SWEET SILENCE
AIHARA Masami
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 窓にかかっているブラインドを何気なくずらして、僕は夜の外を見た。眼下に広がるいくつかのビルと、頭の上に伸びていく多数のビル。ビルの窓の明かりが闇の上の煌めきとなって、微妙な夜景を作っていた。
 下を見てから、上を見て僕は月に気づく。待ち伏せていた月に全てを見透かされているような気がして、僕は怯えるようにブラインドから指を抜いた。暑くもないのにシャツの第1ボタンと第2ボタンを外して、彼女に振り返る。
 ベットに腰掛けて彼女は珍しそうに周りを見回していた。大学の同級生だが、彼女が僕の部屋に来るのは初めてだった。彼女は一通り見回した後、僕の顔を見て、
「まぁまぁのセンスじゃない」
「ありがと」
 ほとんど心を込めないで僕は答えると、近くにあった椅子を引き寄せてそこに座った。僕の視線を受けとめながら彼女は立ち上がると、窓に向かってゆっくりと歩き始める。
「どれぐらい………あのこのセンスが混じってるの?」
 彼女の言葉の中の”あのこ”という単語が、僕の付き合って一年ばかしになる彼女の事をさしているのに僕はわずかの時間を掛けて気づいた。気づくの要した時間分、沈黙があって僕は答える。
「いや。こっちに来てからほとんどいじってないから………」
 答えを聞いているのかいないのか、彼女はブラインドをずらして外ばかり見ている。
「へぇ〜、けっこう、きれいね」
 彼女が下ばかり見ているのに気づいて、僕はなぜか安心していた。月を見上げないように無意識のうちに祈る。
 ブラインドを戻して彼女は僕の方を見やると、
「私を部屋に入れたってあのこにばれたら、怒られるんじゃないの?」
 訊く口調は、ほとんど他人事のようなだった。そんな彼女に対して僕も意地悪な笑みを浮かべて応戦する。
「そっちこそ、あいつにばれたら殺されるんじゃないのか?」
 笑いながら僕は立ち上がったが、彼女の表情は笑っていなかった。わずかに僕から視線を外して呟くように言う。
「殺されるほど……愛されてるかしら………」
「大丈夫か?」
 妙に深刻な彼女の口調に、僕は心の平衡がわずかに崩れるのを感じながら彼女に近づいた。なぜか、背中から近づいて彼女の両肩に手をのせる。
「大丈夫かって………なんでもないわよ」
「ふられたのか?」
 彼女を背中から抱きしめんばかりに僕は近づいたが、彼女はわずかに震えただけでそれ以上は何も動かなかった。
 雨が降り始めた。雨粒が窓を叩いて、こもった鋭い音が部屋に響く。
 雨の音が聞こえてきたとき、ごく自然に、ためらうことなく、僕はやわらかく彼女を背中から抱いていた。理由はわからない。どうしてそうしたか、わからない。まるで、彼女がそれを望んでいるかのように僕は背中から彼女を抱いたのだ。
 夜がゆっくりとねじれていく。激しく雨が降って、螺旋の夜を作っていく。
 彼女が振り向いた。僕の腕の中でゆっくりとした動作で振り向く。真っ直ぐな視線で見つめられて、僕はどうしていいのかわからなかった。ただ、心のままに言葉をつむぎだそうとして、それより早く彼女が呟く。
「言葉なら欲しくない………」
 唇の動きを止めた僕に彼女がさらに言う。
「暗くして………」
 言われるままに、僕は彼女を抱いたまま部屋の明かりを落とした。
 闇の中、激しい雨の音だけが聞こえてくる。激しい雨に打たれて、心を囲うモラルの壁が崩れそうになる。崩れてしまう。抱かれる彼女の灼ける肌の思いが、僕の心を激しく揺さぶって衝動だけにする。
 この一瞬だけかもしれないが………確かに、僕は彼女を愛している。僕は激しくそのことを感じ、それは彼女も同じだった。互いを待つ誰かがいるのに、確かに愛している人がいるのに、この一瞬はもてあますほど相手のことが愛しいのだ。
 そして、螺旋の夜の中で僕と彼女はそっと唇をあわせた。
 僕は最初、瞳を閉じていたがあのこの面影を思い出して目を開けた。彼女も同じく、瞳を開けたままキスをしている。お互いが互いを待つ一人を思い出さないように、瞳を閉じないキスをしていた。
 衝動が激しくなる。心の中が衝動だけになり、それが最後の壁を崩そうとする。今までの愛が薄れて、激しい肌の思いに支配されそうになる。そっと抱きしめる力を強くして、わずかにあがらう彼女の理性を無視する。
 唇をゆっくりと離した。何かを求めるように彼女の背中に手を這わせ、激しく抱きよせる。もう、理性なんて残っていなかった。今、この一瞬だけの衝動が僕だった。全てだった。
 抱きたい、愛したい、壊したい。
「いいの?」
 そっと囁くように彼女が訊く。声は小さかったが十分だった。僕の手の動きが止まる。心の中から全てが消える。
「心ならいらない………」
 彼女の耳元で血を吐くように僕は言う。だが、それ以上、僕は手を動かすことができなかった。抱きしめる力も弱くなる。
 激しく雨が降る。駆け出す心を止めることができたなら………。
 だが、僕は言えなかった。
 君以外いらない。
 その言葉を言うことがどうしても僕にはできなかった。抱きしめる力も弱まり、その言葉を言えない自分がだんだんみじめになっていく。激しい思いも弱まっていくが、どうしようもできなかった。
 君以外いらない。
 言ってしまったら、本気で求めたら、全てが壊れてしまうのだ。それだけの想いが僕にはなかった。そして、言いかけそうな僕を、彼女の瞳が静寂の海に沈めていくのだ。
「言葉なら欲しくない」
 同じ言葉をもう一度、彼女は言う。
「欲しいのは………」
 そこまで言って彼女は僕の体からそっと離れた。数歩、下がって僕の顔を見やる。わずかな、弱々しい笑みを浮かべると彼女は言ったのだ。
「………帰るね」
 背中を向ける彼女に僕は何も言えなかった。彼女が何を欲しているのか、よくわかっていた。僕が本気で求めたらそれをあげることができるということも、わかっていた。わかっているが、できなかった。
 言葉ナラ欲シクナイ。
 彼女の言葉がただ僕の心に虚ろに響く。バックをとり部屋から出ていこうとする彼女に気づいて、僕はほとんど反射的に声を掛けていた。
「待って………傘、もって行けよ」
「いい」
 答える彼女の顔はなぜか、笑っていた。
「雨に打たれたいの」
 そして、ドアが閉まって僕は一人になった。取り残されたような表情で僕は立ちつくしていたが、やがて、フッと笑みを浮かべると電話の受話器を取った。押し慣れた番号を押して相手が出るのを待つ。
 コール4回目であのこが出る。
「あぁ、俺………」
 
 
The END


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