の言葉のベクトルが変化したのは、次の瞬間だった。
「なんでもないわよ!」
いきなりそれだけ叫ぶと、ミレアは路地を表通りに向かって走り出した。
「学園って………ちょっと!」
セモリナはミレアの後を追いかけようとしたが、
「やめな!」
という、カリンの一言で彼女は走りだそうとした足の動きを止めた。表通りの喧噪の中に消えていく少女の背中を見送ると、壁に体を預けたままの相棒に視線の向きを変える。「カリン………?」
「学園か………」
ほとんど呟くように言うと、カリンは丸めた右の拳で壁をドンッと叩いた。都会の無音の空間に、妙にうつろにその音は響く。
「あの女、まだそんなことをやっているのか………」
カリンの呟きは何の感情も感じられない氷の板ようなものだった。だが、彼女の拳は確実に怒りを物語っていた。
闇の中に4人の少年少女がいた。夜のような濃い闇ではなく、薄く明かりが満ちている薄い平べったい闇の中。部屋に窓はなく、部屋の大きさもわからない。
基地から基地に移動するとき、彼らはいつもベッドと呼ばれる容器に入れられ強制睡眠のなか移動する。だが、彼らを運ぶトレーラーは襲撃され、襲撃者は彼らを強制睡眠から覚醒させると、彼らをこの部屋に連れてきたのだ。
それ以来、彼らはこの部屋にずっと閉じこめられていた。時計がないため正確な時間はわからず闇の中に長時間居るために感覚も鈍っているが、24時間以上経過していることは確かだった。
その間にあったことは、食事と訪問者が2度ずつ。それだけ。
「俺は受けるつもりだ………」
長い沈黙を破って少年の声が闇の中に響いた。やせ形の鋭い印象を与える少年だ。その声を聞いてただ一人の少女が口を開いた。
「J………本気なの?」
「本気さ。西崎の提案に乗るしか方法はない。Lは反対なのか?」
「反対よ」
闇の中で少女が肩をすくめたようにJには感じられた。すぐにLが言葉を続ける。
「あいつは、カワサキの人間よ。カワサキの人間が信用できるの?」
「それは………」
どこか物静かな声は、違う少年のモノだった。Jの隣に座る妙に落ちついた印象を与える少年のものだ。
「寺西のマインドコントロールの結果であって、客観的な意見ではない。我々はシノハラ………というよりも、バルキリーの人間以外には不信感を抱くよう”学園”で設計されてることを忘れたのか?」
「わかってるわよ、K」
ほとんど吐き捨てるような口調でLは言うと、
「それでも私は反対だわ。あの男に協力なんかできない」
「Kはどうなんだ?」
Lの説得をあきらめたのか、Jの視線がKを向いた。闇の向こうからのJの視線を感じてKはわずかに顔を伏せると、
「自分も協力する気はない。寺西がなんらかの作戦行動を起こすのは必至だ。その際に面倒になるような行為は避けたい」
「Mは?」
2対の視線……LとJの視線が、Lの隣に座る少年に集中した。4人の中で一番最年少のMは顔を上げると、
「僕も反対です。寺西少佐も信用できませんけど、それ以上に西崎さんは信用できないんです」
「それでも、俺はやるぜ」
Jの言葉はほとんど自分に向けられていた。そんなJにLは鋭い視線を突き刺すと、
「もしかして………Jは西崎の言葉を信用しているの?」
「なにを?」
「ミレアがシノハラ銀行の管財2課の課長を殺したって話よ」
「Mは信じてないのか?」
Jの言葉には少しだけ感情が含まれていたが、そのことに気づいているのはKだけだった。
「信用していない人間からの情報はむやみに信用すべきでないと、私たちは教わってなかったっけ?」
「じゃぁ、そんなお前は寺西の言葉を信用しているのか?」
水掛け論にしかならないJの言葉にLは軽く首を横に振った。もっとも、薄い闇を通してJがそのアクションを見ることができたかどうかはわからないが………。
「私が言いたいのは……」
ため息とともに言葉を吐く。
「Jはミレアに嫉妬してるんじゃないかってことよ」
「どうして、俺があいつに嫉妬しなきゃいけないんだっ!」
ほとんどJの言葉は怒りの色に染められていたが、そのことに気づいていないのはJだけだった。そして、その口調がLの言葉を裏付けるに十分たる証拠だった。
「ミレアが名前を持ってるからよ」
静かにLは言った。
「きちんとした名前を持ってるってことは、ミレアが実戦に出せる日が近づいていたってことよ。でも、Jは名前を持ってない。それだけ、Jはミレアに負けてるって………」
「ふざけるな!」
Lは最後まで言葉を続けることができなかった。薄い闇の向こうからやってきたJの右ストレートを立ち上がって右にステップを踏んでかわす。だが、すぐに腹に左ストレートを決められ彼女は体をくの時に曲げた。
「L!」
Mが悲鳴にも似た声を上げたとき、部屋のドアがいきなり開いた。
「にぎやかだな」
部屋のドアが開き凶暴なまでに強烈な光が部屋の中に入ってきて、Lは思わず目を閉じた。それからゆっくりと目を開けて光に慣らしながら、入ってきた人間を見極めようと光の方を見る。
もっとも、彼女にはそんなことをしなくても、声を聞いた時点で誰が入ってきたかはわかっていた。部屋に入ってきたのは、西崎と彼の部下である椎名真奈美。西崎は紺のスーツで、真奈美はクリーム色の女物のスーツ。西崎が穏和な表情を浮かべているのに対して、真奈美の印象はいつものようにまるで氷のナイフだ。
「早速、答えを聞かせてもらいたいのだが………」
西崎は穏和な表情を浮かべているが、声は尊大そのものだった。自分たちを人ではなくモノとして扱っている。Lは機敏に西崎の声からそう感じとっていたが、残念なことにJには感じられないようだった。というより、彼の心はミレアに対する対抗心でいっぱいなのだ。だから、わからない。
「俺はやる」
張り切った声を上げてJが立ち上がった。西崎の視線が自分の顔に向けられたのを確認してから、Jは彼の方に向かって歩きだした。そんなJの行動を見て西崎は満足そうに笑みを浮かべると、
「他はどうするんだ?」
「私は断るわ」
Lはきっぱりと言い、続けてKもいつもと同じ静かな口調で、
「私も断る。我々が御堂園長を殺したところで利益はない」
「学園の園長を殺せば学園は崩壊する。それでも、自分たちには利益はないと?」
座ったままのKに鋭い視線を突き立てると、西崎が言った。少し感情的になりつつある西崎に対してKはあくまでも冷静だ。
「それは、カワサキ・セキュリティ社の利益であって我々の利益ではない。結局、貴様も私たちを学園からは解放してくれなかった」
「なに?」
低い声で西崎は聞き返したが、Kはそれ以上何も言わなかった。さらに西崎がKに対して何か言おうとしたのを、真奈美が静かな声でそれを制止する。
「課長………」
それから、彼女は冷たい視線でMの瞳を射抜くと、
「Mはどうする? お前は作戦に参加するのか?」
「僕も断ります」
「そうか」
真奈美が西崎に決断を促した。
「課長」
J以外の参加はとても望めそうにない。他の参加はあきらめるべきでは? 彼女のニュアンスを言外に感じて、西崎はうなずいた。
「J、ついて来い」
苦虫を噛みつぶしたような口調で西崎は決断を下すと、背中を向けた。その動きにあわせて真奈美も振り返ると、西崎と共に歩き出す。彼女が自分の隣に来るのを待って、西崎はそっと囁いた。
「いくつかの欺瞞情報と一緒に、御堂園長暗殺の情報をバルキリーにリークしろ」
「………!」
驚いた真奈美は西崎の顔を見上げた。動きにあわせて彼女の眼鏡の縁が光る。
「寺西の作ったモノがどれだけの力を示すかテストしてやる。それに………」
そして、西崎は立ち止まり静かに言った。
「ミレアを釣り出せるかもしれん。学園関係者を連続して殺してるようだからな」
機能よりも装飾性を重視して作られた天然木製の扉が開いて、今日子が出てきた。高橋は立ち上がりゆっくりとした歩調で彼女に近づいていったが、今日子が自分に気づいていないことに気づいて彼は少しだけ歩みをはやめた。そして、声をかける。
「少佐!」
やっと高橋の存在に気づいて今日子が振り返った。驚きの表情を浮かべて高橋の顔を見ている。高橋は今日子の隣までやってくると、
「専務はどうでしたか?」
シノハラ・サイバネティックス社の本社アーコロジーの上層部。役員とわずか人間しか立ち入ることができない区域。今日子と高橋は専務に呼ばれて、この雲の上にいた。上層部の警備は社長直属の部隊が担当しているので、役員に呼ばれない限り今日子達は入ることができない。
「かなり今回の事態を危惧していたよ」
エレベーターに向かって歩きながら今日子が口を開いた。そのすぐ横を高橋がついていく。
「やはり………」
「学園の情報がかなり漏れているのではないかと、心配していた」
「シノハラ銀行の管財2課長に第2警備班班長、そして、昨日のヤン・ターレン………」 独り言のように高橋は、連続して殺された学園関係者の名前を挙げていった。
バルキリーにとって好ましくない事態が進行していた。彼女が中心になって進めている極秘プロジェクトのメンバーが3人、一週間のうちに立て続けに殺されたのだ。
ホテルで管財2課長が殺され、休暇中の警備班長はデパートで、”学園”の材料確保に協力していたヤンは車の中で。しかも、バルキリーが総力を挙げて捜査をしているにも関わらず犯人は特定できずにいた。断片的な情報なら集まってくるのだが、それらはクズ同然の代物ばかりだった。
「情報が漏れていると思われても、仕方がないな」
自分の周りの状況を思い、自嘲的な笑みを浮かべると今日子が言った。
「それはありません」
「わかってる。ムキになるな、中尉」
どこか若い高橋の反応を楽しむかのような今日子の言葉。続けて、
「とりあえず専務は我々に一任してくれたが、時間が掛かるようではそれもどうなるかわからん。すでに、常務が横やりを入れてるらしいからな」
「13部隊ですか?」
「最悪の場合はそうなるな。下村が引き継ぐことになる」
13部隊とは、シノハラ・セキュリティ社13課の通称であり、バルキリーと同様に特殊任務を担当している。ただバルキリーと違うのは、バルキリーが公式に特殊部隊として認められているのに対して、13課は非公式部隊だということだ。表向きは子会社等の警備を担当しているが、裏では非合法を専門に特殊任務を遂行している。
「だったら、その前に何とかしないと………」
エレベーターの前に着いて、高橋が下りのボタンを押した。すぐにエレベーターのドアが開いて二人は中に入る。
エレベーターは半面がガラスになっていて、外を見渡せる作りになっていた。ただし、外から見ても中を伺うことできない。狙撃対策で特殊ガラスを使用しており、外から見ても光る鱗状のモノが見えるだけだ。
高橋がヘリポートのある146階のボタンを押し、エレベーターはゆっくりと降り始めた。
「ミレア達の件はどうなってるですか?」
ガラスに背中を預けて高橋が訊いた。
「似たようなモンだ。早急に居場所をつかみ回収せよ、と。こっちも常務の横槍が入ってるらしい」
「忙しいようですね、常務も………」
高橋の台詞は皮肉でしかなかったが、今日子はクスリッとも笑わなかった。ズボンのポケットに右手を突っ込むと今日子は少し皮肉の混じった口調で、
「ところで、中尉はこんなところまで私をわざわざ迎えに来るほど暇なのか?」
「それもありますけど………」
高橋は今日子の言葉に散りばめられた皮肉に気づかなかった。
「ちょっと妙な情報が引っかかってるんで、その報告もかねて………」
「妙な情報?」
鸚鵡返しに今日子が訊き返す。
「はい、御堂園長が狙われているという………」
「御堂?……学園のか?」
「はい」
高橋はうなずくと、視線を真っ直ぐ今日子の顔に向けた。
「ニュースソースは?」
真剣な口調で今日子が訊く。
「いくつかあります」
「どこかの組織が流してる可能性はないか?」
「否定できない、という程度です。欺瞞情報らしきものもいくつか掴んでます」
「そうか………」
呟くように言うと、今日子はガラスに背を預け何事かを考え始めたようだった。情報に乗るべき乗らざるべきか………。
耳に心地よいチャイムの音と共にエレベーターが146階についた。先に高橋が降り、ついで今日子が降りる。そのまま短い廊下を歩いてヘリポートに向かう。
「御堂の護衛プランを変更する」
ほとんど足音を立てずに歩きながら今日子は不意にそう言った。スーツの胸ポケットからミラーシェードを取り出しかける。高橋はうなずくと、
「了解しました。全員を召集します」
真奈美は先ほどから、書類に視線を走らせる西崎の言葉を待っていた。踵をきちんと合わせて西崎の机の前に立ち、視線はまっすぐにして待つ。西崎は彼女の持ってきた作戦立案書を丹念に読んでいた。
「セオリー通りの作戦だな」
Jの立てた作戦をそう一言で評価すると、西崎は書類を机の上に投げるように置いた。真奈美は顔を上げて少しだけずれた眼鏡を直すと、
「Jは20名の兵とバックアップを要求してますが、どうしますか?」
「要求通りにしてやれ」
西崎の答えは真奈美の希望とは違った。
「この作戦だと20名は必要だし組織だったバックアップも必要だろう」
「了解しました」
うなずき真奈美は作戦立案書を西崎の机の上から取り上げると、思い切った調子で訊いた。
「課長はJの能力をどのように評価してますか?」
西崎が葉巻を取り上げるのを見て、彼女は素早くその先に火をつける。煙を吸い込んでから西崎は、
「なかなかのものだと思ってる。私もJと同じ一週間分のスケジュールを渡されたら、この学会を選ぶだろう。警戒すべきバルキリーの警備がはずれるのが、この時間だからな」
「意外と課長はJを高く評価してるんですね」
珍しくやわらかい口調で言うと、真奈美はわずかに微笑んだ。そんな彼女を西崎は座ったまま見上げると、
「悪いか?」
「そうは言ってません。私は課長はてっきりJのことを捨て石程度に考えてると思っていたので………」
「もちろん、Jには悪いがあれは捨て駒だ。私はミレア以外に興味はない」
西崎はきっぱりと言い切ると、続けて、
「監視班の準備はできてるな?」
「すでに活動を開始してJを24時間監視しています」
「よろしい。あとで、Jに貸与する20名のリストを提出するように………」
「わかりました」
真奈美は軽く一礼して西崎の命令を受領したことを知らせると、部屋から出るために背中を向けた。その背中に西崎が思いだしたように声をかける。
「椎名。バルキリーの寺西をなめるなよ」
「わかっています」
そう答える真奈美の口元には、しかし、笑みが浮かんでいたのであった。
上官であるサーリット・メイスンが発した言葉を、部下であるフォスター、中山、バーガーは、はじめ信じることができなかった。上官を信じることができないのではなく、正確にはメイスンが持ってきた司令部からの命令が信じられなかったのである。
「少佐………」
シノハラ・セキュリティー・フォース社第3基地。341中隊オフィスに流れた奇妙な沈黙を破ったのは、フォスターの声だった。紺色の髪を無意識のうちにかき上げると、
「本当ですか? その命令は………」
「命令の真偽を尋ねられても困るが………」
本当に困ったような表情をメイスンは浮かべた。それから持っている命令書に視線を落とすと、
「間違いなく3日後にホテルの警備命令が出ている」
「しかし、バトルシェル中隊が出動しなくてはいけないようなイベントがありましたっけ?」
バーガーの質問を受けてメイスンは再び命令書に視線を落とした。2秒ほどかけて必要な事項を検索すると、彼女は顔を上げた。
「命令書には”第13回サイバネッティクス器官学術会議の警備”とある」
「最近の学会はバトルシェルの警備がいるのかな?」
呟くように言った中山の言葉は冗談の域を出ていなかった。
「さぁな。私は学会なんてモンには出たことないんで、そこら辺のことはわからないが………」
それを受けたメイスンの言葉も冗談の域を出ていなかった。
たかだが学会にバトルシェルの警備を要するというのも妙な話だったが、上からの命令である以上、やらなければいけない。たとえ、その命令書にどこかきな臭い匂いがしても、だ。
「命令は以上だ」
その言葉でメイスンは命令伝達を切り上げた。バーガーや中山が仕事に戻っていく中、フォスターだけがメイスンに近づいていく。彼はすぅっとメイスンに近寄り、口を彼女の耳元に近づけると囁いた。
「少佐………」
フォスターはほんの少し間を空けると、
「SSに戦友がいます。彼に探りを入れてみますか?」
「いや、いい………」
ほんのわずかな挙動でメイスンは首を横に振ると、
「余計な詮索はしなくていい」
「わかりました」
だが、メイスンはすでにシノハラ・セキュリティ社に探りを入れる準備を進めていた。彼女がフォスターの申し出を蹴ったのは彼女の探りとフォスターの探りがぶつかる恐れがあることを懸念したというよりも、部下にできるだけ迷惑を掛けたくなかったという方が大きかったからだった。
バルキリーのオフィスに戻ってきた今日子の表情が暗かったことから答えが推測できたのにも関わらず、高橋は訊かずにはおれなかった。
「どうでした?」
「ダメだ」
今日子は少し大げさに首を横に振ると、隊長室に入っていった。追従して高橋も部屋にはいる。今日子は体を大きめの椅子に預けると、
「バルキリーの協力はいらぬの一点張りだ」
「仕方がないですね。学会の警備は7課の管轄です。我々が手を出すことはできませんから………」
「しかし、警備を厳重にすることは認めさせた。SSFにバトルシェル中隊の出動要請がいってるだろう」
それだけ言うと今日子は椅子に深く体を預けた。言葉を続ける。
「あと、当日、私と5名の部下がホテル内にいることも認めてくれたよ。6人で何とかするしかないな」
「しかし、学会を狙ってきますか?」
「間違いない。狙ってくるさ」
やけに真剣な口調で今日子は言うと、
「御堂の警備をバルキリーが行わないのが、唯一学会の時だけなんだ。私だったら、そのチャンスを生かすね」
そう今日子はきっぱりと言いきった。
そして、学会の日………
ホテル一階のロビー。太陽の光で溢れているロビーに、少女が一人いた。10代の女の子。だが、ショートカットと真っ白いブレザーで、パッと見た感じは少女というより少年だ。
少女はホテルの中の所々に立っているスーツ姿の男達を観察すると、微笑んだ。
「このレベルだったら、なんとかなりそうね」
少女のブレザーの奥で、ホルスターに納められた銃が妖しく光る。
少女は、ミレアだった。
第3章 さんにんめの少年
ホテルヨーロッパ地下3階の駐車場に一流ホテルの雰囲気にそぐわない大型トレーラーが入ってきたのは、午前8時のことだった。数は5台。カーゴ部分に大きく描かれた”SSF”という文字。
5台のトレーラーは真っ直ぐに、あらかじめ確保されている駐車スペースに入っていった。
最後に入ったトレーラーのカーゴの後部扉が開いて、メイスンが降りたった。続いて、フォスターと中山が降りる。
「まだ、7課の人間は来ていないみたいだな」
駐車場を見渡すとメイスンは独り言のように言った。駐車場を警備している人間が見えるが、7課の人間であってもあれはメイスンの求める人間じゃない。
「メイスン少佐!」
名を呼びながらフォスターが近づいてきた。フォスターが横に来るのを待ってメイスンは、
「どうした? フォスター」
「これからどうするんですか?」
「とりあえず7課に指示を仰がないことには動けん。我々は7課の要請で動いているのだからな」
「機体はどうしますか?」
中山がトレーラーを見て訊いた。メイスンは中山の視線にあわせて自分のバトルシェルが搭載されているトレーラーを見やると、
「そのままでいい、中山。出す必要はない」
「了解しました」
律儀に中山は答えるとフォスターの横に並んだ。自分のそばにやってきた二人の部下を見てメイスンはどこか不思議そうに訊く。
「バーガーはどうした?」
その時になってようやく、トレーラーの後部扉からバーガーが降りてきた。メイスン、中山、フォスターは将校用の軍服であったが、彼だけは兵卒用の軍服だ。
「遅いぞ、軍曹」
軽い調子でメイスンに叱られて、バーガーは軽く頭を下げた。メイスンの前まで小走りでやってくると、
「黒井美穂伍長の質問に答えていたら遅くなりました。すいません」
「ナンパしていたのか?」
からかい口調で中山が訊いたが、バーガーは丁重に無視した。どうせどう答えてもからかわれるだけだったら、何も答えない方がいい。
「オペレーターの方は大丈夫か?」
自分たちが降りてきた移動指揮車を見てメイスンが訊いた。外装は他のバトルシェルを載せたトレーラーと変わらないが、そのトレーラーだけ指揮設備を満載している。何か事が起こった場合に、この指揮車が341中隊の行動をサポートすることになる。
「はい。実用には耐えうるようです」
バーガーははきはきとした口調で答えると、天井を見上げた。それからどこか心配げに訊く。
「この天井の高さでバトルシェルが立てますか?」
「ギリギリってとこだろうな」
同じように天井を見上げてフォスターが言う。
「少佐、バトルシェルだけでも外に出しておきますか?」
「その暇はないな」
エレベーターの方を見ながらメイスンが答えた。3名ばかしの男達がこちらに向かってくるのが見える。おそらく、7課の人間だろう。
「天井の高さは立てるぐらいならあるし、それに出す必要もない」
メイスンはそう言い切ると、3名の男達に向かって歩き出した。中山達もその後に続く。メイスンはある程度近づいたところで立ち止まると、敬礼と共に挨拶をした。
「SSF機甲3部第4課1係、サーリット・メイスン少佐です」
「SS第7課2係の久米田准佐です」
メイスンの敬礼を受けて真ん中の男が敬礼を返した。メイスンより年上、30代中盤の男だ。能力ではなく勤続年数でここまで出世してきた、というタイプだ。
「早速ですが准佐、我々はどうすればいいのでしょうか?」
メイスンが丁寧な口調で訊く。階級はメイスンの方が上だが年齢は久米田の方が上だ。そのことを配慮したメイスンの口調だった。
「バトルシェルを起動させる必要はありません」
なにか台本でも読み上げるかのような口調で久米田が言った。おそらく7課長、立花の言ったことをそのまま伝えているだけなのだろう。言葉に彼の意志は微塵も感じられない。
「341中隊には要請があるまで、ホテルのロビーで待機してもらいます」
「我々は7課の要請を受けて動いているので、准佐の言葉に異論は差し挟まないが……」
氷のように冷たいメイスンの視線を受けて、久米田の心に少しだけ動揺が走った。
「要請を出して我々を出動させておいて、ロビーで待機とは……。立花中佐の意図をうかがいたい」
「中佐の意図はわかりませんが………」
動揺を言葉の端々にのせながら久米田はどう言いつくろえばいいのか、そのことだけを必至に考えていた。何も言いたくないのだが、そんなことではメイスンは納得しないだろう。久米田は素早く頭を回転させると、
「中佐としては、できるだけ341中隊に手をかけさせたくないようです」
そう久米田は答えた。
「わかりました」
メイスンはにっこりと微笑んだ。どうも、立花中佐は241中隊の存在が邪魔らしい。それだけは確認できた。
「我々341中隊はホテルロビーで待機しております」
言ってメイスンはエレベーターに向かって歩き出した。歩きながら、体内にインプラントしている通信機でオペレーターである美穂を呼び出す。
「黒井伍長、メイスンだ」
「はい」
脳に直接、美穂の緊張した声が聞こえてくる。
「これからホテルの全警備システムを監視しろ」
「了解しました」
美穂の答えを聞くと一行はエレベーターに乗り込み、一階に向かったのだった。
入り口からよどみなく続いていた今日子の歩みが、ロビーに入ったところで止まった。男物のソフトスーツを着た今日子はミラーシェードにロビーの風景を写しながら、視線をゆっくりと巡らせていった。
やがて、ロビーの隅の方に捜している男達を見つけて、彼女は歩き出した。男の一人が今日子の存在に気づいて立ち上がる。ごく普通のサラリーマン、といった感じの男だ。
「寺西少佐! こちらです」
男がそう声をかけると今日子はうなずき、
「ご苦労、高橋中尉」
と、声をかけて高橋の隣に座った。高橋のほかに5人、男がいる。この場に揃った6人、全員がバルキリーの隊員だった。
「で、どうでした?」
高橋が早速、今日子に訊く。
「立花中佐は我々が御堂園長のそばにいることを認めてくれたよ。まぁ、中佐が事態の重さを認識したのではなく、園長が我々を頼ってくれたのだがな」
「ざっとホテル内を見てきましたが………」
着飾った婦人がそばを通るのに気づいて、高橋は口を閉ざした。通り過ぎるのを待って、言葉を再開する。
「とりあえず、それらしい人間は7課の人間しかいませんでしたよ」
「狙ってるのが7課レベルの組織だったら、苦労しないですむな」
ロビーの角に立ってるブラックスーツの男を見て、今日子は嘲笑を含めて言った。特殊訓練をつんだ人間だったらその場の雰囲気に溶け込む術を知っているのだが、あきらかに7課の人間は浮いていた。抑止力としての護衛と考えるといいかもしれないが、しかし……。
「やはり、それなりの組織が?」
「2、3日前からカワサキの動きがおかしいという情報が入ってきている」
「カワサキ……特務7課ですか?」
「あぁ………」
高橋の言葉に今日子はうなずき、
「連中がイリーガルを指揮官として、部隊を編成しているという話も聞いた。どこまで本当かは知れないがな………」
「特務7課……西崎さんですね」
「そうだ」
「しかし、イリーガルを指揮官にするというのは、西崎さんらしくないやり口ですが………」
イリーガルとは、特殊部隊や諜報組織が非合法活動のために雇う傭兵のことだ。西崎はイリーガルを嫌っていることで有名で、どうしてもというときにしか使わない。そんな彼がイリーガルを部隊の指揮官にするとは、高橋には不思議に思えた。
「奴もプロだ………」
今日子の表情は氷の雰囲気。
「使わなくてはいけない状況では使ってくるだろう。人の癖は判断のファクターにはなるが、決して重要なファクターじゃない」
「そうですね、少佐」
ゆっくりとした調子で高橋はうなずく。
「どこの部隊が来ようが我々は最善の手で御堂を守り抜くだけだ」
そう今日子は言うと立ち上がった。
「さ、御堂の所に行くぞ」
今日子の言葉に5人の男達も立ち上がると、ロビーを出た。そのままエレベーターに向かって歩く。御堂の部屋は45階。
エレベーターのドアが小気味のよいチャイムの音と共に開き、乗ろうとした高橋の足が止まった。先に乗っていた人を降ろすためだ。半身になって道をあけ、乗っていた4人が降るのを待つ。
と、不意にその中の一人の足が止まった。半瞬遅れて、今日子の動きも止まる。そして、お互いの名前を呼んだのは同時だった。
「今日子………」
黒髪をかき上げてメイスンが呟き、
「サーリット………」
今日子がゆっくりとミラーシェードを外した。
「久しぶりだな、サーリット」
次に口を開いたのは今日子の方だった。エレベーターに乗る他の人間の邪魔にならないように脇に移動すると、
「同窓会以来か?」
「それぐらいになるかもな」
そう言ってメイスンは微笑んだ。周りの男達はみな驚いたようにそれぞれの上司の様子を見ている。もちろん、相手がどんな人間なのかは全員が知っていた。メイスンは2月14日の事件や多脚兵器事件で有名人だし、今日子も”バルキリーの寺西”といえばメイスン以上に有名だ。
「少佐」
高橋が無意識のうちに声のトーンを落として今日子に訊ねた。ちらっと軍服姿のメイスンを見て、
「メイスン少佐とはどのような関係なんですか?」
「防衛大学校で同期だったんだ。学科は違ったんだが、何かと一緒になる機会が多くてな」
そう高橋に間柄を説明してから今日子はふと気づいた。
「なるほど、SSFからは341中隊がでばってきたわけか」
「今日子の指名じゃなかったの?」
意外そうな口調でメイスンは訊いた。今日子はゆっくりと首を横に振ると、
「いいや。立花中佐に警備増強の要請をしたのは私だが、指名まではしてないぞ」
「ふ〜ん。まぁ、いいわ」
どこか意味ありげにメイスンはうなずくと、
「ところで、どうして今日子がこんなところにいるの? 警備は7課のはずでしょ?」
「ちょっと用があってな………」
歯切れの悪い今日子の解答だったが、メイスンはそれ以上なにも言わなかった。ただ肩をすくめると、
「私たちは基地からわざわざ出てきたのに、お客さんらしくロビーで待機さ」
「平和でいいな」
「まっ、本でも読んでるわ」
メイスンが微笑んで言うのを見て今日子も微笑んだ。微笑みを浮かべたままミラーシェードをかけると今日子は、
「じゃぁ、機会があったら飲みにでもいこう」
「えぇ………じゃぁね」
片手を上げてメイスンは歩き出し、それに答えて今日子も片手を上げると、エレベーターに乗り込んだ。
ホテルの地下駐車場に止まっている341中隊の指揮車の中にいるのは、黒井美穂伍長とベイ・ウォードシップ伍長の2名だけであった。電子戦の訓練も受けているが彼女たちは、メイスン達の動きをサポートするバックアップとして参加していた。
「ねぇ………美穂」
ハードから伸びたコードを首の後ろの端子につなげたまま、ベイは背中合わせに座っている親友に呼びかけた。モニターから視線を離さずに、
「ホテルのシステムの動きが変じゃない?」
「変って………なにが?」
ベイはホテルのシステムを監視しているが、美穂はホテル周囲の電波を拾っていた。
「なんかシステムの反応が鈍くなったのよ」
「気のせいじゃないの?」
電波を拾うのに真剣な美穂の返答はどこか冷たい。
「だから、気のせいかどうか確かめるために訊いてるんじゃないの」
「そんなこと言われたって私はホテルのシステム監視なんてしてないから、わかんないわよ」
「そっか………」
なにやらベイは一人で納得すると、
「そりゃそうだよねぇ………」
などと呟きつつ、モニターに再び神経を集中させた。そんなベイを見て美穂は、
「もぅ」
と意味のない呟きを漏らすと、彼女もまた自分の仕事に戻っていった。
ロビーに座る4名の軍人の中で暇そうなのは、バーガーだけだった。というのも、彼だけが”お客さん”扱いされるであろうことを見抜いてなかったのだ。
メイスンはハンドバックから文庫本を取り出して読みふけっているし、フォスターは携帯用MDプレイヤーで音楽鑑賞、中山は熟睡中だ。バーガーも暇なのだから眠りにつけばいいのだが、こんな人目の付くところで眠れるほど神経が図太くなかった。
仕方がないので、バーガーはマンウォッチングに徹していた。周囲の人間をぼぉ〜と眺めていたが、すぐに飽きが来た。いい加減、寝てしまおうかと思ったときだった。
フロントのそばに見たことのある人影を見つけたのだ。白いブレザーを着たショートカットの少女。
「………ミレア?」
その少女を見た瞬間、バーガーは銃撃戦の中で消えていった少女のことを思いだした。似ているというレベルじゃない。まさか………
「少佐!」
バーガーの呼びかけにメイスンは1秒ほど遅れて反応した。文庫本から顔を上げずに、「なんだ?」
「ミレアがいたんですけど………」
「はぁ?」
はじめバーガーが何を言っているのか、メイスンには理解できなかった。もちろんミレアという名詞が何を意味しているのかはわかっている。でも、なぜあの少女がこんなところに?
「本当か?」
重ねてメイスンが訊く。バーガーは困ったように首を捻ると、
「本当か? と、訊かれても………」
バーガーはもう一度、先ほどミレアらしき少女がいた方向を見た。しかし、そこにはもう白いブレザーの少女はいない。
「もういませんし………」
「じゃぁ、錯覚だろ」
そう無理矢理メイスンは断定すると、再び文庫本に目を落とした。なにかバーガーは言いかけたが、何も言わないことにする。どうせ何を言ったって聞いてくれないだろうし、それに確信だってない。
それでも未練がましくバーガーはもう一度、視線を泳がせた。そして、今度はエレベーターの前に見つけたのだ。
見つけたときにはすでにバーガーは立ち上がっていた。理由はわからない。ただ、彼はその少女がミレアかどうか確認したかった。
ほとんど無意識のうちに、バーガーはその少女の尾行を開始していた。
「隊長………」
部下の呼び声にJは地上を見下ろしていた顔を上げた。ヘリのローター音がうるさい。
「第5班から連絡です。ホテルのシステム周辺に身元不明のハッカーらしきモノが、と。どうしますか?」
「時間がないな………焼け」
Jの指示は明確だった。
ホテルの警備システムを監視し不審な動向があった場合に報告するのがベイの任務である以上、彼女がシステムの深部に潜る必要性はなかった。にもかかわらず、彼女はシステムの深部に潜り込んでいた。任務ではなく彼女自身の好奇心につき動かされてだ。
「以外と、警備は緩いのね」
システムをざっと見回してベイはそう評価を下した。
ジャック=インはしていない。複雑なハッキングをするわけでもないし、単に侵入して中を見てまわるだけだったら脳をオンラインさせるだけで十分なのだ。精神を直接ネットワークにさらすジャック=インは、意外と危険な行為なのである。
ピッ!
ビープ音がベイの神経に緊張を生んだ。モニターの中央にウィルスの接近を知らせる警告ウィンドウが開き、同時に接近してくるウィルスの推定情報が表示される。
ホテルの警備システム?
汎用ワクチンをばらまきながらベイは自分自身に訊いた。だが、汎用ワクチンが一瞬で喰い破られるのを見て、彼女はその考えを即座に捨てる。ホテルの警備が対ハッカー用に使うレベルじゃない。だとすれば………
即座にベイはシステムからの撤退を決め、行動に移した。囮であるデコイを撒き散らしながら少し乱暴に階層を上がっていく。任務が深部にいる必要性を認めない以上、撤退するのが吉というモノだ。
だが、ウィルスはデコイにも目をくれず逃げるベイを追ってくる。ウィルスの正体を見極めるために彼女はブロープを投げつけたが、これも動き出す前にウィルスによって破壊された。
そして、その一瞬の動きがベイの撤退スピードを遅らせウィルスが彼女に追いつく結果を導いた。最初の攻撃はかわすことはできた。だが、次の攻撃をかわすことはできなかった。精神に鋭い痛みが走り、思わず彼女は悲鳴を上げてしまう。
「きゃ!」
「どうしたの?」
美穂がベイの異変に気づいたのは、その悲鳴を聞いたときだった。尋常ならざるスピードでキーボードを叩くベイを見て、美穂は彼女のモニターを覗き込む。そして、美穂はベイが追い込まれていることを知った。
「ベイ! ロックされてるわよ!!」
「わかってる!」
ベイの言葉はほとんど悲鳴に近いものだった。通信機のマイクを取り上げて、美穂はメイスンを呼び出す。
「中隊指揮車よりメイスン少佐へ。ウォードシップ伍長がウィルスの攻撃を!!」
さらに、ビープ音がどこか冷徹に鳴り響いて、美穂は視線の先をニターに移動させた。画面の右下にウィンドウが開いてウィルスが5体接近していることを知らせる。ベイのキーボードを叩くスピードがさらに速くなるが、彼女はまだウィルスのロックをかわしていなかった。
「はやく、ウィルスにやられちゃうよ!!」
美穂の言葉が悲鳴に近くなる。
「そんなこと言ったって………いやぁぁぁっ!」
涙まじりの悲鳴をベイが上げた瞬間、彼女の体が電気に打たれたように跳ね上がった。体を大きくのけぞって声にならない悲鳴を上げ続ける。ウィルスの攻撃がフィードバックして、彼女の脳に多大な電流が流れたのだ。
ドサッという音をたててキーボードの上に突っ伏したときには、ベイはもう動かなくなっていた。
ホテルヨーロッパの上をヘリが旋回していた。軍用には見えないが、通常のヘリよりかなり大きい。カワサキ・セキュリティ社が特殊任務に使用する偽装ヘリであり、乗っているのはJが率いる20名の兵士のうちの15名だった。
「ホテル側より着陸許可がおりました」
ヘリの通信士の報告を聞いてJはうなずいた。もちろんホテルヨーロッパが完全武装の兵士を乗せた他社のヘリに屋上への着陸許可を出すわけがない。特務7課の電脳班がホテルのハードをハッキングして出させた偽の許可だ。
「3班は屋上を制圧したか?」
グレーの都市迷彩服に身を包んだJはヘリの窓からホテルの屋上を見下ろすと、通信士に尋ねた。数名の男達が屋上を走り回っているのが見える。
「制圧したようです」
通信士の返事を聞いてJはパイロットに命じた。
「よし、着陸しろ」
着陸に障害はなかった。スーツを着た3班の兵士5名が屋上の警備員を射殺し完全に制圧したためだ。ヘリが着陸し兵士達が展開していく。全ては作戦通りだった。素早く展開していく兵士達を見ながら、Jは満足そうにうなずいた。
「これならいけるな………」
「隊長」
部下の呼び声にJは走り出した。
何かが変だ。
メイスンはインプラントしている通信機で美穂に指示を出しながら、そう感じていた。ハッカーをウィルスで追い払うのは通常の対応だが、しかし、ハッカーの”脳を焼く”というのはいきすぎた対応だし、電脳機密保護法に違反する行為だ。
7課に連絡してベイを病院に収容する手配をつけると、メイスンは通信を切った。それから部下に状況を説明すると、
「我々はこの場に待機して立花中佐の指示を待つ」
と、中山達に告げた。そして、彼女は視界の中にバーガーの姿がないことに気づいたのだ。
「軍曹はどうした?」
「バーガーでしたらそこに………」
と、中山の指さす方向にもいない。中山はそのままぐるりと周りを見回したがやはり姿はない。
「あれ?………確かにそこにいたんですけど………」
「トイレじゃないですか?」
エレベーターの方を見ながらフォスターが言った。
「さっき向こうに歩いていくのを見ましたよ」
「さっきっていつの話だ?」
中山が訊いたが、フォスターは首をすくめてその問いに答えた。
「困ったな」
今日子は呟くと、考え込むように腕を組んだ。
両脇に二人の男が立っているドアを見つけて、今日子の足が止まった。ミラーシェードをかけたスーツ姿の男が二人。今日子は顎でその男達をさすと、
「あの部屋か?」
「そのようですね」
高橋がワンテンポ遅れて答えた。その答えを聞いてメイスンは歩き出すと、男達に近づいていった。6名の部下を引き連れてその部屋、4751号室の前に立つと、
「バルキリーの寺西今日子少佐だ。中に入れてもらえるかな?」
「IDカードを見せてもらえますか?」
右手の男が少し控えめな口調で言った。男の要求通り今日子がIDカードを見せると男はうなずき、ドアを開ける。
部屋はかなり大きめだった。リビングとその奥に寝室。トイレとバスは別になっていて、トイレは入り口のすぐ脇、バスは寝室のさらに奥という作りだ。御堂はリビングのソファーに腰かけていたが立花はそこにはいなかった。今日子は寝室も覗いてみるが、護衛が何人かいるだけでやはり立花の姿はない。
「久しぶりだな、寺西少佐」
今日子の姿を認めて御堂がゆっくりとした調子で言った。
「博士もお元気そうで………」
軽く頭を下げて今日子は御堂に挨拶すると、
「立花中佐はどちらに………?」
と、近くの7課の人間に訊いた。
「中佐はホテルの警備主任と打ち合わせに行きました。すぐに戻ってくると思いますが………」
「そうか………」
今日子はうなずくと窓に近づき外の様子を観察する。半径1キロ以内にこの部屋より高いビルはないようだ。ということは、少なくとも狙撃の心配はない。
「寺西少佐っ!」
名を呼ばれて今日子は振り返った。リビングの入り口の所に、部下を数名連れた立花が立っていた。今日子は立花に近づくと、
「警備の状態はどうなってますか?」
「心配性だな、少佐は………」
そう言って立花は微笑んだ。懐からシガレットケースを取り出し煙草を手に取ると、
「今のところ異常はない。不審な車両もないしホテルの警備システムはきちんと作動している」
「ハッキングはありましたか?」
「………ハッキング?」
煙草に火を付けようとした立花の手の動きが止まった。煙草を口のはしにくわえたまま今日子の顔を見る。今日子は立花の瞳に視線を据えると、
「えぇ………ホテルの警備システムに対するハッキングです」
「ハッキングというわけではないが、少佐の部隊のオペレーターの脳が焼かれたという報告なら来ているが………」
「それはホテルの対応の結果ですか?」
ライターを使って立花は煙草に火を付け紫煙を吸い込むと、
「いや、ホテル側からそのような報告は来ていない。どうなっているのかは、現在調査中だ」
「ホテルじゃない! なぜ、そのことを早く教えてくれなかったのですっ!」
今日子は怒声にも似た声で言うと、
「高橋!」
鋭い声で部下の名を呼んだ。
「二人連れてホテルのシステム警備ログをチェックしてこい。それから………」
そこまで言って今日子は妙な気配を感じて振り返った。窓の外に見える二つの影。その影を濃いグレーの都市迷彩服に身を包んだ2名の兵士と認識した瞬間、今日子は銃を抜いていた。
御堂の座っているソファーを倒し老人をソファーの下に隠すと、今日子は壁を背にして銃口を窓に向けた。そして、窓ガラスが派手に割れる音が響き、兵士が突入してきた瞬間、トリガーを絞る。
二人の兵士の左胸に赤い花が同時に咲いた。さらに窓から突入してくる二人に気づき、今日子は銃口を横に滑らせたが間に合わない。素早く飛び退き、体が床に着くよりも早く今日子は一人に銃弾を叩き込んだ。半瞬前まで彼女のいた空間を銃弾が引き裂く。それから、転がるようにして立ち上がると、今日子は残りの一人にブレッドを叩き込んだ。
戦闘は一瞬だった。部屋の中に生きている敵が居ないことを確認すると、今日子はソファーを起こして、立とうとする御堂に手を貸した。
「相変わらず手荒じゃな、今日子は………」
スーツに付いた埃を払いながら御堂が冗談めいた口調で言った。その言葉に微笑んで今日子は答えると、
「高橋、状況はどうなっている?」
「7課の人間がかなりやられています」
寝室の方を覗きながら高橋はそう報告した。振り返り今日子のそばまでやってくると、「突入してきたのは全部で8。損害はバルキリー0、7課が5です。あと立花中佐が………」
高橋に言われて、今日子は初めて額に穴を開けて転がっている立花に気づいた。突入してきた兵士に殺られたのだろう。銃も抜いていないところを見ると、兵の突入に気づいたかどうかも妖しいものだ。
「よし、これより御堂博士の警備はバルキリーが引き継ぐ」
今日子は部下と7課の人間にそう宣言すると、
「高橋、ホテルの警備主任に襲撃された旨と警備の引継、私の呼び出しコードを連絡しろ。堀井、ボルト、須藤で廊下を押さえろ。ホテルを出る」
「待って下さい!」
7課の男の声に、今日子は振り返った。
「まだ学会は終わってません。御堂博士が欠席することは………」
「悪いな」
今日子の口調はあくまでも冷たかった。
「我々は博士の命を最優先させなくてはいけない。それにどっちにしろ、もう学会どころではないだろう?」
その今日子の言葉に男は何も言い返せなかった。沈黙を肯定と受け取り、今日子は御堂の肩に手をおくと、
「博士、大丈夫ですか?」
「わしに怪我はないが………今日子は大丈夫なのか?」
「私は大丈夫ですよ………」
言ってから今日子は「うっ」と顔を歪ませた。右肩にガラスの破片が刺さっているのに気づいて、彼女は左手でその破片を抜き取ると、
「大丈夫です、博士。さぁ、行きましょう」
と、御堂をうながし二人は廊下に向かって歩き出した。
少女が立ち止まったのは、エレベーターを降りてちょうど10歩、歩いたときだった。ソファーと小さなテーブル、観葉植物を置いて作られた小さなロビー。少女はちょうどエレベーターのドアの前に立ち止まり、バーガーは数メートル離れたところで立ち止まった。
ゆっくりとした動きで少女が振り返った。バーガーが身を隠そうとすれば隠せるだけの時間があったが、彼は何もしなかった。その場に立っている。
振り返りバーガーと目があった瞬間、少女は息をもらすように呟いていた。
「バーガーさん………」
「やっぱり、ミレアだったのか………」
明るい声で少女の名前を呼ぶと、バーガーはミレアに近づいていった。
「どうしてこんな所にいるんですか?」
近づいてくるバーガーに少しだけ警戒の色を強めてミレアが訊いた。警戒はしているものの離れようとはしない。バーガーはミレアのそばまで近づくと、
「俺は仕事だからだけど………でも、どうしてミレアがこんなところに………」
バーガーは無意識のうちに間を空けると、奇妙な質問をしていた。
「どうして、あの時、基地を出ていったんだ……」
妙な沈黙が舞い降りてバーガーは自分の言葉を呪った。すぐに慌てた口調で、
「いや、別にミレアを責めてるわけじゃないんだ………ただ………」
と言ったが、それ以上は言葉にならなかった。顔を背けるミレアを見て、この場に舞い降りた沈黙を感じて、それ以上はなにも言えなくなったのだ。気の利いた台詞一つ、思いつかない。
「あれ以上、バーガーさん達に迷惑をかけたくなかったんです」
ぼそっとミレアが言った。あいかわらず少女は顔を背けているが、それでもバーガーはミレアの横顔を見つめながら、
「迷惑って、そんなこと………」
そこまで言ってバーガーは不意にあることに気づいた。もしかしたら、第3基地があの夜、何者かに襲撃されたのはミレアがいたせいかもしれない………。根拠は何もないが、ただ直感がバーガーにそう告げていた。
バーガーの沈黙の意味に気づいたのかのように、ミレアが歩き出した。バーガーから離れるように………。バーガーはどうにかして少女を止めようと思うが、何も言葉が思いつかない。二人の間に増えていく距離が言い様のない壁となって彼の心にのしかかる。
不意に、銃声が聞こえてきてミレアの動きが止まった。連続した銃声に短い悲鳴。何かが壊れる音。全てが戦いを意味している。
「ミレア………?」
あきらかに緊張している少女にバーガーはそぉっと声をかけた。少女が振り返り何かを言いかけたとき、8人ぐらいの集団が廊下を走ってこっちに向かってくることにバーガーは気づいた。
老人と男物のスーツを着たショートカットの女性、残りは全員、男。バーガーが女性のことをバルキリーの寺西今日子であると気づいたときには、もうミレアは行動を起こしていた。
懐に右手を入れ、銃を抜き、かまえる。そのスリーアクションのうちバーガーが認識できたのは最後のワンアクションだけだった。ミレアがバーガーの不意をついたからではない。ただ、ミレアの動きが早すぎて彼がその動きを認識できなかっただけなのである。
「ミレア!」
誰かが叫んだ。誰がミレアの名を呼んだのか気になったが、それ以上にバーガーの注意を引いたのは今日子のかまえる銃だった。銃口が真っ直ぐにミレアに向けられている。そのことに気づく同時に、バーガーはミレアの前に飛び出していた。
流れるように進んでいた時間が、不意に遅くなったように感じられた。
「バーガーさん!」というミレアの叫びも、
「貴様!」という今日子の叫びも、なぜかはっきりとバーガーの耳には聞こえていた。
ミレアの前に立ちはだかった瞬間、銃声がはるか遠くで聞こえた。息を呑む少女の気配を背後に感じて、同時に脇腹に鋭い痛みを感じる。そして、時間が元に戻った。
「貴様!」
バーガーの行動をなじる男の叫びを聞きながら、バーガーは右手を伸ばしてエレベーターの下りのボタンを押した。すぐにドアが開いて左手でミレアの右手を掴むと、彼はエレベーターの中に転がり込む。
「バーガーさん!」
ミレアは叫びながら、エレベーターの”閉”ボタンを押した。少女の背後でエレベーターのドアが閉まって、ゆっくりと下に降りていく。
「地下3階に降りてくれ………」
少し苦しそうなバーガーの息。言われるまま、ミレアは”B3”のボタンを押した。それから、バーガーに向き直る。
バーガーはガラスに背を預けて床の上に座り込むようにしていた。本人は立っていたいのだが、体が言うことを聞いてくれない。ガラスにべっとりと付いている血の後が、痛々しい。
「大丈夫ですか?」
ポケットからハンカチを取り出して脇腹の銃創にあて、ミレアが訊く。バーガーはハンカチだけ受け取りミレアの手を傷から外すと、
「弾は抜けているから大丈夫………ただ、出血がね」
そう言ってバーガーは微笑んでみせた。本人はミレアを安心させるつもりで微笑んだのだが、そんな弱々しい笑みで少女が安心するわけがない。まるで暖めるようにミレアは両手でバーガーの左手を包み込むと、
「なんで、こんなことを………」
「さぁね」
心持ち首を傾げるとバーガーは、
「俺自身もわかんない。でも、体が勝手にね」
「そんなことしなくても………よかったのに………」
ミレアの言葉にはほんのわずかだけ涙の雰囲気が混じっていたが、バーガーはそのことに気づかなかった。ミレアの手の中から左手を外し彼女の髪をそっと撫でると、彼は残りの力を込めて訊いた。
「なんで、あんなことをしたんだ?」
「あんなことって………」
わかりきっていることだったが、それでもミレアは訊き返していた。
「どうして、バルキリーの寺西少佐を撃とうとしたんだ?」
「私が撃とうとしたのは寺西じゃないわ」
ゆっくりと自分の髪を撫でるバーガーの左手を外すと、ミレアは立ち上がった。バーガーに背中を向けると、
「御堂園長よ」
「御堂って………御堂博士?」
そのことにミレアは何も答えなかった。ただ、ホルスターから銃を抜くだけだ。銃を抜きマガジンの中の銃弾を確認したミレアを見て、バーガーが弱々しく言う。
「ミレア………君がなんで御堂博士を撃とうとしているかは知らないけど、今日は無理だ。逃げた方がいい」
「………え?」
突然のバーガーの言葉にミレアは振り返った。ミレアの言葉を待たずにバーガーは言葉だけを続ける。
「俺がバトルシェルで騒ぎを起こすから、その隙に………」
そう言ってバーガーはまた微笑んだ。そして、その微笑みを見た途端、ミレアは言葉を失った。いや、失ったわけではない。言葉はいっぱい浮かぶのに、どれを口にしていいのかわからなくなったのだ。
ただ時間だけは過ぎていき、エレベーターは降りていく。
下降していくエレベーターの中で今日子は自分の行動を振り返っていた。
4751号室を攻撃してきた部隊の追撃を迎撃するために7課の生き残りを47階に残し、さらにバルキリーの6名をミレアを追撃する部隊と御堂を護衛する部隊に分けた。同時に、バルキリー本部に応援をよこすよう連絡し5分以内に応援の部隊が到着するはずだ。さらに、4751号室が攻撃されたことでホテルの警備部隊も動き出したはず。
「………負ける要素はどこにないな」
不意に今日子は呟いた。それから、御堂と部下の七月を見やると、
「博士、大丈夫ですか?」
「わしは大丈夫だが………これからどうするつもりなんだ? 今日子」
「一階のロビーでバルキリーの増援と合流します」
はっきりとした口調で今日子は言った。それから、御堂の瞳を見つめると、
「大丈夫です。博士の命は守り抜きます」
その言葉は御堂に向けられたと言うよりも、今日子自身に向けられた言葉だった。御堂の命を狙ってる部隊がどこの部隊かは不明だが、対抗策は万全のはずだ。ミレアがその部隊と連携しているかどうかも不明だが、たとえ連携していてもその動きは断ったはず。あとは………
「気になるのはあのSSFの軍曹ですね」
七月の言葉に今日子はうなずいた。減っていく階数表示の数字を見つめながら御堂が訊く。
「何者かわからんのか?」
「とりあえずメモリーしてあった視覚データから軍曹の顔データを抜き出し、本部に照会を頼みました。それでなんとか………」
今日子は10分間の視覚と聴覚の変化を、常時、脳の増設メモリー内に残してある。本部に送ったのはそのメモリー内に残っていた視覚データから、バーガーの顔データをピックアップしたモノだった。
「しかし、なぜ、SSFの人間が………」
そこまで七月が言ったとき、インプラントしている今日子の通信機に通信が飛び込んできた。右手で七月の言葉を制し今日子は通信を受け取る。
「3班のシュナイダーです」
今日子の部下。
「3班及び4班で一階ロビーを制圧しました。あと、ホテルの総支配人の名前で抗議が来ていますが………」
「無視していい。あまりうるさいようだったら、専務の名前を出していい」
「わかりました」
通信が切れ、今日子はそのままミレアを追跡している高橋を呼びだした。
「高橋です」
「寺西だ。状況は?」
「現在、地下3階に向かってるようです。SSFの軍曹と別れたかどうかは不明です」
「そのまま追跡しろ。ホテルから出るようだったらアタックしても良いが、私と合流するまではできるだけアタックは控えろ」
「了解しました」
通信が切れて今日子はふぅっと息を漏らした。手は打ち尽くした。問題はあとはどうなるか、だ………。
無惨にも転がっている借り物の部下の死体を見下ろして、Jは「くっ」と唇を噛みしめた。最初の攻撃で終わるとは思っていなかったが、ここまで失敗するとも思っていなかった。
「隊長!」
戸口に立つ部下の呼び声にJは振り返った。
「エレベーターロビーの部隊が意外と手強く………指示を」
「待て」
Jはそう言って襟に付けている無線機を取ると、
「電脳班、御堂の現在位置を把握しているか?」
「現在、メイン2号エレベーターで下降中です」
「よし、そのエレベーターを地下3階まで一気に降ろせ」
「了解しました」
無線が切れるとJは振り返り待機している部下に命じた。
「地下3階で仕掛ける。1班をロビーに残してあとは全て地下3階に回せ」
状況は自分に有利だ。そうJは信じていた。第一回の攻撃は予想を下回る結果だったが、まだホテルのシステムは自分たちが握っている。電脳権を奪回されない限り、有利であるはずだ。
「よし、移動するぞ」
Jはそう部下に呼びかけると、4751号室を出た。
明らかに変化が起こっているのだが、メイスン達はその変化から取り残されていた。薄い灰色の都市迷彩服を着た兵士達がロビーの中をうろついているという状況になっても7課からの連絡はないし、こちらからの連絡にも答えてくれないという状態だった。
「何が起きてるんでしょう」
苛立ちがかなり混じった口調で中山が訊くが、メイスンが答えられるわけがない。メイスンだって訊きたいくらいなのだ。ロビーのソファーに座ったままミラーシェード越しにメイスンは周りを見回すと、
「わからん。が、何かが起きている………」
「バーガーも戻ってきませんし………」
まるで他人事のようにフォスターが言う。メイスンはフォスターに視線を向けると、
「無線の呼び出しは続けているのか?」
「先程から呼び出してはいるんですが応えません。無線機を携帯していないのか、応えれないのか………」
メイスンや中山、フォスターは大戦中に通信機をインプラントしていたが、大戦後にこの道に入ったバーガーはインプラントしていなかった。だから、メイスンは彼に通信機を常時携帯しているよう指示しておいたのだが、今回はその指示は役に立っていないようだった。
「バーガーはまぁ置いておくとして………状況が気になるな」
ほとんど独り言のようにメイスンは言うと、インプラントしている通信機で美穂を呼びだした。
「メイスン少佐だ。ホテルのシステムの現状を報告せよ」
「それがどう報告していいか………」
明らかに美穂の声は戸惑っていた。彼女は実戦は初めてだった。本当はメイスンも実戦経験のあるオペレーターを使いたかったのだが、訓練上がりしか基地にはいなかったでのある。
「事実だけを簡潔に報告しろ」
メイスンの言葉に「はい」と美穂はうなずくと、
「4751号室がどこかの部隊に襲撃されて、ホテルの警備部隊が動き始めています」
「なぜ、そのことを早く報告しない!!」
美穂の報告を聞いてメイスンはほとんど反射的に怒鳴っていた。「す…すいません」と謝る美穂にメイスンは、
「4751号室の客は誰だ?」
「待って下さい………御堂博士です」
「状況がわかりましたね」
今までの通信を傍受していたのだろう中山が言った。言われなくても聞いた瞬間に、メイスンも理解した。御堂博士がどこかの部隊に襲撃されて、バルキリーとホテルの警備部隊がそれを追撃している。というところか………。
「7課から連絡がないということは、7課の人間は4751号室が襲撃された時点で大半が殺られたと見ていいな」
「しかし………」
メイスンの推測に異議を唱えたのはフォスターだった。
「現状は御堂博士の生存を意味しています。7課が潰滅するような被害の中で、御堂博士だけが生き残れるとは………」
「7課の現状が潰滅ではなく一時的な機能麻痺状態だったらいいか? それに、寺西今日子がいた。あの女だったらそんな状況でも御堂博士を守れるさ」
そこまで一気に言うと、メイスンは立ち上がった。
「よし、341中隊はバトルシェルに搭乗、バルキリーと連絡を取り彼らを援護する」
何事もなかったように一階を通り過ぎた瞬間、今日子の顔に緊張が走った。ゆっくりとミラーシェードを外すと、
「どうやら、どこかの部隊がホテルのシステムを牛耳ってるらしいな」
「降下速度も落ちてます……トラップですか?」
懐から銃を抜いて七月が訊く。
「あぁ。チープなトラップだがな」
今日子は銃を抜くと、御堂に向かって言った。
「博士、また手荒なことになりそうです」
「もう慣れてしまったよ」
微笑みながらの御堂の言葉は、何かを悟ったような口調だった。
エレベーターのドアに銃口を向ける10名あまりの兵を見て、Jは一人ほくそ笑んでいた。完璧だ。たとえ寺西今日子がこのトラップに気づいていたとしても、抵抗なぞできるわけがない。
エレベーターの階数表示が減っていく。1FがB1になり、B2に………そして、B3に………。チンッという小気味の良いチャイムの音と同時にエレベーターのドアが静かに開いた瞬間、いくつもの銃口が同時に火を噴いた。
連続した銃声がコンクリートの空間に響きわたり、銃弾がエレベーターの中に撃ち込まれていく。銃弾はエレベーターを引き裂いていき、硝煙の匂いがあたりに立ちこめる。銃撃はたっぷり1分以上続き、Jの「やめろ」という言葉で不意に終わった。
突然訪れた静寂の中、死体を確認するために2名の兵がエレベーターに入っていく。だが、中を素早く見回し振り返った兵士の報告はJの期待を裏切るモノだった。
「中に死体はありません!」
「なに!?」
その瞬間、背後に殺気を感じてJは振り返った。同時に、いくつもの小さな風が頬をかすめていくのを感じる。その風の正体が銃弾であるとJが気づいたときには、もう戦闘は終わっていた。
恐ろしく効率的な戦闘だった。数秒にも満たない銃撃でJ以外の兵全員が死亡したのだ。信じられなかった。絶対に勝利を確信していた戦闘に、一瞬で敗北したのだ。
「意外だったな」
女の声。Jは振り返り、エレベーターから出てくる寺西今日子と御堂園長を見た。そして、エレベーターの天井から降りてくる男、七月を見てJは全てを知ったのだ。
完全に彼は敗北していた。Jはトラップを仕掛けたつもりだったが、今日子はそのトラップを逆に利用してトラップを仕掛けていたのだ。
「ホテルのシステムを支配し続けたことは誉めてやるが、実戦レベルが甘かったな。私の教育が甘かったのか貴様が増長したのか………」
教師が生徒の成績を評価するような口調で今日子は言った。
「うるさい!」
今日子の言葉を聞いた瞬間、Jは反射的に喚いていた。
「俺はもう学園の生徒じゃないし、貴様のおもちゃでもない!」
「ふん………当たり前だ」
興奮しているJに対して今日子はあくまでも冷静だった。
「貴様は私に銃口を向けたのだ。どこの誰に踊らされたのか、あとでゆっくりと吐いてもらうぞ」
それから彼女は闇に潜んでいる部下に命じたのだ。
「連れていけ!」
Jの一番近くに居た兵2名が動きだそうとした。Jとの距離は4メートル。にもかかわらず、先に行動を結果に導かせたのはJだった。
命令を受けて兵が動き出そうとした瞬間に、Jは素早くその兵に近づき首をナイフで切り裂いた。人間をはるかに超えたスピードで彼は兵の命を奪うと、その返すナイフでもう一人の右腕を切り落とす。
「J!」
今日子が少年の名前を呼びその体に銃弾を叩き込もうとしたが、彼女が引き金を絞ったときにはもうJは別の場所に移動していた。銃弾が空しく空を切り裂き、所有者の知れぬベンツのドアに穴をいくつも開ける。
「追え!」
今日子の叫びに応じて隊員達は動き出した。だが、彼女は一人、動こうとしなかった。
コンクリートの空間に響くのは、二人の足音だけだった。バーガーはミレアの手を引いて、地下駐車場を自分のバトルシェルめがけて走る。脇腹の傷は痛むが、ミレアの応急処置によって出血は止まっていた。
その二人を高橋が率いる部隊が追跡していたのだが、そのことにバーガーはもちろんのことミレアも気づいていない。今日子の命令があればいつでも攻撃をできる態勢にあるのだが、今日子からの指示はまだなかった。
「少佐………」
バーガー達の動きにあわせて移動しながら高橋は今日子の身を案じていたが、彼女からの連絡はなくこちらからの連絡にも今日子はなにも答えなかった。順調にいけばそろそろ合流してもおかしくない時間なのだが………。
そのとき、不意にバーガーとミレアの動きが止まった。あわせて高橋と部下達も動きを止める。なぜ、動きを止めたのか原因を見つけようとして辺りを見回し、高橋は駐車場の奥が明るいことに気づいた。
暗い駐車場の中で、ひときわ明るい一角。SSF341中隊の駐車スペースだ。
「おかしい………」
トレーラーが止めてある区画を遠くから覗き込んでバーガーが言った。
「どうしたの?」
どこか怯えた口調でミレアが訊く。ほとんど無意識のうちにバーガーはミレアの肩に手をやると、
「少佐達は一階にいるはずなのに、どうしてトレーラーに明かりがついているんだ?」
それはミレアに訊いたというよりも、バーガーが自分自身に向けた質問だった。
バーガーの目の前で、カーゴのドアが開きはじめた。カーゴが開いていくにつれ明かりの量が増えていき、ついにバトルシェルの上半身が現れる。
はじめ右足、ついで左足がコンクリートの上に降り、ゆっくりとした動作でバトルシェルが立ち上がろうとする。普通の動作よりもかなりゆっくりなの、天井の高さを測りながらやっているせいなのだろう。
「バーガーさん!」
バトルシェルが完全に立ち上がった瞬間、ミレアは名前を叫んだが、そのことに彼は気づかなかった。バーガーは立ち上がった巨人に心を奪われていた。右手に30ミリABTライフルを持った巨人に………。
バトルシェルの首が動いた。左右に動き、不意に止まる。頭部にあるカメラアイが自分とミレアを見ているということに気づいた瞬間、バーガーはきびすを返しミレアの手を取り走り出した。
「バーガー!」
バトルシェルの外部スピーカーから彼の名が撃ちはなたれたが、バーガーは立ち止まらなかった。舌打ちをし中山は外部スピーカーから部隊内通信にチャンネルを切り替えると、
「スパークより各機。バーガーを発見しました。現在、駐車場を我々から離れるように走っています。それから、そばにミレアが………」
「な………」
自機を立ち上げようとしていたメイスンのショックは大きく、思わず立ち上げ準備の手を止めてしまうほどだった。滅多に使わない通信機のマイクを取ると、
「本当か? スパーク」
「間違いありません。映像を転送しましょうか?」
「30秒待て。今、マシンとシンクロする」
メイスンはそう言ってマイクを置くと、コックピットの天井からぶら下がっているヘルメットを被った。ついで、やはり上から伸びてきている4本のコードを首の後ろのジャック=イン端子にはめる。コネクトした瞬間、脳波を使ったパーソナルチェックが行われバトルシェルが搭乗者を認識して視界に光が生まれた。
駐車場内の風景が網膜に投影され、その上に重ねて視覚的要素を必要とする情報が映し出される。ほかの情報が直接、脳に流れ込む。情報はバックアップが流すモノや、バトルシェルのセンサー情報など種々雑多だ。
ゆえに、搭乗者はそれらを無意識のうちに統制する必要がある。無秩序に流れ込んでくる戦術情報を自己の統制下に置く必要がある。そして、その行為を、情報を自己統制下に置くための精神集中を、バトルシェル乗り達は”シンクロする”と呼んでいた。
「よし、いいぞ」
シンクロを確認してメイスンは中山に映像を転送するよう言った。すぐに視界の右隅が切り取られて映像が現れる。それに写っているのは間違いなくバーガーとミレアだった。しっかり手をつないでいる。
「いったい、どうなってるんだ?」
メイスンはそう呟いたが、それで事態が改善されるわけではない。今はバーガーを確保すると同時に、バルキリーと連絡を取り協力態勢を取るほうが大切だ。
メイスンは外部スピーカーをONにすると少女の手を取って走る部下の名を叫んだ。
「クリフ・バーガー軍曹!」
フルネームを大声で呼ばれて、バーガーは反射的に立ち止まってしまった。恐る恐る振り返って彼の上官のバトルシェルが立ち上がっていることを知る。真っ黒に塗装されたメイスンの愛機。
「ミレアと共にこっちに来い! 早く!!」
だが、バーガーは動きだそうとしなかった。ミレアと共にメイスンの元に行ったら少女の運命がどうなるかは自明の理だった。それだけは避けたかった。自分がどうなろうともそれだけは避けたかった。
「ミレア!」
新たに少女の名を呼ぶ少年の声が聞こえてきて、バーガーはそちらに顔を向けた。グレーの都市迷彩服に身を包んだ少年が車の影から現れる。バーガーよりも年下でミレアと同年代の少年だ。
「J!」
少年の姿を見てミレアは叫んだ。驚いたようにバーガーはミレアを見ると、
「知ってるのか?」
「………うん、”学園”で一緒だったの」
少し曖昧にミレアはうなずくと、
「なんでこんなところにあんたがいるのよ!!」
「それはこっちの台詞だぜ、ミレア」
ぺっとツバをコンクリートの上に吐き捨ててJが言った。Jは真っ直ぐにミレアを見ると、
「俺達がカワサキに拾われたあの夜、以来だな。結局、あの夜自由になったのはお前一人だったが………」
「私を恨んでるわけ?」
はっきりとした口調でミレアは訊いた。だが、Jは首を横に振る。
「いや、恨んじゃいないさ。ただ………」
そこまでJが言った瞬間、彼ら3人は銃口に囲まれていた。本当に一瞬だった。都市迷彩服に身を包んだ兵15名の小銃の銃口が、自分たちを睨らんでいる。
「あんたの仕業!?」
喚くようにミレアが訊いたが、狂ったように首を横に振るとJは、
「いや、違う。俺じゃない。俺の部隊はもう全滅してるんだ」
「私の部隊だよ」
バトルシェルとは反対方向の暗闇から女性の声が聞こえてきて、3人の視線はそちらに移動した。3対の視線を浴びながら、女性が闇の中から浮かび上がるように現れる。
濃い紺のショートカットの髪に、男物のソフトスーツ。氷のような冷気をまとって登場したその女性の名は、寺西今日子。
「”学園”の同窓会は終わりだ。ミレア、J」
立ち止まって今日子はゆっくりとした口調で言った。
「貴様らには”学園”に戻ってもらうぞ」
「断る、と言ったら………」
氷のような今日子の言葉にミレアは挑戦的な言葉を投げつけた。そんな少女の態度に今日子はにやりと微笑むと、
「ふん、力ずくでも戻ってもらうさ」
不意に今日子の視線がバーガーに向けられた。冷たく鋭い視線で射すくめられて固まってしまった新兵に向かって、今日子は冷たく言い放つ。
「それから、SSF社機甲3部第4課1係、クリフ・バーガー軍曹。社内労働規定違反で特殊任務執行部隊バルキリーが貴様の身柄を拘束する」
「今日子!」
バトルシェルの外部スピーカーからのメイスンの声に今日子は顔を上げた。
「なにか? メイスン少佐」
「バーガー軍曹の身柄拘束の事由を教えて欲しい」
「軍曹が我々の活動を妨げたからだ。社内労働規定は知っているだろう? 少佐」
親友として、防衛大学校の同期としてメイスンは声を掛けたのに、あくまで今日子はメイスンを341中隊隊長として扱っていた。その差に気づいてメイスンは奥歯を噛みしめる。今日子の対応が正しい以上、バーガーが何をしたかわからない以上、メイスンはこれ以上何もできない。
メイスンがあきらめたことを悟って今日子は微笑むと部下に命じた。
「バーガー軍曹を拘束しろ」
「待って!」
悲鳴のようなミレアの言葉にバルキリー隊員達の動きが止まった。一歩前に踏み出てバーガーの前に立つとミレアは叫ぶように言ったのだ。
「あなたが欲しいのは私たちなんでしょ! 素直についていくから、バーガーさんには手を出さないで!!」
「ミレア!」
「ミレア!」
バーガーとJが同時に少女の名を叫んだが、その意味は大きく違っていた。ミレアのそばに駆け寄りJは彼女の襟を締め上げると、
「冗談じゃない! なんでこんな奴のために、俺達が犠牲になる必要があるんだ!?」
「ミレア………」
優しくバーガーはミレアに話しかけていた。
「俺はどうなってもいいんだ。ミレアが”学園”に戻りたくないというんなら、俺はどうなっても………」
「殊勝な心がけだな、軍曹」
ふんっと鼻を鳴らして今日子は言うと、
「だがな、規定違反は社への叛乱だ。私は貴様をこの場で射殺することだってできるんだぞ」
今日子の言葉を聞いた瞬間、ミレアの瞳が驚きと恐怖で見開かれた。
バーガーさんが殺される………
彼女の心の中が激しい感情で満たされる。怒り、悲しみ、恐怖、驚き。心が沸騰したお湯のように沸き立ち、ミレア自身がミレア自身を制御できなくなる。そして、理性が感情に押し流されたとき、ミレアは悲鳴のような叫びを上げていた。
「やめてぇぇ!!」
何かが爆発した。そう感じた次の瞬間には、もうバーガーの体は吹き飛ばされていた。立っていた位置から5、6メートルほど吹き飛ばされて、彼は車のボンネットに体を打ちつけると、そのまま気絶した。
この場で何が起きたのかを正確に把握できたのは、今日子と高橋だけだった。二人は”爆発”した瞬間、人間を超えたスピードでその場を離脱したのだ。それでも、爆発のエネルギーは彼らをとらえ吹き飛ばした。コンクリートの壁にしたたかに体を打ちつける結果になったが、それでも二人は意識を失わない。
最初から最後まで場の変化を見届けることができたのは、メイスン達341中隊の人間だけだった。
「全員、対ショック態勢!!」
メイスンがそう叫んだ瞬間、爆風がバトルシェルを襲った。爆風で倒れないようこらえるバトルシェルの装甲を、車やコンクリートの破片が叩いていく。そして、突然の嵐は始まりと同様に唐突に終わった。
あとに残ったのは、惨状だった。ミレアやバーガー達が居たあたりを中心に爆発が起きたらしく、そこから同心円上に被害は広がっていた。原形をとどめていない車に、四散した死体、ガソリンが漏れているのだろう油の臭いもする。
「いったい、何が起きたんだ………?」
誰に訊いたわけでもないメイスンの質問に答えられる人間はいなかった。
第4章 よにんめの少女
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「ホテルヨーロッパ、地下3階の駐車場において、爆弾テロが発生してからすでに24時間が経過しております。行政府警察から全権を委任されたシノハラ・セキュリティー社特殊任務執行部隊バルキリーが現場検証を開始しており、本格的な捜査が始まっております。
ご覧のとおり、建物が倒壊するという最悪の事態は免れたものの、わずかではありますが建物は傾いており、爆発の規模の大きさを物語っています。現在のところ被害の方は、死者が6名、重軽傷者が数十名、営業停止によるホテルヨーロッパの損害は数十億国際ドルに上るとみられています」
TVのヴォリュームが下げられて、アナウンサーの無機質な声が可聴域を下回る。
エアコンが室内の温度と湿度を快適なラインに保っているにも関わらず、部屋には不快感が溢れていた。窓一つない、コンクリートむき出しの部屋。真ん中に大きめのスチールの机と椅子が向き合って2脚、隅に端末の置かれた小さな机と椅子が1脚。部屋の中にあるのはそれだけだった。
椅子に座って真ん中の机に手をおいている男、隅の机で端末に向かっている男、ドアの脇の壁に背中を預けている男。中にいるのは3人の男達。
「クリフ・バーガー軍曹………」
壁際の男が深い息とともに言葉を吐き出した。濃いグレーのスーツを着て年は30代ぐらい。机に手を置いたままバーガーは顔を上げると、名前を呼んだ男を見た。
「いい加減に喋ったらどうかね?」
「マーチ少尉………でしたっけ?」
低く小さな声でバーガーは確かめるように訊くと、
「私は何も知りません。ミレアがどこに行ったかなんて………」
「しかし、軍曹。この質問には答えられるだろう?」
マーチは無意識のうちに間をおいて、胸ポケットからくしゃくしゃの煙草を取り出すと、質問を宙に投げ出した。
「軍曹とミレアの関係は?」
その質問に答える者は誰もいなかった。質問だけが宙に浮く。たっぷり一分ほど待ってからマーチは煙草に火をつけようとして、
「………少尉、この部屋は禁煙です」
端末の前の部下に言われて、マーチはこの部屋が火気厳禁であることを思い出した。煙草をしまい部下に、
「ありがとう、曹長」
と、礼を言うと、再びバーガーに視線を向ける。さらに30秒ほど待ってから、
「それすらもだんまりかね?」
その言葉にすらバーガーは答えなかった。
ふぅっと息をつきマーチは背中を壁に預けたまま、鋭い視線をバーガーに向けると言った。
「軍曹」
呼びかけられてバーガーは視線を向ける。
「いくら軍曹が黙っていたくても、喋らせる方法はいくらでもあるんだ。自白剤を使ったっていいし、電脳的に軍曹の脳を洗ってもいい。むしろ、私の得意分野はそっちなんだ。だが、そういったことを私はしていない。理由がわかるかね?」
黙ってバーガーは首を横に振った。
「少佐がそういった方法を嫌うんだよ。で、私もその手の方法を極力避けて、こういうアナクロな方法を使ってる。だがな、軍曹………」
ゆっくりとした動作でマーチはバーガーの向かいの椅子に座ると、
「軍曹がそれ以上意地を張り続ければ、私の得意分野に話を持っていくしかない。少佐も許可を出す」
そこでマーチは言葉を切った。バーガーに考える時間を与えるためだ。今までほとんど変化のなかった軍曹の表情がわずかに変化するのを待って、マーチは素早く言葉を切り出した。
「だから、ここで喋ってしまったらどうかな?」
だが、その言葉を聞いた瞬間、再びバーガーの表情は前と同じ不動のものに戻ってしまった。それを見てマーチはふぅっと大きく息を吐き出す。それから、彼は視線を曹長に向けると、
「寺西少佐か高橋中尉を呼んでくれ」
不意にドアが開いてマーチと曹長は同時に視線をそちらに向けた。入ってきたのは、二人。今日子と高橋だった。
「軍曹、まだ話をしてくれないのかね?」
優しい口調で今日子が訊く。だが、バーガーは相変わらず何も喋らなかった。一言も発しない。かたくななバーガーの姿を見てマーチは首を横に振ると、
「ずっとこの調子です、少佐。正直、もうお手上げですよ」
「マーチに弱音を吐かせるとは………サーリットはいい部下を持ったな」
「メイスン少佐を知っているんですか?」
顔をうつむかせたまま視線だけ上げてバーガーが訊いた。机に右手をつき今日子は親友の部下にやわらかな視線を向ける。
「防大で同期だったんだ。もっとも、卒業してからはずっと別々だったがね」
「少佐………」
マーチに呼ばれて今日子は少尉に視線を向けた。
「どうしますか? これ以上は別の手段を講じなければいけないと思いますが………」
「その必要はないな」
その言葉は、マーチにもバーガーにも意外だった。
「少尉、バーガー軍曹を部屋に戻しておけ」
「わかりましたが………なぜですか?」
「理由は後で説明する」
それだけ言うと、今日子は部屋を出ていった。後をついて高橋も出ていく。
オフィスに戻る廊下を歩きながら、高橋は前を歩く今日子に訊いた。
「少佐、どうなさるおつもりですか?」
「バーガー軍曹を”学園”に移送する。同時に、その情報を流せ」
「はい? 試料にするつもりですか?」
今日子の意志を高橋は察することができなかった。早足で歩きながら今日子は冷たい口調で言ったのだ。
「あの男を餌にしてミレアを釣り上げる」
目を開けたとき、ミレアが最初に見たのは薄暗い闇越しに見える天井だった。見たことのない天井だったが、見知らぬ天井には慣れているので驚きはしない。むしろ、彼女が驚きを感じ恐れを感じたのは自分が何も身につけていないことだった。
ベットの上、毛布の下で彼女は裸で横たわっていたのだ。
ミレアは周りを見わたして、ベットのすぐ脇の椅子に自分が着ていた物が置かれていることに気づいた。きちんとたたんでおいてあって、しかも洗濯してある。彼女はゆっくりと服を着ると、自分の物をポケットに詰め始めた。
なくなっているものはない。銃も財布も自分の持っていた物は全てある。ミレアは自分の物が何もなくなっていないことを確認すると、ようやくここがどこなのかを考え始めた。
シノハラ・セキュリティ社の建物ではないことは確かだ。バルキリーに捕まったのならメイスンがそばにいてもおかしくないが、彼女の姿はない。かといって、他の企業でもないようだ。
そのとき、彼女はドアの隙間から明かりと話し声が漏れていることに気づいた。ベットから降りると、ミレアは静かにドアに近づいていく。話し声は女性のものだった。女の声が2種類。他には聞こえない。
少しの間、ミレアは逡巡した。このままドアを開けるべきか、それとも何も気づかないふりをしてベットの上に横たわって動きを見るべきか。だが、受動的なのはミレアの性格に合わなかった。
考えるよりも早く、彼女はドアを開けていた。
ドアの向こうはごく一般的な居間だった。カーペットがひいてあってソファーやTV、各種調度品がおいてある。ダイニングキッチンが見え、ベランダには観葉植物なんかも見える。そして、ソファーに座る二人の女を見つけたとき、ミレアの右手はすでに動いていた。
完全にミレアが有利なはずだった。にもかかわらず、彼女がホルスターの中の銃把を握ったときには、女の一人が銃口をミレアに向けていた。完璧に負けた。このわずか1秒にも満たない戦闘で、ミレアは彼女にはどうあがいてもかなわないことを知ったのだ。
「銃を向けあうのは2回目ね、お嬢さん」
ミレアに銃口を向けている女がそう言って、にこっと微笑んだ。
くせっけのある金髪をショートカットにしている女。ミレアと初めて会ったときはミラーシェードを掛けていたが、今は掛けていない。あのワイアードから始まって廃ビルの裏口で終わった戦いで、彼女が滅法強かったことをミレアは覚えている。
「いつまで懐に手を突っ込んでいるつもりなの? カリンがきれないうちに早く抜いた方がいいわよ」
銃もかまえずに悠長に座ったまま、もう一人の女が楽しそうに言った。紅茶色の髪を背中ぐらいまで伸ばした、まるで少女みたいな女だ。でも、少女ではないことをミレアはもう知っていた。おそらくカリンをサイバースペース上からサポートするのが彼女の役目なのだろう。髪の隙間からジャック=イン端子が見えかくれしている。
「セモリナ………それじゃ、私が馬鹿みたいじゃない」
どこか不服そうにカリンは言いながら、あっさりと銃を下ろした。懐に右手を突っ込みながら不思議そうに自分を見ているミレアを見返すと、
「別にあんたとやりあう気はないわ。楽にして座ったら?」
その言葉にミレアは素直に従った。少しだけ警戒した動きで、ソファーの隅の方にちょこんと座る。
「何か飲む? コーヒー? 紅茶? アルコールもあるけど………」
立ち上がってキッチンに向かいながら優しい口調でセモリナが訊いた。顔だけ動かしてミレアはセモリナの動きを追うと、
「じゃぁ………コーヒー」
「OK」
すぐにセモリナはコーヒーの入ったカップを3つ持って帰ってきた。カップを受け取り一口飲むとミレアは、
「私をホテルヨーロッパから連れ出したのは、あなた達なんですか?」
と、訊いた。
ミレアにはホテルヨーロッパでの爆発以降の記憶がなかった。力を爆発させた後、どうしてこの部屋にいてこの二人と対面することになったのか、彼女には思いあたる記憶がなかった。
「そう。廃ビルの裏で別れた後から、私たちはあなたの行動をずっとモニターしていたの」
カリンがうなずきそう答えた。
「地下3階での爆発の後、バルキリーよりも早くあなたの体を押さえて、私たちの部屋に連れてきたってわけ。傷も治してあげたんだから、感謝しなさいよ」
人差し指でミレアの顔を指さすと、セモリナは微笑みを浮かべて言った。
「どうしてですか? どうして、そんなことを………」
強化ガラスのテーブルの上にカップを置くと、ミレアはさらに訊いた。カリンとセモリナが危険を冒して自分をあの場から連れ出した理由が、彼女には思いつかないのだ。
カリンはカップに口だけつけてテーブルの上に置くと、思い切った調子で答えた。
「あなたが”学園”に関係してるって、自分で言ったからよ。そして、私たちは”学園”に興味がある………」
「興味があるって………」
ミレアの表情が急に硬くなった。
「もしかして、あなた達………カワサキの人間?」
「違う。私たちはどこの企業とも繋がっちゃいない」
きっぱりとカリンは答えた。それから、彼女はミレアの瞳を覗き込むと、
「あなたの言う”学園”って、バルキリーの寺西今日子が作ったモノじゃない?」
「なんで………」
驚いたのは訊いた方ではなく訊かれた方だった。ミレアは中途半端に立ち上がり驚きの表情でカリンとセモリナを見ると、叫ぶように言ったのだ。
「どうして知ってるの!? バルキリーが最高機密にしている”学園”の存在を、どうして………」
「”学園”にいるときこんな噂を聞いたことがなかった?」
不意のセモリの言葉。驚き動揺しているミレアに対して、セモリナとカリンはあくまでも冷静だった。
「”学園”を抜け出すことができた人間がたった二人だけいるって………」
そう言われてミレアは”学園”内で聞いた噂を思い出した。”学園”から脱出しようとする者はいるが、成功させた者はいない。だが、何年か前にたった二人だけ脱出することができた人間がいる。ミレアがJ達と”学園”を脱出しようと考えたのも、そもそもその噂を聞いたからだった。
「まさか………」
驚きの視線がわずかだけ畏敬の念を込めた視線に変わる。
「そうよ」
言って、カリンは微笑んだ。
「私とセモリナが”学園”脱出に成功した最初の人間よ」
「そんな………」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたミレアの心の糸が不意に切れた。今までカリンとセモリナを信用していなかったミレアだったが、二人が”学園”出身であると知った瞬間に信頼が生まれ緊張が崩れたのだ。
同じ苦しみを知っている人間に出会えることができたという喜びと、これで逃げ回ることはもうないという安心感。様々な感情が一気に溢れ出てきて、ミレア自身が自分の心を制御できなくなる。
気がついたときには、ミレアはカリンの体に抱きついて泣いていた。今まで頼れる者がいなかったのに、やっと頼れる人間が現れたという嬉しさ、安堵感。そんな様々な感情がミレアの涙となって、あふれ出る。
「うん………もう安心しなさい。」
泣き続けるミレアを抱きしめて髪を撫でながら、カリンは優しくミレアに声を掛けていた。
「私たちはあなたの味方だから………」
カリンの胸の中で少女はいつまでも泣き続けた。
視界は赤く彩られていた。すべての物が赤の濃淡のみで表現されている。
無針注射器を持った白衣の男が、ゆっくりと顔を覗き込ませる。注射器のガラスがライトの明かりできらめいた瞬間、Lは10メートル向こうのビール瓶に向かって精神を集中させていた。
目の前に現れる物事に秩序と順番性は全くなかった。何の脈絡もなく次から次へと様々な出来事が少女の視界の中でフィードバックしていく。いや、秩序は一つだけあった。すべて”学園”で経験したことだ。
砕けるビール瓶。焼きつくような目の痛み。押さえきれない力の波動。燃える紙。肉の焼ける嫌な匂い。男の怒号。少年の悲鳴。寺西今日子の冷たい微笑み。まとわりつく割れるような頭痛。
不意に意識が現実に戻る強烈な吸引感があって、Lは目を覚ました。それで今までが夢であり、これからが現実であると知る。
照明が落とされた暗い部屋。少女はずっとこの部屋で過ごしていた。一人ではない。3人の仲間達と。だが、途中でJが抜け今、この部屋にいるのは3人だ。
「大丈夫ですか?」
妙に落ちついた声が聞こえてきて、Lは上体を起こした。壁に背中を預けて座っているKが少しだけ心配げな視線でこちらを見ている。
「うなされてましたよ」
「うん………」
寝汗でまとわりつく髪の毛をうっとしそうにかき上げるとLは、
「”学園”の夢を見た」
「夢ですか?………でも、ここも夢とあまりかわりませんよ」
皮肉めいた言葉をKが吐いたとき、部屋のドアが不意に開いた。転がり込むように彼らの仲間であるMが部屋の中に入ってくる。頭を抱えてうめいているMを見てLは立ち上がると、あいたままのドアのそばに立つ男に向かって叫んだ。
「Mに何をしたの!?」
男は薄ら笑いを浮かべながら答えようとはしなかった。カワサキ・セキュリティ社特務7課課長、西崎。西崎のかわりに彼のそばに立つ椎名真奈美が答える。
「簡単な能力評価テストよ。寺西今日子がどれだけの兵を作ることができるのか、知っておきたいじゃない」
「うっ……うぅ………」
頭を抱えてMはうめくだけだった。何をされたかはわからないが、Mの精神に多大な負担を掛けたことだけは確かだ。おそらくMの持っている”力”を、無理矢理引き出そうとしたのだろう。
「これじゃ………何も変わらないじゃない!!」
不意にLが叫び、少女の叫びは4対の視線を一カ所に集めた。
「結局、ここだって”学園”と変わらない! あなたは私たちを自由にしてくれると言ったけど、私たちはなに一つ自由になってないっ!」
「あの時の約束を忘れたのか?」
西崎がゆっくりと口を開いた。重く存在感のある言葉がLの心にのしかかってくる。
「我々は貴様達が寺西の元から逃げてくるときに、きちんとサポートしてやった。その代償として私と約束したはずだぞ。”自分たちの体を調べても良い”と………」
「確かにしたわ! でも、これじゃ何にも変わってない………」
「L………」
変化のない平坦な声で西崎は少女の名前を呼んだ。
「次はお前だ。30分後に始める」
その言葉を聞いた瞬間に、Lはようやく悟ったのだ。
自分たちは”学園”から”学園”に逃げ込んだのだ、と。支配者が変わっただけで、中身は何も変わっていない。他人を頼っていては本当の自由なんて得られるわけがない。自由になりたかったら自分の手で掴むしかないんだ、と………
オフィスのドアが開いて、中山とフォスターは同時にそちらを見やった。入ってきたのが彼らの上官であるメイスンと知って二人は立ち上がろうとしたが、彼女はその動きを右手で押さえる。
普通4名が居るはずの341中隊のオフィスにはしかし、今は3名しか居なかった。クリフ・バーガー軍曹がホテルヨーロッパの地下駐車場でバルキリーに身柄を拘束されてから、3日が経過している。
「ダメだったよ」
椅子に座るなりメイスンはそう部下達に告げた。
「ウェブスター大佐の名前を出して交渉したが無駄だった。きょ………寺西少佐すら引っぱり出せなかった」
「副隊長の………」
名前を言おうとして出てこない中山にフォスターが助け舟を出す。
「高橋中尉」
「そう………その高橋中尉止まりですか? やはり………」
「寺西少佐は良い部下を持っているよ」
感嘆の意を込めてメイスンは言葉を吐き出した。机に置いたままだった冷めたコーヒーを少しだけ飲むと、
「まぁ………これで万策、尽きたな。いくらなんでも、基地指令の名を出すわけにはいくまい」
微笑み混じりのメイスンの言葉だったが、表情とは裏腹にその口調は痛々しいものだった。捕らわれてしまった部下一人も助け出すことができないのかという無力感と、その無力な自分に対する痛烈な怒り。フォスターも中山も似たような経験があるだけに、メイスンの自分自身に対する怒りは身にしみてわかっていた。
不意にドアがノックされて、ほとんど反射的に「どうぞ」とフォスターが声を上げた。ゆっくりとドアが開いて女が一人、顔を覗かせる。オペレーターとしてホテルヨーロッパでの警備に共に参加した黒井美穂伍長であった。
「久しぶりだな、黒井伍長」
メイスンはいつもと変わらない笑みを浮かべると、立ち上がり美穂を見た。
「今日はなにか?」
「いえ………ちょっと、仕事の合間に気になる情報を見つけたので………」
妙に美穂の言い様は歯切れが悪かった。その雰囲気を察して、メイスンは彼女に奥の応接室を勧める。彼女はその勧めに従って、メイスンと共に応接室に入った。
「で、情報というのは?」
美穂の向かいに座ると、メイスンは早速、訊いた。最初は何も言わなかった美穂だったが、言葉にならない言葉を発しているうちに決心がついたのだろう、顔を上げてメイスンを真っ直ぐに見つめると言ったのだ。
「実は、バーガー軍曹がバルキリーの本部から、吉里製薬の研究所に移送されるという情報が………」
「吉里製薬?」
鸚鵡返しにメイスンが訊き返す。吉里製薬というのは聞いたことがない会社だった。一応、シノハラ関係の企業だったらだいたい頭の中にいれているつもりだったが、それでも覚えがない。
鋭い視線を美穂の顔に突き刺すとメイスンは訊いた。
「その吉里製薬って………なに? シノハラ系の企業では聞いたことのない名前だけど………」
「どうもバルキリーの持っているダミー企業らしいんです。で、その移送される研究所で行われていることがいまいちはっきりしないんで、それで……」
瞬間、メイスンの背中に妙な悪寒が走った。理屈では説明できない悪寒だ。嫌な予感がする。バーガーの身に何かがおきようとしているのか?
バルキリーの秘密の研究所。そこに移送されるバーガー。
「わかった」
大きくうなずくと、メイスンはそうはっきりと答えた。彼女の声を聞いて美穂は息をつくと、
「……で、少佐、お願いが………」
「わかっている。”重要機密の漏洩”………社内労働規定違反だぞ、伍長」
厳しい声でメイスンは言ったが、すぐに微笑みを浮かべると、
「ニュースソースは秘密にしておく。黒井伍長、感謝する」
立ち上がりメイスンが頭を下げると、美穂も慌てて立ち上がりなぜか頭を下げた。それから彼女は慌てるようにドアまで行くと、そこでもう一度頭を下げて部屋を出ていく。
美穂の退室を確認してから、メイスンは電話の受話器をあげた。
「どちらへ?」
真剣な口調で中山が訊く。
「本社事業統括部査察部7課だ。そこの課長が私の防大の同期でな」
言いながら、メイスンはダイヤルを押し始めていた。
目の前で神妙な顔つきでコーヒーをすすっているミレアを見て、カリンは思わず微笑んでしまった。とてもじゃないが自分に銃を突きつけていた少女と同一人物とは思えない。カリンの胸の中で泣いたおかげで、心の鎧が脱げて本当の姿が現れたのだろうか。
「大丈夫?」
優しい声でカリンが訊くと、カップを両手で包み込んだままミレアはこくんとうなずいた。カップをテーブルの上に置き真っ直ぐにカリンを見つめると彼女は、
「もう、落ちつきました」
「OK………じゃぁ、話を始めようかしら」
そう言いながらカリンはセモリナの方にチラッと視線を走らせた。
首の後ろのジャック=イン端子から伸びるコードがハードに消えており、座椅子に背を預けている彼女の瞳には何も映っていない。すでに彼女の精神はこの場になく、サイバースペースの彼方に彼女はいるのだ。
「カッティン!」
カリンはセモリナが創り出したサポートAIの名前を呼んだ。すぐに少年のような声が部屋の中に響く。
「ほい! なんやねん?」
「セモリナにすぐにジャック=アウトするよう、伝えて」
「りょぉ〜かい」
間延びした返事を残してカッティンは主人の元に戻っていった。そして、セモリナの瞳に生気が戻り彼女は顔だけカリンの方に向けると、
「なに? カリン」
「話を始めるわよ」
「あぁ………OK。聞いてるわ」
やる気がないような口調で言うと、セモリナはモニターに向かってなにやらキーボードを叩き始めた。ジャック=アウトはしないもののサイバースペース上での作業は続けるつもりなのだろう。ジャック=イン・コードは繋がったままだ。
「ミレア………」
真っ直ぐに少女の瞳を見つめるカリン。
「あなたは”学園”をぶっ潰したいだけだって、そう言っていたわね?」
「うん………」
セモリナの瞳を見返してミレアはうなずくと、
「でも、今は違うの」
「違うって………”学園”を憎くはないの?」
「憎いけど………それよりも、もっと………」
どうにも歯切れの悪いミレアの言葉だったが、カリンは辛抱強く彼女の言葉を聞いていた。薄い水割りで唇を濡らすとカリンは、
「なに? 言ってみて。事によっては私たち、協力してもいいわ」
それでも、ミレアは言わなかった。迷っているのか? 沈黙の時間が流れる。わずかに顔を背けて何かを考えていたミレアだったが、やがて、決心がついたのだろう、はっきりとした声で彼女は言ったのだ。
「バーガーさんを………クリフ・バーガー軍曹をバルキリーから助け出したいんです」
「バーガー軍曹って………?」
問われてミレアはすべてを話した。研究所を脱走してから、ここに至るまでの全て話を。
全てを話し終えると、ミレアは冷めたコーヒーを少しだけ口に含んだ。氷がかなり溶けて水同然になってしまった水割りを見つめながら、カリンが静かな口調で訊く。
「だいたいのところはわかったわ。で、バーガー軍曹を助けたいのはどうして?」
「………え?」
質問者にとってはごく当然の質問だったが、ミレアには完全に不意打ちだった。カップを持ったまま凍りつく少女を見ながら、カリンは言葉を続ける。
「ミレアが今までやってきたとと、バーガー軍曹と知り合った経緯はわかったわ。でも、あなたが彼を助けたい理由はなに?」
「それは………」
ほとんど意味のない言葉を吐き出して、ミレアは沈黙した。彼女自身、問われてみてその理由がわからないのだ。助けたいという衝動にも似た気持ちはあるのだが、どうしてなのかはわからない。なぜ、バーガーを助けたいのか? その答えを一番知っているはずなのに、質問を突きつけられて彼女自身が混乱している。
「それは…寺西がバーガーさんをどうするかわからないから……だから………」
舌をもつれさせながら答えるミレアに、カリンはどこか冷たい声で質問を重ねる。
「バーガー軍曹に危険が迫ってるとして、あなたが助けなくちゃいけない理由はどこにもないわ。違う?」
再びミレアは沈黙してしまったが、今度の沈黙は先程よりも短かった。
「だって、基地が襲撃されたとき、ホテルで私が撃たれそうになったとき、あの人は私を守ってくれたから………だから………」
一所懸命に答えるミレアをあくまでも冷めた感情でカリンは見つめていた。ミレアが心の奥底に抱いている感情を彼女は理解していたが、そのことは口にしなかった。
「OK」
すでにカリンの答えは話を聞く前から決まっていたのだが、それでも彼女はわざと時間をあけてそう答えた。
「カリン!」
先に反応を示したのは、意外にもセモリナだった。彼女はキーボードの上に手を置いたまま振り返ると、噛みつかんばかりの勢いで言ったのだ。
「ちょっと、待って!! まさか、バルキリーに喧嘩を売る気じゃないでしょうね!」
「ミレアと一緒にそのつもりだけど………どうしたの?」
「私は反対よ。バルキリーとやりあう理由はどこにもないわ!」
「”学園”時代の恩を返すってのはダメ?」
どこか甘えた声でカリンが言うと、セモリナは少しだけ考え始めた。なんだか言っているが寺西今日子に仕返しをするのは、セモリナにとっても甘美なる誘いなのだ。ただ、彼女はその考えに素直に賛成できないだけなのである。
「セモリナだってその気の癖に………」
全てを見透かしたような口調でカリンが言うと、ムキになってセモリナが反論する。
「何を証拠にそんなことを!」
「じゃぁ、どうしてバルキリーのデータコロニーを探っているの?」
その瞬間、セモリナの表情が何とも言えないものに変わった。だが、すぐに怒りの表情を見せると彼女はAIの名を叫んだのだ。
「カッティン! カリンに喋ったわね!!」
カッティンは何も答えなかったが、彼女には何も答えないと言うだけで十分だった。カリンがインプラントしてある通信機でカッティンに訊き、彼はそれにほいほいと答えてしまったというわけか。
「で、セモリナ」
カリンの言葉はほとんどいじめでしかなかった。
「どうすんの?」
「わかったわよ………行けばいいんでしょ」
セモリナは降参したような口調で言うと、カリンは満足そうにうなずいた。
「よし。じゃぁ、セモリナ。早速だけど、バーガー軍曹の居場所を探ってみて」
「OK」
サイバースペースの魔女はうなずくとモニターに向き直った。
「これね」
2分ほどが経過して、不意にセモリナが言った。
「今はバルキリーの中。127階………あっ、ちょっと待って!」
セモリナの言葉に軽い緊張が走る。
「3日後に移送の計画がある。移送先は吉里製薬の研究所、って………”学園”じゃ………」
言ったきりセモリナは沈黙した。それはミレアも同様だった。ミレアもその言葉を噛みしめて沈黙してしまう。
バーガーが”学園”に移送される。その意味は誰も理解していないが、重さだけは十分に伝わる言葉だった。
なんか少佐とは正反対の人だな………
葉山香織を見てのフォスターの第一印象はそうであった。栗毛色の髪をポニーテールにした、どう見ても高校生ぐらいにしか見えない女性。だが、見た目が女子高生だとしても葉山香織はある意味バルキリー以上に恐れられている、本社査察部7課の課長なのだ。
メイスンはフォスターと中山をつれて査察部7課を訪れていた。普通ならまず訪れる必要のない査察部7課を訪れたのは、バルキリーに拘束されているバーガーに関してだった。
「久しぶりね、サーリット」
待つこと10分あまり、メイスン達が待つ応接室に入ってきた香織はそう言うと、3人の向かいに座った。白いブラウスにクリーム色のスーツ。高校生みたいな顔と大人な印象を与える服装が妙にミスマッチだ。
「で、用事は何かしら?」
「ホテルヨーロッパでの爆弾テロは知ってるわね? あなたのところには、どれぐらいの情報が入っているの?」
社交辞令を抜きにして、いきなりメイスンは本題に入った。腰まである黒髪と氷のような瞳が、香織とは正反対に冷たい印象を与えている。身にまとっている軍服が妙にメイスンの美しさを引き出していた。
「確かサーリットの部隊、341中隊はあの場に居合わせたんだったわよね?」
「そうよ」
「だったら、私はあなた以上の情報を持っていないわ」
短くはっきりと香織は答えた。
「それは………査察部7課はあの事件に興味を持っていないということかしら?」
探るようなメイスンの質問に対して、香織は微笑みしか返さなかった。
ノックの音がして、香織の秘書が紅茶の入ったカップを持って部屋に入ってきた。4つのカップを各人の前に置くと秘書は静かに退室していく。
「相変わらず、コーヒーはダメなの?」
香り高い紅茶の存在にメイスンは半ばからかうような口調で、香織に訊いた。口元までカップを持っていって香織は動きを止めると、
「コーヒーなんてどこがおいしいの? 紅茶のこの香りがやっぱり最高じゃない」
ゆっくりと香りと味を楽しむかのようにカップをまわしていた香織だったが、やがて、カップを置くと、
「7課が興味を持つような類の事件じゃないわね、ヨーロッパの事件は。でも、情報を集めてはいるわ」
「どうして?」
メイスンの質問には答えず、かわりに香織は、
「で、訊きたいことは何? まさか、そんなことを訊きにわざわざここまで来たわけじゃないんでしょ?」
「うちのバーガー軍曹がバルキリーに身柄を拘束されたのは知っているわね?」
「確か………社内労働規定違反だったっけ? 本社の軍事統括部に上がってきた書類を査察官権限で見るだけ見たけど………」
「できるだけ早く、彼の身柄拘束を解きたいと思って、あなたのところにやってきたんだけど………」
「私に協力しろ………と?」
「そういうことになるわね」
はっきりとメイスンが答えると、香織は何かを考えはじめた。少しの沈黙の後、
「まぁ、できないこともないし、いろいろと方法はあるわ」
「じゃぁ………」
期待の眼差しでメイスンは香織を見たが、彼女はすぐに親友の期待を裏切った。
「確かに、社内労働規定の罰則規範の運用に問題があるとかなんとか言えば、軍曹がよほど重要でもない限り今日子は釈放するでしょうね。でも、査察官である私がそんなことをするわけにはいかないわ」
その言葉でメイスンは自分が何をしているかにやっと気づいた。部下を救いたい一心で今日子は親友にとんでもないことを迫っていたのだ。査察官である香織は社内で起きた犯罪を取り締まる立場にある。そんな香織にメイスンは公私混同を迫り、社内規定の婉曲的運用を迫っていたのだ。
「部下を救いたいというサーリットの気持ちはわかるわ。でも、査察官として私はそんなことをするわけにはいかないの。わかるでしょ?」
「えぇ………ごめんなさい」
素直にメイスンは頭は下げた。同時に心の中に絶望が広がる。どうしたら、バーガーを助けることができるのか? そんな親友の心中を察して香織が言う。
「いっそのこと、今日子に親友のよしみで頼むっていうのは?」
「ダメよ」
せっかく香織が出した案をメイスンは即座に否定した。
「今日子がそんなことを聞いてくれる性格じゃないってのは、わかりきっていることじゃない。それにもし、そんな頼みが通るとしたら、バーガーの身柄拘束なんてしないわ」
「う〜ん」
再び香織は考えはじめた。嫌な沈黙が舞い降りる。行き場のない沈黙。徐々に絶望によって暗くなっていく沈黙を破壊したのは、再び香織だった。
「ねぇ、サーリットは大戦中は確か傭兵だったわよね?」
突然、関係ないことを訊かれて戸惑いつつもメイスンはうなずいた。
「えぇ」
「そちらの二人は?」
いきなり話を振られて戸惑いつつも、フォスターと中山は答えた。
「私も傭兵でした。行ってない戦場はないです」と、フォスター。
「同じく」と、短く中山は答える。
「じゃぁ………使えそうねぇ」
香織は呟くと、
「サーリット、かわいい部下達と一緒に休職届を出してきなさい」
「はい?」
突拍子もないことを言われてメイスンは素っ頓狂な声を上げてしまった。そんな親友を無視して香織は、
「実を言うとね、査察部7課は前からバルキリーに内偵を進めていたの。まぁ、あの手の特務部隊の資金の流れが不透明なのは当たり前だけど………」
「バルキリーの資金の流れが社の利益を犯していると?」
少しだけ声のトーンを落としてメイスンは訊いた。
「その疑いがあるので私たちは内偵を進めていたんだけど………。で、サーリット達にその手伝いをしてもらいたいの」
「え?………だって、私たちは………」
「だから、休職届を出してもらうのよ。それに相手がバルキリーだと荒事になる可能性がある。私のかわいい部下達は荒事になれてなくてね。その手のプロの人間が欲しかったのよ」
「つまり………」
少々あきれた口調で言葉を吐き出しながらメイスンは香織の顔を見ると、
「私たちにあなたの仕事を手伝えっていうの?」
「取引よ、取引。バルキリーを探ることができるし、バーガー軍曹を助けることができるじゃない」
確かに香織の言葉は魅力的だった。香織の指揮下に入れば権限もできるし動きやすくなる。すでに答えは決まっていた。考える必要はなかった。それでもメイスンはたっぷり30秒ほど考えてから、答えを香織に告げたのだ。
「OK。その取引に乗るわ」
テーブルの上に並んでいる丸や四角などが書いてあるカードを手で払いのけると、Lは叫んだ。
「やめて!!」
真っ白な部屋に少女の悲鳴にも似た叫びが響いて、白衣を着た研究員達は一斉に動きを止めた。いくつもの視線を浴びながら、Lはまわりの男達を睨みつけると、
「こんなこと”学園”で飽きるほどやったわ! もうたくさんよ!!」
「そんなことを言われても困る………」
縁無しの眼鏡をかけた神経質そうな男が、少し震えた声で言った。前の被験者だったMが従順だったせいか、Lの反抗的な態度は予想していなかったようである。むしろ、怯えているようにも見える。
「勝手に困ってればいいじゃない!! 私はもう嫌なのよ!!」
「そんな……子どもみたいなことを言われても………」
呟くように言って眼鏡男はそばに立つ同僚の顔を見たが、同僚も対処の方法が思いつかないらしく肩をすくめて見せた。研究室にいる誰もが、突然発生した小さな台風の処置に困り警備員でも呼ぼうかと考えたとき、ドアが開いて真奈美が入ってきた。
「どうしたの?」
真奈美に優しい口調で訊かれて若い研究員は、
「いえ、Lが………」
と、答えると、眼鏡の研究員を睨みつけているLを見やった。
「L!」
と、真奈美は声をかけると少女のほうに近づいていった。Lは顔ごと視線を動かして真奈美を睨みつける。ワインレッドの女物のスーツを着ている真奈美は、その鋭い視線を涼しげに受け流した。
ほとんど反射的に、Lは真奈美に殴りかかっていた。すっと体を沈め素早い動きで真奈美の懐に飛び込むと、鋭い右ストレートを放つ。スピードがあり体重の乗った申し分のないパンチだった。
だが、真奈美はそのストレートを上体をわずかに反らすことで、いとも簡単にかわしてみせたのだ。そのまま彼女は体を捻りLの右手を右脇に挟むように押さえると、同時に足を払う。
瞬間の動きだった。気づいたときには大きな音ともに、Lは真奈美に組み伏せられていた。床にうつ伏せになり、右腕は逆手になってしっかりと固められている。Lは全く動きが取れなかった。
「小娘………」
真奈美の声はぞっとするほど冷たかった。口元に浮かぶ微笑みが、彼女を悪魔的なまでに美しくみせる。真奈美はLの耳元に口を寄せると囁いた。
「このまま切り刻んでやろうか………私に手をあげた罪は大きいわよ」
首を動かしてLは真奈美を睨みつけた。だが、彼女はそんなLの視線に動じることなく微笑みを浮かべている。むしろ、妖艶な真奈美の表情を見てLのほうが背筋にぞっとするモノが感じたぐらいだ。
「お前を作戦に連れていくわ」
不意に囁いた真奈美の言葉をLは初め理解できなかった。不思議そうな表情で自分を見る少女に、真奈美は言葉を続ける。
「バルキリーがある男を”学園”に移送する。それを阻止するのが目的よ」
「その男を………奪うの?」
切れ切れな声でLが訊くと、真奈美の口元がすっと広がった。
「そう………その男はね、ホテルヨーロッパの時にミレアと一緒にいるのが目撃されている。理由がわかったわね?」
ほとんど意地になってLはうなずかなかったが、理由はわかった。真奈美と西崎はその男を餌にしてミレアを釣り上げようという気なのだろう。あくまで、二人が欲しているのはミレアなのだ。
「そ……そんなに………」
うめくようにLが言葉を吐き出すのにあわせて、真奈美ははずしかけていた視線を元に戻した。
「”2次体”が………ミレアが欲しいの?」
「えぇ、欲しいわ」
血を吐くようにLが言ったのに対して、真奈美はあくまで平静だった。
「あなた方”1次体”とは明らかに違う力を持った”2次体”の力、見てみたいわ。ホテルヨーロッパをあそこまで破壊した力を、ね」
その言葉を聞いた瞬間、Lの心の奥底に小さな炎が燃え始めた。そのことに気づいた者は誰もいない。そう、L自身ですらそのことに気づいていなかった。
「本気なのか?」
ウェブスターは机の上に置かれた封筒と机の前に立つ今日子を見比べて、そう訊いた。固い決意を秘めた表情でメイスンはウェブスターの顔を見やると、
「えぇ………本気です」
「少佐達が本社査察部の葉山査察官とコンタクトを取っているとは知っていたが、まさかここまでするとは………正直、予想していなかったよ」
それから、ウェブスターは立ち上がりメイスンと視線の高さを同じにすると言った。
「とりあえず、この休職届は預かっておく」
休職届と書かれた封筒を机の引き出しの中にしまうと、
「一つ訊いてもいいか?」
「なんでしょうか? 大佐?」
「少佐にとってバーガー軍曹はそこまでしなくてはいけない存在なのか? 休職中とはいえ、査察官の指揮下にはいるとはいえ、少佐の社内での地位にプラスになる動きではない。それでも………」
「バーガーは私の部下です」
はっきりとした声でメイスンはウェブスターに告げた。
「彼は私の指揮に従って働いてくれました。今、彼は危険な状態にある。ここで彼を助けることができなければ、私は本当の指揮官とは言えません」
メイスンの口調に迷いはなかった。確かにメイスンが今からやろうとしていることは、彼女の人生においてプラスに働くものではない。むしろ、今の地位を脅かすものだ。それでも彼女はやろうとしていた。
「軍曹の忠誠心に対する見返り………という奴か?」
探るような上官の口調。
「違います」
はっきりと否定すると、メイスンは言葉を続けた。
「バーガーは私を信頼してついてきてくれました。だから、私はその信頼に応えるだけです」
それだけ静かに告げてメイスンは背中を向けた。
「失礼します」
「少佐、これを持っていきたまえ」
ウェブスターの言葉に、メイスンは振り返った。机の上に置かれたのは、バトルシェル倉庫のカードキー。メイスンに背中を向けて窓の外を見ているウェブスターに、彼女は訊かずにはおれなかった。
「これは………」
「10日ほど前に、この第3基地が何者かに襲撃されたのは覚えているな?」
ウェブスターに言われてメイスンはミレアが居なくなった夜のことを思い出した。
「襲撃したのがバルキリーのイリーガルという情報がある。もっとも未確認で噂の域を出ない代物だがね」
「大佐………」
「少佐が勝手に持っていたんだ。私は何も知らない」
背中越しにウェブスターがそう言うのを聞いて、メイスンは素直に机の上のカードを取った。そして、部屋から退出しようとして彼女は一つの質問を投げつけたのだ。
「大佐………ニュースソースは査察部ですか?」
ウェブスターは何も答えなかったが、その沈黙が答えだった。
メイスンは黙って部屋を出ると、341中隊のオフィスで仕度をすませて待っていた中山、フォスターと合流した。そして、荷物を持って玄関口に止めてあるワゴンに乗り込む。
3人が乗り込んでワゴンは滑るように走り出した。
「ちゃんと休職届は出してきたの?」
助手席に乗っている香織が顔だけ後ろに向けて訊いてきた。メイスンはこくりとうなずくと、
「香織ね。ウェブスターに話したのは………」
「なにを?」
すっとぼけて香織が訊き返す。そんな彼女の態度を見てメイスンは微笑むと、
「この基地を襲ったのがバルキリーって話よ。私が動きやすいようにウェブスターに流したんでしょうけど、本当なの? その話」
「本当よ」
すらっと香織が答えたので、中山とフォスターは驚きの声を上げた。だが、メイスンは一人、冷静だ。
「で、査察7課はどこまで情報を掴んだの?」
「どこまでって………明日、強制捜査に入るのは知ってるくせにそういうことを訊くわけ? まぁ、なんとか軍曹の移送の日には間にあったみたいだけど」
「なんとかね」
どこか意味深げにメイスンはうなずくと、制服のポケットから倉庫のカードキーを取り出して香織に見せる。
「341中隊のバトルシェルがしまってある倉庫の鍵よ。ウェブスター大佐が持っていけって、さ」
「それはありがたい心遣いだけど………」
基地の正門が近づいてきて香織は体の姿勢を正した。窓を開けて警備の兵にIDカードを見せる。正門を過ぎて公道に出てから香織は言葉を続けた。
「バトルシェルを使う場面はちょっとなさそうよ。バーガー軍曹の身柄は明日の朝、バルキリー本部の強制捜査のときに一緒に押さえるつもりだし………」
「念のため、私の機体だけ運び出すわ。手配してくれるわね? 香織」
「OK。わかったわ」
理由を訊かずに香織が承諾してくれたことを、メイスンは心の中で感謝していた。なぜなら、彼女自身、バトルシェルを運び出す明確な理由がわからなかったからだ。しいていえば、勘だった。
ゆっくりとメイスンは基地を振り返った。小さくなっていく基地を見つめながら彼女は誰にも聞こえないように、そっと呟いた。
「まさか、今日子と戦うことになるとはね」
隅に便器、その反対側の壁に置かれたパイプベット。
狭く薄暗い部屋の中に置かれているものはそれだけであった。バルキリーのオフィスの中にあるとは思えない部屋だが、わざと汚い部屋に入れることで自供を早めさせようという狙いがあるのだろう。
ベットの上で毛布にくるまっていたバーガーは、人が近づいてくる気配で顔を上げた。足音がだんだん近づいてきて、やがて数人が部屋の前にやって来て立ち止まる。ピッという音がしてドアが開いた。
開いたドアの向こういるのは3人だった。今日子に高橋、それにバーガーを見張っている警備の兵。兵に続いて入ってきた今日子は、毛布にくるまっているバーガーを見下ろすと冷たく告げた。
「出かけるぞ、軍曹」
「………どこへですか? 少佐」
顔を上げた拍子にバーガーの体をくるんでいた毛布が、ばさっと床の上に落ちた。どこか彼の声は生気のないものだった。連日連夜の取り調べがかなりきいているのだろう。
「さる研究所だ。まぁ、どこかは教えられないが、な」
今日子は答えると、高橋に視線を走らせた。すっと高橋は動きだし、バーガーの腕を取る。
「さぁ………立つんだ」
腕を取られてバーガーは立ち上がった。そのまま部屋から連れ出され、外にいた二人の男達と共に廊下を歩いていく。今日子と高橋が前を歩き、二人の男がバーガーの両脇を挟んでいく。
「サーリット……メイスン少佐は、軍曹の直属の上司なのか?」
不意に今日子がそう訊いたのは、下りのエレベーターを待つために立ち止まったときだった。彼女が振り返らずに言ったため最初、バーガーは自分が訊かれているとは思わなかった。妙な沈黙が続いたあとに、バーガーはその質問が自分に向けられたものだとやっと気づく。
「えぇ………はい」
歯切れの悪い肯定の返事をして、バーガーは今日子の背中を見た。
「軍曹がメイスン少佐の下について、どれぐらいになる?」
「まだ1年もたっていません」
「そうか………」
チャイムの音が響いてエレベーターのドアが開いた。途中で合流した二人がまず乗り、ついでバーガーと男が一人、乗る。それから今日子と高橋が乗り、最後の一人が乗る。
「地下2階」
高橋の言葉に従って部下がエレベーターのボタンを押した。完全に密閉されたエレベーターだ。箱が下に降りる嫌な感覚がバーガーの疲れた神経を刺激する。
「メイスン少佐は良い上官だろう」
沈黙を破って今日子がまるで独り言のように言った。独り言のような感じだったので自分に向けられた質問とは思わずバーガーの返答が一瞬、遅れる。
「まぁ………悪い上官ではないです」
「ふっ………」
バーガーの微妙な答えに今日子は微笑みを浮かべると、
「防大のときもそうだった。あいつは私よりも後輩の面倒見が良くて………ほとんどの後輩は私よりもあいつになついていた」
今日子がなぜ、今そんなことを言いだしたのか、理解できるものは誰もいなかった。話しかけられているであろうバーガーもなぜ、今になってそんな話をするのか、よくわからなかった。ただ問われるままに答え、話を聞く。
「あの頃が一番、楽しかったのかもしれない………」
今日子の言葉に悲しみの微粒子が含まれていることにバーガーは気づいた。メイスンと銃火を交えることになることを、予感しているのか? それとも、親友の部下を餌にしてまでもミレアに執着する自分を悲しんでいるのか………
「少佐」
高橋に静かに声をかけられて今日子は話を止めた。チャイムの音が響き地下2階に到着する。ドアが開いて7人は地下駐車場に降りた。
午前7時という時間のせいか車の数も少なく、人の気配もほとんどない。わずかに寒さを感じてバーガーは両手を合わせた。表情を引き締めて今日子は周りを見ると、
「車はどこだ? 高橋」
「あのワゴンです」
20メートルほど向こうにある黒の大きめのワゴンを高橋は指さした。7人はワゴンに向かって歩き出す。歩きながら今日子は高橋や他の部下達にいくつか指示を与え始めていた。そんな彼女の姿をバーガーはぼぉっと見つめる。
「それから、高橋。D2を研究所のほうにまわしておけ。それと………」
今日子がそう言い高橋から別の部下に視線を移したときだった。突然、彼女の目の前を歩いていた男が崩れ倒れた。最初に首がガクンと後ろに折れ、ついで体がゆっくりと仰向けに倒れていく。男の額に穴があいていることにバーガーが気づいたときには、もう他の人間は行動を起こしていた。
アスファルトにたたきつけるような勢いでバーガーの体を引きずり倒すと、高橋は膝をついてあたりをうかがった。すでに右手は銃を握っており鋭い視線で周りを見まわし、彼はバーガーの手を引っ張って近くの車の影に飛び込んだ。
「弾の飛んできた方向がわかるか? 高橋」
そばに来た今日子に問われて高橋は首を横に振った。全く突然のことなので、銃弾の飛んできた方向はわからなかった。銃声も聞こえないし、人の気配もない。突然の襲撃者がどこにいるのかわからない。
いくつか銃声が聞こえてきて、盾にしている車のボンネットの上を銃弾が跳ねていく。向こうはこちらの位置を掴んでいるようだが、今日子達は敵の位置がわからなかった。高橋が反射的に撃ち返したが、位置を掴んでいないためただの牽制に過ぎない。
「少佐! あそこです」
高橋は少しだけ身を乗り出すと、2つ向こうの列に止めてある白いトラックを指さして叫んだ。トラックの影に人影が見える。と、今日子の顔のすぐ脇を銃弾がかすめていった。
「車の影を渡りながらワゴンに逃げ込む!」
影に向かって撃ち込みながら今日子は叫ぶと、身を低くして移動を始めた。同時に彼女はインプラントしてある通信機でワゴンにいる部下を呼ぶと、
「寺西だ。そちらに移動するので援護を頼む。敵は白いトラックの影だ」
通信を切る前に、ワゴンのから濃密な銃撃が白いトラックに注がれはじめた。
今日子達は移動を開始したが、ワゴンまで後5メートルあまりというところで動きを止めざるおえなくなる。再び彼女たちに向かって銃弾が飛んできたのだ。今日子や高橋が反射的に撃ち返すが、どれだけの効果を持っているかははなはだ疑問な銃撃だった。
「くっ………どこの部隊だ?」
舌打ちしながら今日子は銃のマガジンを取り替えると、再び撃ち返した。複数の場所に兵が展開しているのか、単一の兵が移動しているのかはわからないが、ワゴンからの銃撃はあまり効果を発揮していないようだった。
と、不意にバーガーが立ち上がった。
驚き惚けたような顔で立ち上がりどこかを見るバーガーを、「座れ、軍曹!」と今日子が一喝する。だが、彼の耳には何も聞こえていなかった。銃声も今日子の怒声もなにもかも………。
「ミレア………」
赤いスポーツカーのそばに立つ少女を見つめながら、バーガーの口から自然にその少女の名前がこぼれた。その言葉を聞いて今日子も立ち上がると、ミレアの姿を認める。そして、叫ぶ。
「高橋! ミレアだ!! すぐに押さえろ!!」
今日子の言葉を聞いてミレアの姿を認めると、高橋は矢継ぎ早に部下達に指示を出し始めた。一斉に銃撃がミレアの居る方向に注がれて、ミレアの姿がさっと消える。車を乗り越えんばかりにバーガーは身を乗り出すと、叫んだ。
「ミレアっ!!」
「早く押さえろっ!!」
今日子が叫び部下達が動き出す。全員の注意がミレアに向けられる。と、今日子は嫌な感じを覚えた。疑問が心の中に生まれる。このままでいいのか?
この戦いは本当にミレアが一人で仕掛けたものなのか? だとしたら、少し無謀すぎないか? 他の人間が居ると考えたほうが自然だ。でも、ミレアしかいない。他の人間はどこに………ミレアの目的は………っ!!
今日子がその結論に達するのと人の気配を感じたのは、ほぼ同時だった。ほとんど反射的に振り返り引き金を絞る。バーガーからわずか2メートルあまり、黒のベンツの向こうにいる人を認識して撃ったわけではないが、銃弾はカリンの頬をかすめていった。
「寺西今日子………」
3台の車を挟んで久しぶりに再会した女の名前を味わうように、カリンは呟いた。
「カリン、貴様か………」
かつて彼女に最大の屈辱を味あわせてくれた女の名前を呼んで、今日子は微笑んだ。
二人とも銃口をお互いの心臓に向けているにもかかわらず、引き金を絞ることはなかった。妙な緊張が場を支配し、バーガーが二人の顔をせわしく見比べている。
「”学園”に戻る気になったか? カリン」
先に口を開いたのは今日子だった。彼女の言葉を鼻で笑うとカリンは、
「冗談でしょ。あんなところに戻る気なんてないわ」
「しかし、貴様がミレアを支援しているとはな………脱走を手引きしたのも貴様らか………?」
「さぁ………どうでしょう?」
少しおどけた調子でカリンは言うと、楽しそうな笑みを見せた。その笑みにつられてふっと今日子も笑う。
「………ところで、貴様のレズ仲間のセモリナはどうしたんだ?」
その質問をカリンにぶつけた瞬間、今日子はこの場所にセモリナが居ない理由を悟った。彼女をサイバースペースのプロに仕込んだのは今日子だ。きっとサイバースペースからカリン達の動きを支援しているのだろう。ということは………
「カリン!」
今日子はバーガーの腕を掴み名前を叫ぶと同時に、ワゴンに向かって走り出していた。走りながらインプラントしている通信機で高橋に指示を出す。
「高橋、寺西だ! ワゴンに戻れ、この場から離脱する!!」
「寺西!」
カリンは叫ぶと同時にトリガーを絞った。銃弾は今日子の髪の毛を数本、空に舞わせると闇の中に消えていく。今日子が振り返り彼女の銃が火を吹いた。カリンがばっと横に飛んで影に隠れ、さっきまで彼女が居た空間を銃弾が切り裂いていく。そして、カリンは影から今日子に撃ち返そうとしたが、死角になって撃つことができない。
「ミレア!」
バーガーが叫んだ。今日子の手を振りきろうと抵抗するが、彼女は手を離さない。高橋が戻ってきてバーガーを後ろから羽交い締めにする。圧倒的な力で押さえられたが、それでも彼は抵抗をやめなかった。
「ミレア! ミレア!!」
子どものように暴れながらバーガーは少女の名を叫んでいた。ワゴンの扉が開く。銃弾が牽制のためにカリンやミレアが居ると思われる方向に飛んでいく。
「バーガーさん!!」
不意に冷たい駐車場に少女の叫びが響きわたり、全員の視線がそちらに集中した。アスファルトの上に立つ一人の少女。一瞬、ミレアの視線とバーガーの視線が絡みあい二人は同時に叫んだ。
「ミレア!!」
「バーガーさん!!」
それに重なるように銃声がいくつも轟き銃弾がミレアに殺到する。だが、銃弾が少女の体に喰い込むと思った刹那、キィンッ!!という甲高い金属音と共に銃弾は全て弾かれたのだ。信じられない光景を見て戦慄し恐怖する部下達に、今日子の指示が飛ぶ。
「早く車を出せ!!」
その言葉に弾かれたように高橋はバーガーをワゴンに乗せると、部下達と一緒に自分も乗りこんだ。それから、なおミレアを睨みつけている上官に向かって叫ぶ
「少佐も早く!!」
その言葉を聞いてようやく今日子は後ろに下がると、高橋の手を取った。アスファルトの上に立ちつくすミレアを睨みつけたまま、彼女は走り始めるワゴンに乗る。手早く扉が閉められてワゴンはやや乱暴な運転で駐車場を出ていった。
「………ミレア!」
車の影から出てきてカリンは少女の名前を呼んだ。だが、ミレアは惚けたように反応を示さない。突っ立ったまま駐車場の出口を見つめるだけだ。カリンはそんなミレアに近づくと、彼女の頬を思いっきりひっぱたいた。
パンッ!という小気味の良い音が、沈黙と硝煙の匂いが支配する駐車場に響く。我に返って自分を睨みつけるミレアにカリンは冷たい口調で告げた。
「いくよ、第2ラウンドだ」
そして、彼女は歩き始めた。だが、それでも少女は立ちつくしたままだった。
午前7時30分きっかりに突然、バルキリーのオフィスに乱入してきた集団を見て留守役であるコステア中尉は慌てて立ち上がった。何らかの意志を持ってオフィス内に展開していくスーツ姿の男女に、彼は大声で問う。
「責任者はだれだ!?」
「私です、中尉」
目の前に現れた女性を見てコステアは息を呑んだ。童顔と薄いグリーンの女物のスーツが、アンバランスな印象を与える女性。コステアは咳払いをすると低い声で訊いた。
「なんなのですか? これは………」
「本社事業統括部査察7課です」
香織はバックの中から役員会の発行した命令書を見せると、
「予算規定違反の疑いで強制捜査します」
「強制捜査って………」
なお何か言いたげなコステアを無視して、香織は彼の横を通り過ぎると部下達に指示を与え始めた。メイスン達はそんな香織の後ろをついていく。
「課長! 寺西少佐が居ません!!」
部下の声を聞いて香織はコステアのほうに向き直ると、
「中尉。寺西少佐はどこですか?」
「少佐は作戦執行中です。どこにいるかは機密漏洩になるので申し上げられません」
「作戦執行中って………」
訊いたのは香織ではなくメイスンだった。コステアの襟を締め上げるとメイスンは凄い勢いで訊いたのだ。
「クリフ・バーガー軍曹の移送作戦か? 答えろ!!」
メイスンのが鬼気迫る調子に瞬時に敗北して、コステアは機密漏洩ということも忘れてかくかくとうなずいた。メイスンは締め上げていた襟を離す。
かわって、香織が冷徹な仮面を被って、
「我々は事情聴取のためにバルキリー代表者である寺西今日子少佐の身柄を拘束する必要があります。そのために、少佐の居場所を明らかにするよう査察官権限でコステア中尉に要求します」
「少佐に事情を説明する。ここで待っていてくれ………」
弱々しくコステアはうなずき言うと、彼は香織に背中を向けた。インプラントしている通信機で連絡を取っているのだろう。数分が経過して彼は振り返った。狼狽しきった表情で香織を見て震えた声で言う。
「少佐と連絡が取れない………」
「連絡が取れないって………いったい、どういうことなんですか?」
「わからない。ノイズだらけで連絡が取れないんだ」
香織にはバルキリーの通信を封鎖した覚えはなかった。バルキリーのデータコロニーをハッキングしていた人間も全員、引き上げさせているから、それが影響を与えている可能性はない。
だとすれば、どこかの部隊が今回の件に介入しているのか………?
その可能性にいきつき、自分たちが全く状況を把握していないことに気づいて香織は戦慄した。なにがどうなっているのか、自分たちは何も把握していないのだ。
何一つわかっていない。何が起こるかわからない、どうなるかわからない。
得体の知れない闇が横たわっている………
-
各々の行為が互いに影響を与え始めたこの時点においても、全体の状況を把握している人間は誰一人としていなかった。それぞれがそれぞれの知りうる限られた情報の中で、最善の努力をしようとしている。
蜘蛛の巣のように絡みあった一日は、まだ、始まったばかりだった………。
第5章 そして、ごにんめは
………数年前、シノハラ・サイバネッティクス社 275階 第一大会議室
メガ=シティ東京の経済、政治に大きな力を持つシノハラ財閥。その頂点に立つのがシノハラ・サイバネティックス社である。
シノハラ・サイバネティックス社はシノハラ本社と呼ばれることが多く、そのことからもわかるように、その業務はシノハラ財閥数千社の業務統括、子会社間の紛争解決等である。企業の本分である経済活動はおこなっていない。
275階にある第1会議室は、シノハラ本社の役員会にしか用いられない特別な会議室だ。275階1フロアが第1会議室のために存在しており、警備担当もビル全体の警備担当であるシノハラ・セキュリティ社ではなく、役員の警備を専門としたSPS社が担当している。
寺西今日子大尉が第1会議室の控え室に入ってから、すでに30分が経過していた。調度品だけは豪華なこの小部屋のソファーに座ってから30分間、今日子がやったことといえばさめたコーヒーを少しずつ飲むことだけだった。
このときの今日子は、特殊任務執行部隊バルキリー副隊長である。隊長は北原という男であり、このときバルキリー自体は専務ではなく特殊部隊を統括している常務の指揮下にあった。
部屋には、今日子のほかにSPSの男が2人、仏頂面で立っていた。一人は会議室へのドアの横、もう一人は廊下へのドアの横。ドアの向こうで行われている役員会の警備というよりは、今日子の監視といった意味のほうが強そうだ。
女だてらでバルキリー副隊長という今日子への風あたりは強い。しかも、その人事が常務と敵対している専務のプッシュの結果であるとすればなおさらだ。
「寺西大尉」
会議室のドアが開き、スーツ姿の若い男が今日子の名を呼んだ。
「会議室の方へどうぞ。専務がお呼びです」
「わかった」
うなずき今日子が立ち上がると、警備の男が一人すっと寄ってきた。今日子の進路をふさぐように立つと、
「ボディチェックをさせていただきます」
「ここに入るときに一回やっただろ?」
「大尉、規則ですのでご協力ください」
沈黙を肯定と受け取って男は今日子のボディチェックを始めた。ここに入るときにボディチェックを受けて所持している武器はすべて提出しているのだが、ここでもう一度、チェックするというのは気が利いている。
「失礼しました、どうぞ」
今日子が武器を持ってないことを再度、確認して、男はきっかり3歩、後ろに下がった。もう一人の男が開けているドアを通って今日子は第1会議室へと入る。
ほぼ正方形の部屋に、真円形のテーブル。テーブルには43名が座っており、窓やドアといった要所に男が何人か立っている。常務の後ろには今日子の上司であるバルキリー隊長、北原が座っていた。
北原が驚きの表情で今日子を見ている。彼は今日、今日子がここに来ることを知らないのだ。今日子このタイミングで会議室に現れるのを知っていたのは、専務とSPSの警備担当、それに会長だけだった。
「紹介しましょう!」
専務の声はやや芝居ががっていてそれが今日子にはおかしかったが、顔に出して笑うことはしなかった。
「SS、バルキリー副隊長、寺西今日子大尉です。彼女が”新兵士計画”の立案者であると同時に今後の運営を担当します」
「待ってくださいっ!」
役員全員が専務の言葉を受け入れたが、それを受け入れることができない男が一人だけいた。北原はいきなり立ち上がると、声を荒げて言ったのだ。
「”新兵士計画”の実務的な部分は彼女が担当しましたが、あくまでも私が立案したものです。運用もバルキリーの最高機密ということで、私が自ら……」
そこまで言って、北原は言葉を切った。すでに初めから誰も彼の言葉を聞いてはいないのだが、そのことに彼は気づいていない。北原は専務のそばに立っている今日子に視線を向けると、
「だいたいにして、寺西大尉っ! なぜ、そこにいるっ! 常務のそばに来るのが礼儀というものだろう」
「北原中佐」
専務の声は先ほどの芝居ががったものに反して、どこまでも冷たかった。
「君はすでにバルキリーの隊長ではないのだよ。バルキリー自体も、笹川常務から私のところへ管理が移っている」
「どういうことですかっ!」
激しい北原の声。
「説明してやれ、大尉」
専務に促されて今日子は携えてきた書類をテーブルの上に置いた。芝居がかった動作。
「バルキリーの秘密口座と中佐の個人口座の金の流れです。過剰な資金の流用をどのように説明しますか?」
その書類に書かれているのは、今日子が腹心の部下数名とともに半年間かけて調査した結果だった。詳細な北原の横領の証拠。数年にわたって彼がバルキリーの秘密口座から金を抜き取っていたことは、これを見れば一目瞭然だった。
43名の役員たちに報告書類のコピーが配られ、北原も目を通した。そして、何も言えなくなる。北原が何を言ってもその書類には勝てないことが明白だった。今日子がこの部屋に登場する前から彼は負けていたのだ。
「常務っ!」
最後の救いを求めて北原は常務の顔を見たが、常務は首を横に振るだけだった。
「あきらめろ。勝ち目はない」
諭すような常務の言葉を聞かずに、北原はちょうど向かいに立つ今日子を見やった。涼しげな表情で北原の視線を受け止め、薄い微笑みすらも浮かべている。そんな彼女を見た瞬間、北原は心の衝動を止められなくなっていた。
「寺西っ! 貴様っ!」
右腕をまっすぐに差しだし、今日子に向ける。袖の内側から小さな22口径の銃が飛び出してきて、北原の右手の中に収まった。その一連の動きは十分に速く、称賛に値すべきものだった。彼には何の落ち度もない。ただ、今日子の反応速度が速すぎたのだ。
スーツの裾を跳ね上げ、背中のホルスターから銃を抜き、構えるよりも早く2連射。9ミリの弾丸は正確に北原の額と心臓を撃ち抜いていた。どっと音を立てて北原の体は仰向けに倒れ、倒れた拍子に収縮した指がトリガーを引いて悲しい銃声が轟く。
動けたのは、今日子だけであった。警備の男たちも北原が動き始めたのを察知はしていたのだが、とても今日子のスピードにはかなわなかった。
今日子はゆっくりとした動きで銃を背中のホルスターに納めると、屈辱と驚きの入り交じった表情の警備隊長に言った。
「原口中尉、ボディチェックが甘かったようだな。それと反応が甘すぎる。うちで訓練しなおすか?」
薄く微笑みを浮かべて言う今日子に原口は返す言葉がなかった。彼は黙って頭を下げると、
「申し訳ありません」
「寺西大尉、いじめるのはそこまでにしたまえ」
柔和だが威厳のある声で、部屋の空気は一気に締めつけられた。会長だった。シノハラ財閥のトップに立つ男の声だ。今日子が自分の方に向き直るのを待ってから、会長はさらに言葉を続けた。
「この場への武器の持ち込みは、社に対する重大な反逆行為だぞ」
言葉は重々しかったが、言っている会長の口調と表情は笑っていた。今日子は素直に頭を下げると、
「申し訳ありません」
「まぁ、いい」
会長はちらっと専務を見やると、様々な運命を決定づけた言葉を吐き出したのだ。
「初めは12億国際ドルだ、寺西大尉」
………”学園”を決定づけた、それが言葉だった。
そのワゴンの後部座席は運転席と隔離されており、窓にもシールが貼られていた。外から中の様子がうかがうことのできない車内の明かりは、モニターの明かりのみ。モニターをじっと見つめている男の肩越しに、椎名真奈美の姿があった。
真奈美は、薄いグレーの都市迷彩服を着てこのワゴンに乗り込んでいた。ワゴンは今日子のセーフハウスがあるマンションの近くに駐車してあり、モニターを通して外回りだけだがマンションの様子が手に取るようにわかる。
「中の様子までは無理だったか……」
真奈美の言葉に男は当然のように首を縦に振ると、
「マンション自体はバルキリーとは何の関係もない業者のものなんですけど、寺西が勝手にセキュリティを強化したみたいで……」
「せめて、音は?」
「ここにいるだけでも冷や汗もんだっていうのは、椎名さんだってわかってるんでしょ?」
そう言い返されては、真奈美も何も言えなくなってしまう。バルキリー本部の支援を欠いているとはいえ相手はあの寺西今日子である、いつこちらの尾行に気づくかわからない。だいたいにして、今日子を見つけたこと自体、ほとんど偶然みたいなものだった。
「問題はどこで仕掛けるかだ。だけど……」
真奈美がそう一人、呟いたときだった。モニターに変化が現れた。マンションの地下駐車場から2台の車が出てきたのだ。先頭が普通の乗用車で、2台目がワゴン車。
「椎名さん……」
駐車場の出入り口に仕掛けた重量センサーの値を見て、男が意識せずに声を低める。
「最初の乗用車、防弾処理車です。見てくださいこの重さ、おそらくサイボーグも乗ってますよ」
さらに、少し離れたところに置いたセンサーが、任務を果たして数枚の画像データを送ってきた。乗用車とワゴンの運転手の写真だ。二つの車両とも外部から車内の内容がうかがえないよう光学的にも電子的にも処理が施してあるが、カメラはその二つを乗り越えて写真を撮っていた。
「本部」
体内にインプラントしている通信機で真奈美は、本部を呼び出す。
「寺西が再び動き出した。尾行を開始する」
同時に、ワゴンも動き出していた。
夜になって、バルキリー本部はようやく静けさを取り戻しつつあった。査察7課の捜査は終了し、捜査員は大量の書類や証拠物件を押収して姿を消していた。部隊としての最低限の機能以外は停止しており、捜査員が居なくなった今、オフィスは閑散としていた。
「どうやっても……」
メイスンや葉山香織はバルキリーのオフィスの一角にあるオペレーションルームに、籠もっていた。朝から半日かけて今日子の居場所を突き止めようとしているのだが、どうにも突き止めることができないのだ。様々な手で居場所をつかもうとするが、バルキリー自体が情報的に孤立しているのか、今日子達が孤立しているのか、居場所はつかめていない。
「状況を整理しましょう」
周囲の人間にというよりも、自分自身に向かって言うようにメイスンは言った。バルキリーの人間がいれてくれたコーヒーを一口、飲むと、
「秘匿回線まで使えないというのは、おかしいわ。どこかの組織がバルキリー本部と今日子を隔離しているとかしか思えない」
「賛成」
軽く右手を挙げて香織はその意見に同意する。
「バルキリーのセーフハウスを使わず自前のセーフハウスを使っているところを見ると、今日子達もこの状態に気づいているんでしょうね」
「あの女のことよ。気づいて当たり前だわ。しかし……」
感心した口調でメイスンは言葉を吐き出すと、隅の方で小さくなっているコステア中尉を見やった。
「部下に自前のセーフハウスを教えていないというのは、さすが、というか、当たり前というか……」
留守役を任されていたコステアであったが、ぎりぎりのところでは信用されていなかったらしい。今日子ぐらいの人間になれば組織が用意する他にも、自前でセーフハウスを用意するのが当たり前だが、コステアはその存在すら知らなかった。
天井の中央でゆっくりと回るシーリングファンを見つめながら、メイスンは探るような口調で言う。
「今日子が自前のセーフハウスを使っているとして、秘匿回線の呼び出しにも応じない理由は、なに?」
「寺西少佐自体がバルキリーを裏切ったということは?」
中山の疑問をフォスターがすぐに否定する。
「動機がないし、本社の方針内という条件付きながらではあるがバルキリーは事実上、寺西少佐の私兵部隊だ。なにかするとしたら、バルキリーごとだろう」
「今日子がバルキリーを裏切った線はないわ」
メイスンは断言し、コーヒーを一口飲んでから、
「となると、第3者が通信を妨害しているのか……」
「メイスン少佐っ!」
コステアの声は興奮のせいなのか、少しだけうわずっていた。
「バルキリーの秘匿回線の信頼性は高く、通信妨害される可能性は……」
「我々はバルキリーの電脳システムを全てハッキングしたわ。この世界に絶対はないのよ、中尉」
冷然たる事実を香織に突きつけられて、コステアは黙るしかなかった。そのまま香織はメイスンに向き直ると、
「第3者として、どこになるかしら?」
「バルキリーの秘匿回線を妨害できるほどの技術力を持つとなると……」
メイスンが言いながら、頭の中の資料をひっくり返しはじめたときだった。
「中尉っ!」
オペレーションルームの戸口に立って、若い少尉がコステアを呼んだ。コステアがわずかに不機嫌な声で問いかける。
「どうした?」
報告を躊躇している少尉にコステアはさらに声をかけた。
「かまわん。報告しろ」
「はっ。KS特務7課の動向がおかしいです。このデータを……」
少尉はコステアにデータを渡そうとしたのだが、それを奪ったのはメイスンだった。データを一通り読み、香織に渡してからメイスンはため息とともに呟いたのだ。
「特務7課か……」
夜の湾岸高速を走るワゴンと乗用車。平日の夜ということもあって、都心から離れるに比例して高速の交通量は減っていった。併走している車もなく、対向車もたまに見かける程度で高速は静かなものだ。
その2台からきっかり3キロの距離をあけて、海の上を飛ぶヘリがあった。兵員輸送用ヘリを大幅改造して大量の電子機器を乗せた、中隊規模の司令機能を持つヘリ。レーダーで2台の車を追尾している。
「この写真は本当に大丈夫なんだろうな?」
椎名真奈美の声。彼女は特務7課のセーフハウスの一つで、ワゴンからこのヘリに司令機能を移していた。さらに、服装もグレーの都市迷彩服からつや消し黒の超薄型プロテクトスーツに着替えている。耐ガス性能も持つ厚手のレオタードの上に同色の防弾チョッキ。肌の線が露わで独身者には目の毒だ。
「コンタックスの特殊カメラです。大丈夫ですよ、椎名さん」
真奈美の手の中にあったのは、ちょうど10分前に部下が写した写真だった。今日子のワゴンと乗用車を後ろから追い越して、追い抜きざまに撮った写真だ。2台とも外から中が見えない特殊ガラスを全面に張っていたが、カメラはその特殊ガラスの内側を写している。
、ワゴンの写真には今日子とバーガー、高橋と部下3名。乗用車の写真には部下2名が写っている。
「ダミーを尾行している可能性は?」
「連中、よほど貧乏なのか一回も車を変えてませんよ」
真奈美の隣でレーダーをいじりながら、部下が答える。その言葉で決心したのだろう。真奈美は写真を小さなテーブルの上に置くと、口元のマイクをつかみ言った。
「予定通り、第4門脇トンネル出口1キロ地点で攻撃を仕掛ける。回線オープン、以後、暗号変換ベートーベン8番で行え。位置確認シグナル、16」
その言葉で一気にヘリの中の空気が緊張した。今まで閉じられていた回線が開かれて、矢継ぎ早に指示が飛び交うようになる。
「目標から後続車までの距離は?」
真奈美の質問に少し離れたところにいる部下が答える。
「4キロです。夜なんで高速はガラガラですよ」
「目標が門脇東出口から1キロ過ぎたら、カットしろ」
「了解」
今日子達に攻撃が気づかれないよう、また、戦闘現場に一般車が入ってこないようにする処置だった。
部隊配置を示すモニターから目を離して、真奈美は外を見やった。真っ黒な夜の海に白い波頭がところどころ見える。
「目標が門脇東出口を通過しました。高速をカットします」
ヘリからの命令を受けて、特務7課の人間が高速道路を柵で閉じて通行止めの看板を持つ。次の出入り口である門脇西はすでに閉鎖されているので、これで今日子達の車以外、高速道路上の一般車両は皆無となった。
「部隊配置、完了しましたっ!」
空に雲が多いことが、真奈美には妙に気がかりだった。雨が降るな、そんなことを考えながら、真奈美はマイクを取った。
「総員、相手はあの寺西今日子だ。高度な抵抗も予想される。気をつけろ!」
マイクに手を被せ、彼女は機内を振り返る。
「雨が降る。狭域ジャマーをパターン17、広域ジャマーをパターン21に変更しろ。スナイパー全員に雨が降ったら不可視迷彩の使用をやめるよう伝達」
「ハッ!」
「椎名さん! 目標、ポイントまで5キロです」
「ヘリを目標に寄せろ。作戦をはじめる」
瞳を細くして言った彼女の言葉に、重なるような部下の叫びにも似た声。
「一般車両が一台、門脇東出口の検問を突破しましたっ!!」
着慣れない都市迷彩服の前合わせを何度、直しただろうか。サイズが1サイズ大きいらしく、着ているというよりもLはぶかぶかの服に着られているという感じだった。Kawasaki Securityと書かれた白い装甲車。その装甲車の窓から、雨が降り出しそうな夜の空を見上げる。
ポータブルロードブロックや、感圧式の対軽車両地雷などを使って兵士達があわただしく検問の準備をするのをLはただ黙って見つめているだけだった。第4門脇トンネル出口付近に設置されているポイント。特殊な力は持っているものの、戦うことに関しては素人であるLはここでは完全にお客さんだった。
「……高速をカットします」
「432より、本部。ライン3、作業完了しました」
手元に置いてある無線機から垂れ流されているのは、部隊内の通信。それを聞くともなしに、Lは聞いていた。
真奈美はヘリに乗って上空から指揮をしている。
どうして、いつ逃げ出すかわからない自分を手元に置いておかないのか、それがLには不思議だった。逃げようと思えば逃げることができるはずなのに逃げようとも思わない、そんな自分も不思議だった。
「S1、配置完了」
「S4、地形が変わっているためセットできません。指示を」
「本部。S4、ちょっと待て」
不意に彼の存在を感じて、Lは装甲車を飛び出した。近くにいた兵士が何か叫んだが、彼女は気にしないで道路脇の茂みの前に立つ。
「J?」
静かな声でLはそう呼びかけた。
5人……ミレア、L、J、K、Mはお互いの存在を感じ取ることができた。視認できなくても、何となく居る方向がわかるというレベルだ。Lは確かにJの存在を感じ取ったような気がした。外に飛び出してみたものの、見えるところに彼はいない。
「J!」
大きな声を出してから、Lはそのことの愚かさに気づいた。大声では周りの人間に気づかれてしまう。
「……そこにいるんでしょ?」
問いかけてから、Lは感じられたJの存在が消えていることに気づいた。もともと確証があって外に出たわけではない。自分の感覚を疑いながら、彼女は装甲車に戻ろうときびすを返した。そして、不意に夜の寒さを感じて、体が一震えしたときだった。
「!」
強烈な存在を感じて、Lは思わず振り返った。高速道路、トンネルの向こうにあいつが居る。心に叩きつけてくるようなこの存在は、あいつ以外の何者でもなかった。
「どうして、ミレアが……」
この時点で、真奈美も今日子もミレアの存在を知らない。Lの呟きだけが、ただ風に乗って静かに消えていっただけだった。
湾岸から山間部に入る、トンネルの連続した道。第4門脇トンネルに入ってすぐに飛び込んできた乗用車からの通信は、ワゴンの車内を緊張させるに十分だった。
「後ろから一台、猛スピードで追ってくる車があります」
「少佐っ!」
高橋の声に今日子は視線をチラッと動かしただけで、言葉は発しなかった。
「ただの暴走族でしょうか……だったら、いいんですけど」
だが、今日子は何も言わずワゴンと同じスピードで近づいてくるトンネルの出口を、ただ見つめているだけだ。そんな彼女の様子を不可解に思ったのか、訝しげな表情で高橋が今日子の顔をのぞき込んだ時、
「高橋……」
静かな口調で今日子は口を開いた。足下に置いてあったサブマシンガンを拾い上げ、右手に持ってセーフティーをはずす。
「トンネル出口で仕掛けてくるぞ」
当然、この時点で今日子は真奈美が待ち伏せしていることを知らなかったし、また、その兆候を何一つつかんでいなかった。真奈美の徹底した奇襲スタイルはこの瞬間まで有効に働いていた。
それでも、今日子がここでトンネル出口の奇襲を読んだのは、それは読みというものではなく勘だった。もちろん、地形的にそこが奇襲をかけるベストポイントであること、夜の高速とはいえ対向車、併走車が皆無というのは不自然すぎること、などの点はある。だが、どれも決定的とするには弱すぎ、それらを補強し今日子が結論に達した最後の架け橋が自分の勘だった。
「しかし……」
だが、彼女の表情から決断の重さを知ったのだろう。高橋はうなずくと自らもサブマシンガンを取り上げながら、通信機をとった。
「2号車、戦闘準備だ。トンネル出口に警戒せよ」
「高橋。バーガー軍曹の手錠をはずしてやれ」
「いいんですか? 少佐」
高橋が聞き返したのは、今日子の言葉の意図を感じることができなかったからだった。
「手錠をかけていれば、戦闘中に命を失うこともあるだろう」
「しかし、軍曹は……」
「サーリットの部下だ。死なすわけにはいかん」
瞬間、今日子の思いを知った高橋は素直にうなずいた。スーツのポケットから鍵を取り出して、バーガーの手錠をはずしにかかる。はずしながら、彼は言う。
「軍曹。戦闘が始まったら、自分の命だけを考えろ。我々にはかまうな」
「はっ……」
それだけしか答えることができないバーガー。トンネルの出口が近づくにつれ増していく車内の緊張感に押されたのもあったが、それ以上になぜ、高橋と今日子がまるで死を覚悟しているかのような行動をするのか、それが理解できなかった。
トンネルの出口が近づいてくる。夜のためトンネル内と外の光の差によって目がくらむことはないが、それでもトンネル出口では視界が狭くなる。十分に気をつけなくてはならない。
「高橋……」
何度めかの今日子の呼びかけに、高橋は答えようとして言葉が詰まった。10年近く高橋は今日子について戦場を渡り歩いてきたが、こんな彼女の声を聞くのは初めてだった。数秒遅れて、高橋はようやく答えることができた。
「……少佐」
「ここまでついてきてくれて……ありがとう」
初めて聞く今日子のその言葉に誘われたように、高橋も封じ込めていた言葉を、
「少佐……自分は……」
そして、トンネルから飛び出した瞬間のヘリのローター音で、車内の緊張は一気に弾けた。
5メートルと離れていない距離を、併走するようにヘリが飛んでいるのだ。ヘリの基底部に取り付けられているバルカン砲がゆっくりと動いて、銃口がワゴン車に向けられる。その銃口に視線が吸い込まれたバーガーは死を覚悟したが、銃口は滑るようにスライドしてさらに後ろに向けられた。
「少佐!」
運転手の叫びで今日子と高橋の視線は前に向けられたが、バルカン砲の銃声でバーガーの視線は後ろに向けられた。小気味よい連続した銃声とともに撃ち出された30ミリ弾が、後続のベンツを一瞬でくず鉄にしていくのを彼は見た。
エンジンが撃ち抜かれてガソリンに火がついたのだろう。最後の雄叫びのように黒のベンツは爆発し、炎の赤がバーガーの顔を照らしだした。
「全員……!」
今日子が叫ぶが、バーガーの意識は彼女に集中されなかった。燃え上がるベンツをかわして、猛スピードで近づいてくる赤い車。その助手席にミレアが乗っていることを、バーガーははっきりと見て取ることができた。
「ミレア!」
「対ショック体勢っ!」
耳元で聞こえる今日子の言葉に、バーガーは振り返って前を見て事態を悟った。検問だ。数台の装甲車とロードブロックなどで形成され行く手を塞ぐ検問が、自分たちを待っていたのだ。
ヘリのローター音は、もう小さくなっていた。
「停車と同時に…ぐわっ!!」
不意に車が右前に傾いた。スナイパーが撃った弾が、正確にワゴンの右前輪を撃ち抜いたのだ。運転手が激しくハンドルを操作しアクセルとブレーキを巧みに使いわけるが、流れはじめた車を止めることはできない。
遠心力が体を揺さぶり、タイヤの焼ける音が鼻を刺激し、激しいブレーキ音が聴覚を支配する。すでにバーガーは現状を把握できなくなりつつあったが、今日子が何か指示を与えているのだけは視界の片隅でわかる。
さらにブレーキ音が高まって、ワゴン車が止まった。動から静への変化は、本当に突然だった。一瞬で車内は静かになり嵐のような時が嘘のようになる。
車が止まってバーガーはようやく自分の意識を取り戻せつつあった。今日子や高橋は車内に突入して来るであろう兵士の迎撃準備を始めていたが、バーガーにはそんなことできる余裕はない。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。ワゴンが少し揺れた気がした。
門脇東出口の検問を突破した一般車両というのは、もちろんカリンとミレアの車だった。シノハラ・セキュリティ社ビルの地下駐車場での戦闘の後、二人は今日子達を尾行していたのだが途中でまかれてしまっていた。
バーガーを助けることはできないかとあきらめかけていた二人だったが、セモリナがKS特務7課の不審な動きをキャッチ、そこから真奈美の作戦を突き止めたのだ。
「ミレア……」
門脇第4トンネルにはいると同時に、ハンドルを握るカリンがつぶやくように呼びかけた。
「出口1キロ地点に特務7課が検問を用意している。連中の交戦の隙を狙うわよ」
なにも答えずにミレアはカリンの表情を見やった。瞳を覆う無機質なミラーシェードがトンネルのオレンジの光を反射している。とてもじゃないが、彼女の表情をうかがうことなんてできやしない。
自分はガチガチに緊張しているというのに、この人はなにも緊張しないというのだろうか? 左耳に入れたイヤホンからセモリナとカリンの密度を増した交信が聞こえてくるが、その口調は夕飯のおかずを相談しているときのような気楽さにあふれていた。
手のひらに置かれた銃が今は妙に冷たい。ずっと握ってきて一回も冷たさを感じたことなんてなかったのに、今は妙に銃が冷たい。
「ミレアっ! 返事はっ!!」
カリンの大きな声に、ミレアは反射的に「はっ、はい!」と負けじと大きな声で答えていた。ミレアのマイクを通してセモリナにも聞こえたのだろう、抗議の声がイヤホンから響く。
「ちょっと大きな声、出さないでよ! こっちは脳に直接、響くんだからね!!」
「んっ……はっはっはっ!」
セモリナのその言いようが、ミレアには妙におかしかった。大声で笑うミレアに、
「ミレア! なに、笑ってんのさ!!」
セモリナが抗議するが、彼女は笑ったまま答えることができない。戦闘が間近であることを思い出してどうにか笑いを止めたミレアに、カリンが優しい口調で言った。
「OK、ミレア。もう緊張は解けたわね」
「はい、もう大丈夫です」
ミレアは笑って答えると、銃を持ち直した。もう冷たさは感じない。まっすぐ前を見つめるミレアの視線は、決意を固めた者のそれだった。バーガーさんを助けなきゃ。その決意にもう迷うことはない。
追うワゴン車とベンツが、トンネルから外にでた。それを見てカリンがアクセルを踏み込む。ぐんとスピードを増した風景の中で、ミレアがヘリを見つけたのとベンツがヘリに銃撃されたのは同時だった。
「カリンっ!!」
ミレアの叫びに呼応するように、カリンは一気にハンドルを切った。トンネルを抜け夜の闇の中、爆発するベンツの火炎を舐めるようなギリギリを、一気に走り抜ける。炎にあおられて助手席が一瞬だけ熱くなるが、ミレアは気にせずに前だけを見つめている。
スピードを上げ収束していく視界の中で、バーガーを乗せたワゴン車が近づいてくる。小さくなっていく距離の中、ミレアは確かに見つけていた。後ろを振り返り自分の名を叫ぶバーガーを。
「バーガーさんっ!」
カリンが何かを叫び、一気にブレーキを踏み込んだ。激しく揺れる視界の中で、ワゴン車が右前のめりになるのが見える。カリンたちの車の激しさは制御された激しさだったが、ワゴン車のそれは明らかに制御されていない激しさだった。
45度回転したところでワゴン車が止まり、同時にカリンたちの車も止まった。両車の距離は10メートルほど、一気にダッシュをかければ届く距離だ。
「カリンさん、いきますっ!」
「待てっ!」
ワゴン車に近づこうとする特務7課の兵士を見つけてカリンはそう叫んだが、すでにミレアは車を飛び出していた。チッと短く舌打ちして、カリンも車を飛び出す。
ワゴンに向かう特務7課の5名の兵士は、それなりの攻撃を受けるものと思ってワゴンに接近していった。だが、彼らがワゴンに接敵するまでワゴンからの攻撃は一回もなく、沈黙を保つワゴンに彼らは不気味さを感じたほどだった。
隊長の指示に従って、4名がワゴン車を包囲する。スタングレネードを手に持ちワゴンに背を預けた瞬間、赤い車が急ブレーキで止まった。距離が近い。瞬時に隊長は「アタック」の判断を下していた。
右手に持った銃でワゴンのガラスを割って、左手のスタングレネードを中に放り込む。放り込んだ瞬間、車内でスタングレネードが爆発。激しい爆音が外にいる隊長の耳にも響いて、刺激臭と催涙ガスが車内から漏れてくる。
間髪入れず、部下の一人がドアを開け、もう一人が中に飛び込もうとした。スタングレネードの爆発で中の人間が数秒間、感覚を失っているうちに、バーガー以外の全員を殺す。それが作戦であり、作戦は成功するかにみえた。
だが、ドアを開けた瞬間、ドア担当の二人は同時に射殺されたのだ。
「なっ!」
驚き、隊長はワゴンからわずかに離れると、銃をかまえた。突入しようとしたのだが、それよりも早く窓から突き出た銃が彼をとらえた。彼もスタングレネードの煙で真っ白になっているワゴンから突き出された銃に気づいたのだが、その銃口から視線をはずすことができない。
乾いた銃声で、隊長は脳を撃ち抜かれた。
「馬鹿め」
ズームアップした視界で作戦の失敗を見とどけた真奈美は、そう他人事のように言い捨てた。双眼鏡のたぐいは使っていない。真奈美の視界は倍率の変更はもちろんのこと、暗視装置、各種光学装置を内蔵していた。
「相手はあの寺西今日子だぞ。スタングレネードがきくわけないだろう」
スタングレネードを無効化するサイバーウェアは存在しているし、真奈美も入れている。相手がその手の対策をしていることを考慮した上で作戦を立案すべきなのに、彼はそうしなかった。ゆえに、死んだのだ。
「椎名さん、どうしますか?」
恐る恐るといった口調で訊く部下に対して、真奈美は落ち着いた口調で答えた。
「数と火力で押すしかあるまい。各小隊に準備させろ」
「はっ」
「……待てっ!」
呼び止められて部下は真奈美の顔をのぞき込んだ。彼は次の命令を待っているのだが、真奈美は微笑みを浮かべたまま言葉を発しない。そして、彼女はようやく口を開いた。
「Lに行かせろ。他は全員、待機だ」
ゆっくりとした歩調でミレアはワゴンに近づいていった。ここは戦場でありミレアのような行動は即座に死に結びつく。だが、彼女は逃げも隠れもしないで歩いていった。
「止まれ」
ワゴンから聞き慣れた声が飛んできて、ミレアは立ち止まった。声を聞いて誰かはすぐにわかったが、どこにいるかはわからない。ワゴンの車内は薄れてきたとはいえ、煙が充満していた。
ワゴンとの距離は3メートルほど。
「それ以上近づけば、バーガーを撃つぞ」
「墜ちたわね、寺西少佐」
少女のその声は自信にあふれているかのように思えたが、言葉の端々が震えていた。虚勢であることが手に取るようにわかる。
「人質を取って脅すだなんて……そういうやり方は嫌いじゃなかったの?」
「手段を嫌ったことは一度もないな」
あくまでも、今日子の口調は落ち着いていた。むしろ、この状況を楽しんでいるかのようにも思える。煙の向こうで彼女は笑みを浮かべているのだろうか?
「バーガーさんを返して!!」
はっきりとした口調でミレアは本題を口にした。今日子が何か言う前に言葉を継ぐ。
「私があなたのそばに帰ればいいんでしょう? バーガーさんは関係ないわ。だから……」
車の中に身を潜めたまま、カリンはじっとこの二人のやりとりを聞いていた。本当はカリンも飛び出してミレアのそばにいてやりたいのだが、残念ながらミレアと違ってカリンは銃弾に対して絶対的な防御能力を持っていない。
だから、カリンは車の中にいるしかない。そんな自分が、歯がゆくてしかたがなかった。
「ミレア……」
わずかな沈黙の後、今日子が口を開いた。
「残念だけど、もうそんなことじゃすまないところまで来てしまった……」
どこか悲しげな彼女の口調に、ミレアは言葉を失った。
同時に、少女は自分がこの事態をどのように収集するかまで、考えていないことに気づいたのだ。バーガーを今日子の手から回収すれば事態は収まるのか? そんなわけはない。だが、今日子は事態の収拾まで考えて動いているように思えた。
それが自分と今日子の差なのか……。
「じゃぁ、いったいどうすれば……」
そこまで言いかけて、ミレアはこちらに近づいてくる人影に気づいた。
「Lっ!?」
声は疑問形だったが、ミレアはそれがLであることをはっきりと認識していた。存在を感じ取っていたし、はっきりと顔がわかる距離に彼女はもう近づいてきていた。
「久しぶりね、ミレア」
Lの口調はいつもと明らかに違っていた。Lとは物心ついたときから一緒に暮らしてきた仲だから、彼女のことは何でもわかる。今の彼女はミレアの見たことがないLだった。
「どうして、ここにいるの?」
訊いてからミレアは答えに思いあたった。特務7課だ。Lたちの身柄を押さえたのは特務7課だから、連中がここに連れてきたのか? しかし、なんのために? どうして、Lはついてきたのか?
ミレアはLがなにを考えているのか、全くわからなかった。
「ここに来たのは、椎名真奈美に連れてこられたからなんだけど……私の意志でもあるわ」
一瞬、ミレアはLの言葉が理解できなかった。わずかの間の後、ミレアは言った。
「意志って……どうして?」
「Jはあなたに嫉妬していた。あなただけが名前を持っていることに我慢できなくて……だから、彼は西崎の言葉に従ったのよ」
「そ、そんな……」
Lの言葉にミレアはなにを言っていいのかわからなかった。言いたいことはいっぱいあったが、なにを言っても嘘になりそうでどれも言えない。
「でもね、私は気づいたの……」
わずかな混乱状態にあるミレアは、Lの口調が微妙に変わったことに気づかなかった。
「私とミレアのどこが違うというのっ!!」
言葉と同時のLのプレッシャーをどうにか防ぐことができたのは、ミレアの磨かれたセンスによるものが大きかった。ギリギリとミレアの体を上から押しつけてくるような力に、ミレアも力で対抗する。
不意に、力の小競り合いが消えた。
「どうしてっ!」
額にうっすらと汗を浮かべてミレアが叫ぶ。
「何が違うってっ!……どうして、私にこんなことをするの?」
「私とあなたのどこが違うっていうのっ!?」
鋭いLのプレッシャーをミレアは防ぎきることができなかった。防ぎきれず漏れた分がミレアの体を襲って、彼女の細い体がカリンが乗っている車まで吹き飛ばされる。フロントガラスにひびが入り、叩きつけられた衝撃でのけぞったミレアは天を仰いだ。
星が少女の視界を貫く。
「ミレアっ!」
目の前に叩きつけられたミレアを見て、カリンは思わず車を飛び出していた。そんなカリンを見つけて兵士が小銃を構えたが、それをLが見逃すわけがない。
「邪魔をするなっ!」
小銃を構えカリンを撃とうとした刹那、兵士の肉体が四散した。体内で何かが爆発したかのように、血と肉を飛び散らせて弾ける。もちろん、Lの力によるものだ。
「大丈夫?」
あわててカリンはミレアを抱き起こそうとしたが、少女はその手を拒んで自分で起きあがった。ボンネットの上から降りて自分でアスファルトに立つ。その足取りは意外としっかりしていて、ふらついたりしていない。
「大丈夫。カリンさんは車の中にいて……」
ミレアはしっかりとした口調で言うと、ゆっくりと歩き出した。その背中にカリンは言いかけた言葉を飲み込む。ミレアは自分の意志でLと戦うことを決意した。背中を見てそう悟ってしまった以上、カリンが言うことはなにもない。
「L……私はあなたと戦いたくないのよ」
Lに近づきながら、ミレアはそう言った。
「私たちのこの力は望んで手に入れたものではないわ。素質は持っていたけれど、それを引き出したのは寺西今日子。私たちはこの力を望んではいなかった」
ミレアは自分の両手に視線を落とすと、
「望んでいない力に、私たちはずっと振り回されてきた。もうそんなことはやめにしない?」
「言わないでっ!!」
叫ぶようなLの言葉と、ミレアに襲いかかるプレッシャー。だが、そのプレッシャーは前ほどの力を持っていなかった。すでにLは精神の混乱から力の制御ができなくなりつつあるのだろう。プレッシャーは弱く暴走気味で、弾かれても消えることなくそのまま近くの装甲車に当たった。装甲車は横転し、周りの兵士が悲鳴を上げる。
「覚えてる? 学園にいた頃……」
ゆっくりとミレアが近づきつつあるのに、Lはなにもできない。精神が混乱して力が制御できず、プレッシャーを撃つことすらできない。
「あのとき、4人はずっと一緒だったわね。心を許せるのはお互いでしかなく、互いの存在しか心の支えはなかった……」
ミレアがLの右手を握った瞬間、Lは泣いた。手を包むミレアの暖かさを味わうように瞳を閉じるが、涙は流れ続ける。
「ミレア……」
「学園を脱出してLと別れた夜から、Lのことを考えない夜はなかったわ」
「私も……ずっとミレアが心配だった」
「L……」
Lの右手がミレアの手の中からはずれて、左手とともにミレアの背中に回される。それを待っていたかのようにミレアもLの背中に両手を回そうとした。
「はじめろ」
真奈美の冷酷な声と、Lの背中が撃ち抜かれたのはほとんど同時だった。
正確にLの心臓を撃ち抜いた弾丸が、ミレアの右肩を撃ち抜いて空に抜けていく。熱い血が手を、服を、体を濡らしていく。アスファルトを浸食していく生命の赤がミレアの足下にも広がり、体を預けるLの体温が急速に下がっていくのを感じた。
「Lっ!!」
ミレアの絶叫にも似た叫びにも、少女は答えることができなかった。力を失ってずるずると倒れていく少女の体をミレアは支えることができない。極度の興奮によって右肩に痛みはないが、力は入らずLを支えることができないのだ。
「Lっ!……どうして」
叫びから泣き声になって、ミレアはその場に座り込んだ。アスファルトに広がったLの血がミレアの足を汚すが、その血に暖かさを感じることはできない。アスファルトにうつ伏せになったLに向かって、ミレアは呟き続ける。
「どうして……なんで……Lは……」
キンッ!という甲高い音が、ミレアの耳元に聞こえた。無意識のうちに張っていたバリアーが飛んできた弾丸を弾いたのだ。その弾丸は特務7課が数と火力をもって力押しを始めたことの合図だったが、今のミレアにそこまで考える余裕はない。
「うるさいっ!」
ミレアの声と同時に、装甲車の一台が爆発した。続いて、ミレアの視線の移動にあわせて対車両地雷や弾倉の弾丸など爆発できるモノすべてが爆発した。ミレアに向かって撃ち込まれる弾丸の量は増えていくが、そのすべてが弾かれる。
「ば…化け物だ……」
兵士の一人が呟き、弾を撃つのをやめた。確かにミレアは化け物だった。飛んでくる弾丸はすべて弾き飛ばし、視線だけで装甲車すらも破壊する。理解できないミレアの力に兵士は逃げだそうとしたが、次の瞬間、彼の肉体は4つ裂きになった。
「高橋、対ショック体勢だ」
ミレアの力が暴走し始めていることを感じ取って今日子はそう冷静に指示を出した。高橋はうなずいて、準備を始める。
だが、対して真奈美は事態を把握していなかった。彼女はミレアの力を理解していたつもりだったが、少女たった一人の力で自分の部隊が瓦解していく姿を理解することはできなかった。理解できず、恐怖心だけが増長していく。
「日下部っ! あのガキにありったけのRPGをぶち込め!!」
「椎名さん!!」
真奈美の命令は狂っているとしか思えなかった。ここにある全ての対戦車ミサイルをぶち込めば、ミレアの体は粉々に砕け散ってしまう。部隊の損害は止まるかもしれないが、作戦自体は失敗に終わるのだ。
「いいから、ぶち込め!!」
真奈美の声は命令というよりも、絶叫だった。
その絶叫に狂気のかけらを感じつつも、日下部は指令に従わざるおえない。「所詮、女か……」と呟きながら、部下に対戦車ミサイルの発射を命じる。
「少佐っ!」
高橋の叫びよりも早く、今日子はミサイルの飛来に気づいていた。正気とは思えない真奈美の行為に今日子は、最善の策を取るべく動き始めていた。
カリンもこちらに向かって飛んでくる10本以上のミサイルに気づいていた。セモリナの「逃げて、カリンッ!!」という叫びが脳に痛いが、逃げ切れるものではない。彼女にできることと言えば来るべき爆風と熱に、ちゃちな装備で備えることだった。
そして、その場にいる100名あまりの感覚が同時に真っ白になった。
カ…リン……リンッ! い…ま、で…寝てるつもりなの?
突然、カリンの意識は覚醒した。緩やかなカーブを描くことなく、電化製品に電源を入れたように彼女の意識は回復したのだ。運転席の中。頭の上に座席の座布団を置いて、カリンはアクセルやクラッチのすぐそばで膝を抱えていた。
「OK、セモリナ。目が覚めたわ」
答えてから、自分の平衡感覚がおかしいことに気づいた。脳に何か異常が発生したかな? と思ったが、すぐに車が横転しているという事実に気づく。運転席の奥から這い出して、少しフレームのゆがんだ助手席のドアを強引に開ける。
ガソリンくさい。もしかしたら、ガソリンが漏れているのかもしれない。
「体……大丈夫なの?」
助手席から外に出て、カリンは惨状を知った。セモリナの声に答えられないほどの惨状。
外は惨状と表現するしかない状態だった。今日子の乗っているワゴンとカリンの車は横転程度で済んでいるが、その周りを囲んでいた特務7課は壊滅だ。装甲車やトラックは横転や爆発によってスクラップと化し、あちらこちらから兵士のうめきや悲鳴が聞こえてくる。
「カリンっ! 大丈夫なの!?」
脳に直接、響くセモリナの大声で、カリンは現実から遊離していた意識を取り戻した。ボンッという爆発音がどこからか聞こえ、焦げ臭いにおいが鼻を刺激する。
「体は大丈夫。どこも異常はないわ。それより状況を説明して……」
「ミレアの力が暴走したのよ」
セモリナに言われて、カリンはアスファルトの上に倒れているミレアに気づいた。すでに冷たくなっているLの上に重なるように倒れているミレアの姿は、少女の死体を守っているかのようにも見える。
「ミレアの力はカリンや寺西今日子を守る方向に働いたけど、特務7課には殲滅させる方向に働いたってわけ」
駆け寄って、カリンはゆっくりとミレアを抱きかかえた。うつ伏せに倒れていた少女を仰向けにして上体を抱き、大きな外傷がないかどうかチェックする。
「ミレアッ!!」
気を失ってはいたが、ミレアは最初の呼びかけで反応した。瞼の下で眼球が動いて、口から声にならない声が漏れてくる。
「ミレアッ!! 大丈夫?」
「特務7課は壊滅ね。通信系統も全滅して部隊として機能してないわ」
「セモリナ、ちょっと黙ってて!!」
カリンはそう怒鳴ると、ミレアの体を揺らして大声で呼びかけた。その声でミレアはようやく覚醒する。意味をなさい声とともに目が開く。はじめ瞳に意識の光はなかったが、意識の光が宿ると同時に彼女はカリンを認識したらしい。
「……カリンさん?」
「ミレア、大丈夫?」
わずかに手と足を動かして骨などの異常を自分で確かめてから、
「大丈夫みたいです」
答えるミレアの声が元気そうなのにホッとすると、カリンはセモリナを呼んだ。
「セモリナ、脱出プランを提示して……」
「OK」
セモリナの声が返ってきて、行動が始まる。バーガーを奪還しセモリナのプランにのって、後は逃げるだけ。たやすいように思えた。
「さて……」
だが、その声でカリンとミレアの動きは止まった。
「おとなしくしてもらおうか」
顔を上げて声のした方、ワゴンを見やる。横転したワゴンの上。スーツの裾をはためかせて立つ女の影。サブマシンガンの銃口をこちらに向けて立っている女は誰であろう、寺西今日子、その人であった。薄明かりの中、男物のダークスーツの裾をはためかせて横転したワゴンの上に立つ今日子は、美しさを感じさせるような存在だった。
バルキリー。戦乙女。わずかな光の中に立つ今日子は、まさに戦乙女だった。戦うために生まれてきたような女がサブマシンガン片手に立つ姿を、バルキリー以外になんと呼称できようか?
「カリン」
今日子に名を呼ばれて、カリンは右腕の動きを止めた。
「貴様が抜くスピードと私が撃つスピード……比べてみるか?」
言われて、カリンは懐の銃を抜くのをあきらめた。普通の人間相手だったら勝つ算段は十分にある。相手がカリンが銃を抜いたと意識する前に、撃つことが可能だろう。だが、今回は相手が悪い。条件は五分か、向こう側に有利だ。
「ミレア、立ちなさい」
今日子の言葉にミレアはカリンの顔を見た。カリンがうなずくのを見て、ミレアはゆっくりと立ち上がる。それに呼応したかのようにワゴンから高橋とバーガー、それと2名の男が現れた。
5人はワゴンから飛び降り、今日子があらためて口を開く。
「状況はこっち側に有利になったようね」
完全に状況を楽しんでいるような今日子の口調に、カリンはなにも言い返せなかった。どうしたら、いいのか……。ミレアとバーガーを交換するのは簡単だが、それはミレアが学園に帰ることを意味している。しかも、カリンがそれで安全になるわけではない。
今日子にとって最上の事態の収拾方法は、カリンとミレアを手に入れることだろう。それはカリンにとって完全なる敗北を意味していた。カリンにとって最上なのは、バーガーを奪還しミレアとともにここから脱出することだが、それができるのだろうか?
「有利って、どうかしら……まだ、5分なんじゃないの?」
カリンの言葉はハッタリに属するものだったが、返ってきた今日子の言葉はカリン以上にハッタリにあふれたモノだった。
「ふん。こっちにバルキリーの支援があるのを、忘れているようだな」
もちろん、現状においてバルキリーは機能していないし、通信も不通のままだ。であるが、カリンはそのことを知らず今日子はその一点にかけて言葉を投げつけたのだ。結果、カリンの表情が微妙に変化したのを見て、今日子は自分の賭けが成功したことを知った。
「そのわりには……」
無意識のうちに表情を元に戻して、カリンは言葉を継いだ。今日子に表情の変化を悟られていない自信はなかったが、そのことを気にしては仕方がない。
「バルキリーが出てこないわね? 緊急展開の腕が落ちたんじゃないの?」
「本題に入ろう」
カリンの疑問を今日子は無視したのだが、カリンはそのことについて突っ込まなかった。今までのはしょせん茶飲み話であって、ここからが本番だ。
「ミレアを返してもらおう」
「ことわる」
カリンの返答はあまりにも速く、今日子がかすかに目を丸くしたほどだった。ミレアが何か言う前にカリンが答えたのは、ミレアが自分を犠牲にしてでもバーガーを助けたいと思っているからだ。ここでカリンがイニシアティブを取らないと、カリンの意志抜きで交渉が成立してしまうおそれがある。それだけは避けたかった。
「ミレアはどうなんだ?」
今日子の言葉は予想されたものだった。余裕の微粒子すら含んでいる今日子の口調。
「私は……」
言いかけて、ミレアの口は止まった。カリンが彼女の腕を軽く引いたからだった。なにもしゃべるな。カリンの意志を察して、ミレアは口を閉じる。
「ミレアさえこっちに戻ってくれば、私にバーガー軍曹を拘束する理由はなくなる。だが、それだけではカリンの面子が潰れるわけだ」
カリンの心を見透かしたような今日子の言葉に彼女はなにも言えなかった。
「カリン、私はおまえに2パターンの条件を提示しよう」
薄い笑みを浮かべる今日子を、ただにらむことしかカリンにできることはなかった。イニシアティブを向こうに握られてたことが腹ただしい。
「ミレアを放せば、200万、払ってやる。しかも、今後、お前とセモリナを一切、追跡しないというオマケつきだ」
「金の問題ないじゃないっ!!」
反射的にカリンは叫んでいたが、どうひいき目に見てもそれはポーズ以外の何ものでもなかった。
「焦るな。2パターンあると言ったろ?」
余裕を振りまいている今日子がたまらなく憎らしい。交渉に集中するよりも激発しそうな自分を押さえつけるのに、カリンは一所懸命になっていた。
「もう1パターンは……」
完全に今日子の口調は楽しんでいる者のそれだった。
「うちに来ないか? 私の下で働けば、もっと面白いことがあるぞ」
「なっ……」
その言葉はカリンを驚かせその思考を一瞬、凍りつかせる力を十分に持っていた。「少佐っ!」と抗議の意味を含めて高橋が叫ぶが、今日子は意に介していない。
「カリンッ!」
セモリナの声が脳に直接、響いて、カリンは口から飛びだしかけた言葉をどうにか飲み込んだ。
「バルキリーの動きがおかしい。査察7課の強制捜査を受けて機能停止しているっていう噂なのよ」
「本当なの?」
「今、照会中よ。それから、カリ……」
不意に聞こえてきたエンジン音に、カリンの意識は集中した。スピードを上げてこっちに向かって走ってくる一台のジープに。そのジープにはカワサキの文字が刻まれており、助手席の真奈美の瞳はすでにこの世のモノではなかった。
「そっちにヘリが数機……」
真奈美が何か声を上げたが、悲鳴のようなジープのエンジン音がそれをかき消す。
「接近中よ。気をつけて!!」
真奈美がサブマシンガンを構えるのを見て、カリンはホルスターの銃を抜き、今日子もサブマシンガンをすっと持ち上げた。カリンはミレアを左手でアスファルトに引きずり倒す。
「きゃっ」
ミレアの小さな悲鳴。だが、カリンの意識はすでに突っ込んでくる真奈美のジープに集中していた。
同時に、銃弾が錯綜した。真奈美の銃弾が突き刺さってカリンの周りのアスファルトに小さな土埃があがり、今日子の部下2名が銃弾を食らって倒れる。
はじめから、カリンは真奈美を殺すつもりで撃っていた。運転席に一発と真奈美の右腕、額、心臓。10発以上の銃弾が真奈美と運転席を貫き、コントロールを失ったジープがカリンと今日子の間を走り抜けていく。
そして、それが合図となった。
ミレアの前からカリンの姿がふっと消えた。視覚系がピュアなミレアには消えたようにしか見えなかったが、実際に消えたわけではなかった。この混乱に乗じ瞬間と表現していいスピードで、カリンは一気にバーガーに近づこうとしたのだ。
スピードという名のサイバーウェア。使用者の体力を大きく奪うかわりに、数秒間、信じられない素早さで行動することができる。
普通の人間相手だったら、これで決着がついただろう。だが、相手はあの寺西今日子であった。
ミリ秒単位の時間で一気にバーガーに近づく。相手が今日子であっても、混乱の隙をつけばうまくいく。カリンはそう信じていた。だが、実際にはバーガーの目の前に今日子が立ちはだかったのである。
瞬間の判断でスピードを切り、カリンは今日子の前に立った。今日子以外の人間はカリンの行動に気づかず、突然、現れた彼女に驚いている。阻止する行動を起こせたのは、今日子だけだった。
「相手が悪かったわね」
今日子の言葉に、カリンは微笑むしかなかった。
「……そうみたいねっ!」
声と同時にカリンは銃をかまえようとしたが、それよりも早く今日子の右脚がカリンの右手を正確に蹴り上げていた。カリンの手を離れて夜の空に舞い上がっていく銃に固執することなく、カリンは今日子の懐に飛び込む。
右手でサブマシンガンを弾き飛ばすと、左の肘を胸に打ち込んでそこから顔面への裏打ち。カリンは最後の裏打ちでのけぞった今日子の足を払おうとしたが、今日子はそれをぎりぎりで受け止めた。
受けた止めた今日子がそこから、カリンの左脇腹に強烈な右蹴りを打ち込む。思わずよろめくカリンに左、右と打ち込んで、とどめとばかりに胸に強烈な蹴りを一発
だが、自ら後ろに飛ぶことで、カリンはどうにか持ちこたえた。後ろに数ステップ下がって、間合いを取る。
「相変わらず蹴りが主体なのね」
ゆっくりとファイティングポーズを取るカリンに対して、今日子はあくまでも自然体だった。
「貴様が格闘戦を選ぶとは思っていなかった」
そして、二人は同時に間合いを詰めた。
攻撃は同時だった。今日子の右蹴りをカリンが左腕で受け、カリンの右ストレートを今日子が左手で受け流す。はじめの両者の立場は同じであっても、次の瞬間には有利不利が生まれる。
体重の乗った一撃を受け流されたことによって、カリンの姿勢は大きく崩れてしまったのだ。崩れて半身になったカリンの頬を今日子の左ストレートが正確に打ち、そこから流れるようなサマーソルトキックがカリンの顎を蹴り上げる。
くるりと体を一回転させる勢いを利用して、相手の顎を蹴り上げるサマーソルトキック。蹴り上げられた勢いでカリンの体はわずかに宙に浮き、そのままアスファルトの上に落ちていった。
「カリンさんっ!」
ミレアの悲痛な声。あれだけの打撃を食らって、それでも立てるほど今日子の蹴りは甘くない。
カリンの体が仰向けにアスファルトに落ち、今日子は勝利を確信した。
「高橋、ミレアを押さえろ」
と、指示を出しながら、倒れて動かないカリンに無造作に近づいていく彼女を、「甘い」と責めることができる人間がいるであろうか?
カリンの体が偶然にも今日子の落としたサブマシンガンに近い位置にあること。カリンの右手が密かに動いてその銃把をつかんでいること。
この2点に気づかなかったことが、今回の一連の戦闘における今日子の最大の落ち度かもしれない。
「よし、カリン。ゲー……」
ムセットだと、言いかけて今日子の口は止まった。目の前に現れたサブマシンガンの銃口。ゆっくりと立ち上がろうとするカリンを見て、今日子は自分が最悪の失敗を犯したことを悟ったのだ。
「全員、動かないでっ!!」
カリンの声にその場にいる全員の体がビクッと震えた。
「変なことをしたら、今日子の脳が修復不可能な傷を負うわよ」
今日子はカリンをにらみ付けるだけでなにも言えなかった。じっと口をつぐんでいる。
「最後の最後で失敗したわね。詰めが甘いんじゃないの?」
「偶然に助けられたくせにでかい顔するなよ、貴様」
今日子の言い様はもっともだったが、銃を突きつけられた状況では、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
カリンはミレアに銃を突きつけている高橋を見やると、
「ミレアを放しなさいっ! じゃないと、あなたの大事な上官を殺すわよ」
「少佐を殺せば、即刻ミレアを殺す」
高橋の口調は、アンドロイドに通じるものがあった。感情が通っていないような冷たい平坦な口調。
「バーガー軍曹っ!」
カリンに名を呼ばれて、バーガーは初めて顔を上げた。困惑の表情でカリンを見つめる。
「私が乗ってた車まで走ってっ!」
「高橋っ!」
銃を突きつけられているにもかかわらず、今日子の口調は堂々としたものだった。
「バーガー軍曹が走ったらミレアを殺せ、躊躇するな」
「しゃべるなっ!」
カリンがサブマシンガンで今日子の顔を打つ。その音は激しく、ぶたれた拍子に今日子がよろめいて片膝をついたほどだ。
「貴様……」
本人も気づかぬうちにカリンは肩で息をしていたが、銃でぶたれてもなお今日子の口調は冷静だった。打たれた右頬が赤く腫れあがっているのが痛々しいが、興奮のために本人は痛みをほとんど感じていない。
「少佐っ!」
高橋の声に、今日子は「大丈夫だ」と答えただけだ。足首に右手を添えてから、今日子はよろよろと立ち上がる。と、その右の手元で一瞬、何かがきらめいた。
「!」
ナイフ。足首に隠してあったナイフを今日子が投げたのだが、カリンはそれを半歩、横にステップすることでかわした。サブマシンガンの銃口を突きつけたままで、カリンがどこかふざけた口調で言う。
「下手な小細工はしない方がいいわよ」
「そうだな。手の内は出尽くしたよ」
そう言って今日子は微笑んだが、その笑みがカリンには妙に引っかかった。どうして、この状況下であってもこいつは微笑んでいられるのだろうか? まだ、何かあるのではないだろうか? 何か……。
「カリンッ!」
どこか切羽詰まったミレアの声と同時に、カリンは不意に思い出したのだ。自分の車からガソリンが漏れていたことに……。そして、椎名真奈美の乗っていたジープはどこに消えたんだ? 視線を移動させるのと、カリンの車が爆発したのはほぼ同時だった。
爆風をまともに喰らったのは、カリンだけだった。熱と爆風で倒れそうになるカリン。そこを今日子が襲ってきた。
サブマシンガンの右手を押さえて脇腹に蹴りを打ちこむ。よろめきながらもカリンはサブマシンガンを放そうとしなかったが、2発目で意識が一瞬、遠くなり、その隙をつかれた。
強引にもぎ取られて、アスファルトに打ち倒される。そして、爆風と熱と音の嵐がおさまったときには、二人の立場は完全に逆転していた。今度は、カリンが目の前のサブマシンガンの銃口を見つめている。
「カリン、48時間山地訓練を思い出さないか?」
銃を突きつけられている自分に向かって今日子がなにを言っているのか、カリンは理解できなかった。なにを言いたいのか? この期に及んで思い出話に花を咲かせたいのか? 妙に鋭くなった聴覚がヘリの音をとらえたが、それが現実なのか幻なのかもカリンには判別がつかなかった。
「47時間目で、私はようやくお前とセモリナを捕まえた。あのときの最後も確かこんな感じではなかったか?」
鬱蒼と茂る森林の中をわずかな食料と水でセモリナと一緒に逃げ回ったあのときを、カリンは思い出していた。霧雨が降り寒さが確実に体力を奪っていく中を、目的地に向かってただ黙々と歩く。機械化された追っ手をかわしながら、不確かな地図片手に険しい山地をゾンビのように歩く。
「私はお前たちに一番、期待していたのに……」
最後、目的地まで数キロ、タイムリミットまで1時間。体力も精神力も尽きて今日子に捕まったとき、カリンはなぜかホッとしたことを今でも覚えている。目の前のサブマシンガンがなぜか暖かく思え、これで基地に帰れるという安堵感を象徴しているかのようだった。
だが、今、目の前にある銃口からは冷たさしか感じられない。死の冷たさ。確実に忍び寄ってくる死の象徴。
「私たちには何の力もなかったのに……なぜ?」
遠くでセモリナの声が聞こえるような気がする。意識がふわふわと浮遊するよう感じがして、死を目前にしてカリンの心はなぜか落ち着いていた。意識を介在せずに、ずっと心の奥深くにしまっていた疑問が口から出ていく。
「貴様たちにはミレアのような力はなかった……が、天性のセンスがあった。そして、それこそが私が一番、必要としていたモノだった……」
不意に意識のベクトルが逆転しそうになるのを、カリンは他人事のように感じていた。なにも言わないカリンに今日子が冷たく宣告する。
「ゲームセットだ……」
その言葉でサブマシンガンが意識を持ったような気がした。今日子の右腕に力がこもるのを感じて、カリンは死を覚悟した。セモリナの声が何か言うが、カリンにはもう聞こえていない。
セモリナ、あんただけは何とか逃げて……。そう祈るだけだ。
「カリンさんっ!」
ミレアの声と、今日子の右腕から鈍い音が聞こえてきたのはほとんど同時だった。骨が折れる音。さっきまでカリンにサブマシンガンを突きつけていた右手は力を失ってだらりと垂れ下がり、曲がってはいけない方向に曲がっていた。
ミレアが力で、今日子の右腕の骨をぐちゃぐちゃに折ったのだ。
「貴様ッ! ミレアっ!!」
こんなに激しい今日子の声を聞いたのは初めてだった。カリンは今日子からサブマシンガンを奪おうと体を起こしたが、彼女はそれに気づかず叫んでいた。
「高橋、その小娘を殺せ! 今すぐにっ!!」
カリンは今日子の右手から、サブマシンガンをもぎ取ってかまえた。身をひるがえし、高橋を見やる。
「ミレア、伏せてッ!」
叫びながら、カリンは海からやってくる数機のヘリに気づいた。聴覚に対するローター音の支配力の高まりを感じながら、カリンは引き金を絞る。
数発の弾丸が高橋の右腕に吸い込まれて、彼は体をねじるように倒れかけた。手から銃が転げ落ちるが、彼はまだ戦う意志を消してはいない。体をねじって左手で銃を拾い上げると、ミレアに向けてかまえた。
「ミレアっ!」
名を呼びながらバーガーがミレアの前に飛びだした。火線がふさがれて高橋が一瞬、躊躇する。その隙をカリンが見逃すはずがない。
「撃てば、貴様の上官を殺すぞ!!」
「高橋、撃てっ! 軍曹もろとも殺してしまえっ!!」
今日子の叫びとカリンの銃声が重なって、一発の銃弾が高橋の右太股に食い込んだ。足の支えを失って「がっ!」という声をあげて、高橋の銃が咆哮し銃弾が夜の闇に消えていく。
「高橋っ!」
今日子の叫び。だが、戦闘はそこまでだった。
爆音とともに突然、アスファルトに着弾した数発の巨大な弾が第3勢力の到来を告げたのだ。ヘリのローター音とともに高速道路に降り立ったのは、鋼鉄の巨人。大砲を抱えた漆黒のバトルシェル。
「シノハラ本社事業統括部査察7課だっ! 全員、銃器を捨てろ!! 抵抗すれば射殺する!!」
戦場に降り立った漆黒の巨人を見上げて、今日子は吐き捨てるように言う。
「サーリット・メイスンか……」
けが人を乗せて飛び立っていくヘリを、惚けた表情でミレアは見つめていた。緊急展開した査察7課の兵によって戦場は支配され、事後処理が始まっていた。カワサキ・セキュリティ社からも何人かがやってきて、査察7課の人間と少し離れたところで現場レベルの話し合いをしている。
カリンとミレアは今日子や高橋と一緒に、今日子のワゴンのそばに集められていた。向けられた査察7課の兵士の銃が、自分の立場が微妙なものであることを知らせる。ミレアはカリンの耳元に口を寄せると、囁くように聞いた。
「これからどうなんの?」
対するカリンの答えは簡潔きわまるものだった。
「さぁね」
ミレアは今日子達を見やった。今日子の右腕は複雑骨折で力無く垂れ下がり、高橋の右腕と右太ももも銃創からの出血で真っ赤に染まっていた。覚悟を決めているのかどうかはわからないが、二人は先ほどから会話を交わしていない。もしかしたら、インプラントされた無線機で話をしているだけかもしれないが……。
できれば、ミレアはバーガーと話をしたかったのだが、バーガーの位置はミレアから見てちょうど反対側でとても声の届く範囲ではなかった。伝えたいこと、話したいことがいっぱいあるのに話すことができないのはとてもつらかった。
これで終わりではないことを、もちろんミレアは知っていた。自分がシノハラの関係者を何人も殺しているのは事実だし、そのことに関しては何かあるだろう。だが、ミレアはすでに腹をくくっていた。自分の力ではないにしても、バーガーを救うことができたのが一番ではないか。
ミレアはこの結果に満足すらしていた。
と、少女は二人の女が近づいてくることに気づいた。ミレアは顔を上げたが、その女性が誰かはわからない。
体にぴったりとしたパイロット・スーツを着た女性と、真っ赤なスーツを着た女性。パイロットスーツの女性はどこか冷たい印象を与えるが、もう一人は対照的にどうみても高校生ぐらいにしか見えない。
「少佐……」
バーガーの呟くような声にパイロットスーツの女性は微笑んで、
「苦労をかけたな、バーガー軍曹」
それから表情を引き締めると、彼女は全員に向かって名乗ったのだ。
「シノハラ・セキュリティ・フォース社機甲3部第4課1係のサーリット・メイスン少佐だ」
「シノハラ・サイバネティックス社事業統括部査察7課課長の、葉山香織です」
メイスンに続いて真っ赤なスーツの女性がそう名乗った。まず、香織はカリンとミレアの方を向くと、
「カリンさんとミレアさんの身柄は我々、査察7課で保護させていただきます」
「断った場合は?」
鋭い野生の狼を感じさせるカリンの口調に対して、香織の口調はあくまでもやわらかかった。
「これは逮捕ではありません。バルキリーに対する査察の一環として、あなた方を保護するのです」
ミレアはカリンの判断を仰ぐように彼女の顔を見ていたが、カリンはなにも言わなかった。セモリナが裏付けの情報を集めて報告してくれるのを待っているのだ。
「カリン、査察7課がバルキリーを強制捜査していることが判明したわ。葉山香織の言っていることは大丈夫。信じていいわ」
「ありがと」
カリンが答えると、脳内からセモリナの雰囲気が消えた。カリンとミレアの動きをトレースするための準備に消えたのだろう。
「わかりました、葉山さん。私とミレアはあなたの言葉に従います」
カリンの言葉に反応したのは、香織よりも今日子が先だった。
「葉山課長、カリンとミレアの引き渡しを拒否する。その二人はバルキリーの重要な捕虜だ」
「寺西少佐」
香織の口調の温度が一気に下がったことに、その場にいる全員が気づいた。それで、今日子と高橋も何かが起きていると悟る。
「我々はバルキリーに対して強制捜査を行っています。これが、役員会の命令書です」
香織は言葉とともに命令書を今日子に提示した。奪うようにして今日子と高橋は命令書を見る。
「事情を説明してもらおう」
それでも今日子の口調がほとんど変わらなかったのは、それが彼女の最後の一線だったからだ。
「予算規定違反です、少佐。バルキリーの資金の流れを明確にするために、オフィスやその他を強制捜査させていただきました」
「少佐……」
高橋の声はわずかに震えていたが、今日子が表情を変えることはなかった。今日子が築き上げたと言ってもいい今日のバルキリー。そのバルキリーの崩壊を目の前にしても平静を装っていられるのは、最強の女と言われた今日子の最後のプライドなのか?
「葉山課長、電話を貸してもらえるか? 専務と話をしたい」
「いいわ」
部下に声をかけ携帯電話を持ってこさせると、香織はそれを今日子に渡してやった。今日子は専務との専用回線の番号を押す。その押す指が震えてもいないことに、メイスンは驚きすら覚えた。
「私だ」
少しだけ緊張した声で専務は電話を取った。シノハラ・サイバネティックス社の自分のオフィス。
「専務、バルキリーの寺西少佐です。査察7課の件でお話を伺いたく電話しました」
「少佐、この期に及んでじたばたするのはやめたまえ」
専務の声は敗北者に対する勝利者のような冷たさにあふれていた。私は敗北者なのか……。今日子はバルキリーが崩壊しつつあるのを実感する。
「予算の執行は社長や専務も了承していたはずです。査察7課の捜査を受けるいわれは、ないと思われますが……」
「とは言っても、少佐の金の使い方が少々、荒っぽかったのは事実だ。どうだ、少佐。休暇と思うのはダメか?」
すでに専務は籠絡されているらしい。香織がうまい具合に政治闘争に組み込んだのだろうか? いろいろと詮索しかけて今日子はそれをやめた。詮索しても仕方がない。
「少佐はやりすぎたよ」
専務の言葉を最後まで聞くことなく携帯電話を耳からはずし、今日子は「切」のボタンをゆっくりとした動きで押した。腕をおろし電話をじっと見つめる。
今日子の表情が激変したのは、次の瞬間だった。平穏から怒りへと。アスファルトに携帯電話をたたきつけると同時に、彼女は叫んだのだ。
「私の他に誰が次世代の戦場をリードできたというのだっ!?」
突然のその叫びを正確に理解できる者は、誰一人としていなかった。高橋でさえも思わず驚きと恐怖を感じてしまい、一歩、後ずさってしまったほどだった。
「バトルシェルの登場で戦場の機動化は極限まで進んだ。バトルシェル化の遅れた我が社の部隊が、戦場に復帰できるまでに失った利益はどれだけになったと思う?」
答えられる者はいなかった。今日子の叫びだけが、ただうつろに響く。
「私は次世代の戦場をリードしたかった。リードせねばならなかった。そのための学園なのに……」
一つ、息を吸い込む。
「なぜっ! 貴様らは邪魔をするっ!!」
アスファルトの上に散らばった携帯電話の残骸が、ヘリのスポットライトを浴びて輝いているのが奇妙にきれいだった。
「サーリット……なら理解できるだろう?」
救いを求めるような今日子の声。
「今日子」
冷たさと慈愛の入り混じったような微妙なメイスンの口調。
「学園の話はいろいろ聞いたわ。でも、私には理解できない」
はっきりとメイスンは言った。信じられないモノを見るような今日子の瞳。
「あなたの理念のためにミレアのような少女や少年が、犠牲にならなければならない理由は、一切ないわ。」
「ならば……」
どこかすがるような口調で今日子は言うと、メイスンの顔を見た。神に最後の慈悲を求めるような罪人の表情。
「私はいったい、どうすれば良かったのだっ!?」
勢いよくメイスンの襟首を左腕だけでつかみ、今日子は彼女に詰め寄った。あわててそばにいた兵士が止めに入ろうとするが、それよりも早く高橋が左腕だけで今日子を羽交い締めにする。
「少佐っ!」
高橋に名を呼ばれて、プッツリと糸が切れたのだろう。今日子は力無く膝をアスファルトにつけると、その場に座り込んだ。顔を伏せかすかに肩を震わせながら、呟くように、
「じゃぁ、私のしてきたことはいったいなんだったのだ……」
「少佐」
香織の口調は、かすかに動揺していた。メイスンと違い友人の取り乱した姿を見て平穏を装えるほど、彼女は修羅場をくぐり抜けていなかった。名を呼ばずただ階級で呼んだことが、彼女なりの最後の一線だった。
「カリンさんとミレアさんはこちらで保護します」
香織の言葉に今日子は何も言わなかった。それを了解と受け取ったのだろう。香織はカリンたちを見やると、兵士についていくよううながした
「10分ほどしたら少佐と高橋中尉を連行します。それまでのあいだ……」
「葉山課長、お願いがあります」
うなだれたままの今日子の肩に手を置きながら、高橋は言った。
「このままにしてくれませんか? バルキリーの事後について、二人で詰めなければならない話もあります。で、その間、兵を……」
「わかりました」
メイスンが何か言いかけたが、それを制して香織は高橋の申し出を許可した。
「準備ができたら呼びにきます。その間、兵も近づけません」
言ってから、香織はメイスンの顔を見やった。明らかに反対なメイスンの表情であったが、彼女は何も言わない。
「行きましょ」
香織に促されてメイスン達はこの場を去り、ワゴンのそばには高橋と今日子の二人だけとなった。兵も離れ二人だけになってから、高橋は今日子に近づく。
「少佐」
高橋は今日子の左腕をつかんで引っぱり上げようとしたが、彼女は立ち上がろうとしなかった。まるで駄々をこねた子供のように、アスファルトの上に座り込んでいる。
「バルキリーの寺西ともあろうお方が、そんな格好じゃ恥ずかしいですよ。立ってください、少佐」
その言葉が今日子のプライドを刺激したのだろう。よろよろと彼女は立ち上がろうとした。が、足がもつれ今日子は思わず高橋の方に倒れ込んでしまう。不意をつかれたが、高橋は今日子の体をなんとか受け止めることができた。
体で今日子の体を支えて、両手をその背中にまわす。
「すまん……」
小さく呟くように言って今日子は高橋の体から離れようとしたが、逆に高橋は背中に回した腕に力を込めた。強く抱きしめられて、ハッとした表情を見せる今日子。一連の戦闘で彼女が一番、驚いた瞬間だった。
「少佐……」
今日子の左耳と高橋の唇の距離は5センチもなかった。彼の吐く息が耳にかかり、どこかくすぐったい。高橋の臭いを感じて、彼が男であることをいまさらながらに気づく。
「逃げてください」
「高橋……」
男の名を呼ぶことしか、女にできることはなかった。
「少佐さえいれば、バルキリーを再建することができます。このまま行けば、暗殺されるのがオチです。だから、逃げてください」
「私が逃げたとして、お前はどうする?」
どんなに激しい戦闘の中でも速くなったことがない心臓の鼓動が、今は速くなっているのが不思議だった。垂れ下がっているだけだった今日子の左腕が、高橋の背中にまわされる。
「隊長と副隊長が逃げては、部下に迷惑がかかりますよ。私は残って、事後処理に当たります」
「どうやって逃げる? 査察7課はともかくサーリットは強敵だ」
「ワゴンの中に遠隔操作できる爆弾が、いくつか置いてあります」
わずかに高橋が声を潜めたのは、ほとんど習性みたいなものだった。
「ジープを呼んでそれを奪いましょう。爆弾を爆発させた隙をついてください。あとは、少佐の技量次第です」
そう言って笑ったのは、高橋らしい気遣いだった。
「高橋……」
今日子の腕にわずかに力が込められた。それに答えるように、高橋も腕に力を込める。今日子の体が意外と細いことに驚く。
「お前にばかり迷惑をかけるな」
「自分は事後処理をすればいいだけですから……それよりも、新たに部隊を作る少佐の苦労が……」
「お前には本当に苦労をかける」
再度の今日子の言葉に高橋は何か言おうとしたが、それに先んじて今日子が言葉を続けた。
「私はお前の苦労にどう報いればいい? 新たに部隊を作ったところで、お前にまた苦労をかけるだけだ」
「なにもいりません」
高橋ははっきりと言ったが、今日子はそれを認めようとしなかった。口には出さなかったが、雰囲気がそう言っている。
「それなら……」
そこで高橋が息を吸い込んだのは、彼が極度に緊張しているからだった。
「唇をください」
まるで、その言葉を待っていたかのように、今日子はすっと体を離した。左腕を高橋の右腕に添えて、彼の顔を見上げる。見上げられて、高橋は今日子の体が自分よりも小さいことに気づいたのだ。
ヘリのライトが二人をなでていく。強い明かりが一瞬、今日子の顔を照らしあげた。彼女が微笑んでいるように高橋には思えたが、それも一瞬で本当のことはわからない。ただ、自分の右腕をつかむ彼女の手に、わずかに力がこもったことだけは事実だった。
再び、闇が二人を包み込む。薄明かりの中、誰も二人を見ていない。
今日子がゆっくりと踵を上げ、高橋が体をかがめた。
そして……
触れるようなそんなキスだった。唇を触れ合わせるだけ、恋人同士が初めてするようなそんなキスだった。誰も二人を見ていない、二人だけの空間で、男と女は初めてのキスをした。
そして、唇を離さずに高橋ははっきりと告げる。
「ずっと好きでした……」
今日子は何も答えなかった。ただ、高橋をつかむ手に力を込めただけだった。
カワサキ・セキュリティ社の人間といくつかの交渉を終えて香織とメイスンが戻ってきたとき、今日子と高橋は横転したワゴンのそばに座り込んでいた。今日子からは先ほどのような激しさは感じられず、ただ膝を丸めて座っているだけ。対して、高橋は活動的で、携帯電話でバルキリー本部にいくつかの指示を出しているようだった。
高橋が電話を切るのを待って、香織は口を開いた。
「寺西少佐、高橋中尉。査察7課まで同行、願いします」
「葉山課長……」
高橋はどうにかという感じで立ち上がると、
「ジープをまわしてもらえませんか? 自分はともかく、少佐はヘリまで歩けそうもありません」
言われて、香織はこの場所からヘリまでの距離を考えた。確かに負傷した体で歩くにはつらい距離だ。
「いいでしょう。今、ジープをまわします」
言うと、香織は右手に持ったトランシーバーで部下に指示を出した。ほどなくして、兵が運転するジープがやってくる。高橋が手を貸し今日子がやっと立ち上がるのを待って、メイスンは言った。
「手を貸しましょうか?」
「いいです」
はっきりとした口調で高橋が断るのを見て、メイスンはただうなずいただけだったが、香織はこれ見よがしに肩をすくめてみせた。敵の慈悲は受けないという、高橋流のプライドの守り方でもあるのだろうか? とでも、言いたげだ。
「中尉と少佐はこれに乗ってください。我々は別の車で行きます」
香織の指示に高橋はうなずき、今日子に肩を貸しながらゆっくりと移動を始めた。足を引きずるように歩いて、ジープの運転席の前を通ろうとする。その様子をメイスンはじっと眺めていた。
車の前を通って運転席に近づく二人。
「サーリット、行きましょう」
香織にうながされても、メイスンはその場を動けなかった。理由はない。あえて挙げるとすれば、二人が気になるからだが、それだってとってつけたような理由だった。理性的な理由はどこにもない。勘という奴だった。
「香織っ!」
メイスンが友の名を呼んだのは、行動が起きる一瞬前だったが、それでも高橋と今日子の動きの妨げになることはなかった。
突然、ワゴンが爆発した。音と爆風、熱が嵐となって吹き荒れ周囲を席巻する。不意の嵐にメイスンは耐えるだけで精一杯だったが、今日子と高橋は違っていた。
高橋が運転席のドアを開け兵を引きずりおろし、メイスンが運転席に乗り込む。嵐が終わって人々が自分の感覚を取り戻したときには、すでに二人の一連の行動は終わっていた。
思いっきりアクセルを踏み込み、今日子はジープを走らせた。高速道路を、門脇西出口方面に向かって走る。門脇東出口には検問があるだろうが、こちらにはないだろう。とっさの判断だったが、それは正しかった。
ここを突破されたら、食い止める術がない。猛スピードで突破しようとするジープに向かって、散発的な銃声が上がったがそんなもの役に立つわけがなかった。猛スピードで突っ込んでくるジープに、兵はただ逃げ惑うだけだ。
「殺してもいい!! 食い止めろっ!」
レシーバーに向かって香織は大声を上げたが、すでにジープは最後の一線を越えていた。門脇東の方には兵をいくらか配置していたが、ここで決着がつくと思っていたため門脇西には兵を置いていない。
「すぐに追撃部隊を出せ。ヘリは出せるな?」
矢継ぎ早に指示を出す香織を置いて、メイスンはゆっくりとした歩調で高橋に向かっていった。
高橋は自分が車から引きずり降ろした兵士に、取り押さえられていた。腕を掴まれアスファルトを舐めような格好で地べたを這っている。
「相手はあのバルキリーの副隊長よ。少しは敬意を払ったらどう?」
知らぬ者はいないバトルシェルの勇士の眼光に兵はわずかに恐怖心を感じたが、それでも彼は言葉を発することができた。
「しかし、少佐……」
「私が責任をとるわ。だから、放しなさい」
あのサーリット・メイスンにそこまで言われては仕方がない。兵は渋々、腕にかけていた手を離し、高橋を立ち上がらせた。左手で服についた埃を払う高橋に、メイスンは言う。
「今日子がいればバルキリーは確かに再建できるわ。そういう判断ね?」
だが、高橋は何も答えなかった。何も言わずにメイスンを見るだけだ。その瞳には、輝きが感じられず、まるで魂の抜け殻のようだった。
ヘリが飛びはじめた。頭上を通過していく激しいローター音を感じながら、メイスンはなぜか微笑んでいる。
「もう、今日子を補足するのは無理ね。よほどの運がなければ、あの女を捕まえることなんてできないわ」
「メイスン少佐……」
高橋のうめくような声。
「どうして……笑っているんですか?」
メイスンにもその理由はわからなかった。
終 章
思い出したように現れて後ろに消えていく街頭と、流れていくアスファルト。夜の高速を走るワゴンの中で、ミレアは終わりを感じていた。いつの間にか、自分の手に重ねられていたバーガーの手が暖かい。
その暖かさは、どこか悲しかった。事件が終わって自分を待っているのは、シノハラの裁き。シノハラの関係者を殺した罪は消えない。大企業は冷酷で残忍であることを、ミレアは身をもって知っていた。
前の席に座るカリンは先ほどから、一言も発していなかった。それは、隣に座るメイスンも同じだった。助手席の香織だけは車の無線機を使って、何か指示を出している。と、無線機を置いて香織が振り返った。
「やっぱり、今日子はダメだったわ。高橋にも色々訊いたけど、黙ったっきりだそうよ。さすがに、つかまんない」
「まぁ、そうでしょうね。で、これからどうなるの?」
メイスンの言葉に香織は少しだけ考えると、
「今日子が逃げてしまった以上、バルキリーの解散で上は納得すると思うわ。それでこの事件はおしまいね」
「自分は……」
控えめなバーガーの声に、香織は彼を見る。
「軍曹には何もないと思うわ。そのまま、隊に復帰できるようにする。まぁ、もっともサーリットからは雷が落ちるかも知れないけど」
言われて、バーガーはメイスンを見たが、上官は意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。どことなく恐ろしくなって、彼は目を伏せる。
ワゴンは高速を降りて、一般道路に入った。対向車のほとんどない夜の道路を走って、街の明かりが見えてくる。と、不意に香織が指示を出して、道路の脇に車を止めさせた。彼女は振り返ると、
「カリンさんとミレアさんとは、ここでお別れよ」
「え?」
驚いてミレアが問い返し、それに答えるような香織の言葉。
「シノハラの関係者を殺している以上、ミレアさんを連れて帰れば、裁判にかけなくてはいけなくなる。でも、それは私とサーリットの望むところではないのよ」
香織はそこで一息吸い込むと、
「上には逃がしてしまったと報告しておくわ。それでいいでしょ?」
「ありがとうございます」
ミレアは頭を下げ、カリンも無言で頭を下げた。二人はメイスンと香織、それぞれと別れの握手をすると車から降りた。
「少佐。自分もついていっていいでしょうか?」
バーガーの意を決した言葉。メイスンは黙ってそれを許可した。最後にバーガーが降りてワゴンのドアが閉められる。ワゴンが走り去り、夜の道路に消えてから、カリンが口を開いた。
「どうして、ついてきたの?」
問われて、バーガーはミレアを見やると、
「だって、ミレアを一人で放り出すわけにはいかないじゃないですか」
「そういうことね」
何かを含んだようなカリンの言葉だったが、バーガーは何も言わなかった。カリンは夜の道の向こうを見ると、
「でも、ミレアが大変なのはこれからなのよ」
「わかってます」
かすかに緊張した声でミレアは答えた。学園から解放されて自由にはなったものの、カワサキやシノハラに追われる身となったミレアの前途は決して明るくない。そのことはミレア自身が一番、理解していた。
バーガーの手の暖かみを、いつの間にか感じていた。
「大丈夫だよ」
力強いバーガーの言葉に、ミレアは伏せていた顔を上げた。
「もう一人じゃないんだ」
目の前のまっすぐな道。夜の闇に消えていく道。これからどうなるかわからないけど、ミレアは道を歩いていく決心をした。歩くしかない。
「大丈夫」
繰り返されるバーガーの言葉。
「俺が守るから……」
それが、ミレアの一番聞きたかった言葉だった。
The END
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