Brain Memories
AIHARA Masami
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 午後の柔らかい陽ざしが喫茶店を包み込んでいた、土曜日の昼下がり。店の中はあまり混んでおらず、如月とその向かいに座る真希以外に客は2人しか居なかった。紅茶のカップを如月が唇から離すのを待っていたかのように、真希が静かに言う。
「別れて欲しいの………」
「………え?」
 あまり独創的ではない反応を示すと、如月はカップを持ったまま訊いた。
「どうして?」
「もう耐えられないのよ」
 彼女の言葉を聞いて時が止まったように如月は感じた。いつの間にか視線を下げて紅茶の琥珀色の液面を見ていたが、そんな自分の変化にも気づかない。
「あなたは私より仕事の方が大事なのよ」
「そ、そんなことは………だいたい、俺のことは、仕事のことは理解していてくれたんじゃないのか?」
「理解って………」
 どこか悲しそうに真希は顔を伏せたが、如月にはそんな彼女の様子は見えなかった。
「刑事って仕事で我慢はしていた。でも、そんなことじゃないのよ」
「じゃぁ………」
「あなたは私のことを愛していないのよ」
「そ………愛してるよ」
 だが、真希の心は変わらなかった。如月自身も妙に言葉がから滑りしていくのを感じながら、次の言葉をつむぎだそうとする。
「待てよ、真希」
「あなたの心に私はいない」
 それだけ言って、真希は立ち上がった。それでも、如月は何か………。
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ………
 そこで、如月は現実に引き戻された。
 カーテンの閉められた窓。闇の中であちこちで瞬いているダイオード。わずかに寝汗を吸ったシーツ。低いモータの稼働音。
 鳴っているのは、署からの呼び出しを告げるコール音だった。
 
 
 連中が休暇が欲しいって言ってるって? ドラッグでもやっておけ。
 
 
 

 
 
 そのマンションは、行政府の若手官僚や多国籍企業の20代のエリートが住むようななところだった。南区といえば、俺が住んでいる東区とは比べモノにならないほど治安がいい地区である。俺とは無縁の世界だ。
 玄関のスロットにIDカードを入れると、音も立てずにガラス戸は横にスライドした。中に入りエレベータのボタンを押す。程なくドアが開いて、俺は乗り込むと同時に目的の43階を押した。
 目指す部屋、4306号室の前は普段と違って物々しい雰囲気に包まれていた。さすがに、夜の12時をまわっているだけあって野次馬の姿はないものの、紺の制服を着た警官が何人も出入りしている。
 ドアの横に立っている警官が訝しげな視線で俺を見やる。黒のトレンチコートに安物のスーツという格好は、確かにこのマンションには不釣り合いな代物だった。それとも、ミラーシェードが俺を刑事らしく見せていないのだろうか?
 案の定、俺が部屋の中に入ろうとすると、警官はすぅっと体をスライドさせて俺の進路を阻んだ。
「電脳局第1捜査部2課の如月だ」
 警官が何かいう前に俺はIDカードを見せてそう言うと、警官の体を押しのけるようにして中にはいった。
 電脳局の組織体制が改変したのは最近の話だ。俺は昔、”AI対策部第2課”というところに所属していたのだが、改変によって第1捜査部2課に配属が変わった。もっとも、名前の前に付く長ったらしいものが変わっただけで、仕事の中身は何一つ変わっていないのだが………。
 マンションに負けず劣らず、部屋の中身も豪勢なモノだった。ソファーやらテーブルやらキッチンやら、どれをとってもいわゆる一流品といわれる代物であり、部屋の持ち主の羽振りの良さとエリート振りを見せつけていた。
「如月さんっ!」
 聞き覚えのある声に呼ばれて、俺は書斎から顔を出している若い刑事を見た。刑事は俺の顔を見てぺこりと頭を下げると、足早にこっちに向かって来る。
「お久しぶりです」
 牧村というのが、若い刑事の名前だった。行政府警察犯罪局刑事部の刑事で、前に犯人と撃ち合いになったとき俺が助けたことがあったのだ。以降、俺は機会があれば何かとなついてくるこいつの面倒を見ていた。
「久しぶりだな」
 社交辞令よりは感情を込めた挨拶を俺は返すと、
「で、被害者は?」
「こっちです」
 書斎に死体はあった。モニターとキーボード、いくつかの周辺機器と端末が据え付けられた机に体を預けて、椅子に座ったまま被害者は死んでいた。見た限りで外傷はなく、毛並みのいい絨毯にも血痕はない。きれいな死体だった。
「被害者の名前は、鈴木圭介。シノハラ・サイバネティックス社の金属4課、勤務。シノハラ総合大学経営学部卒ってありますから、バリバリのエリートですね」
 牧村が読み上げる被害者の経歴を聞きながら、俺は置かれたままの死体を見おろしていた。誰かがそうしたのかすでに瞳は閉じられており、そのせいか被害者の表情はやわらかい。というよりは、安らいだと表現してもいい表情を見せていた。
 そして、首の付け根の後ろにある端子にはその先がコンピューターにつながっているジャック=イン・コードがささっている。
「死亡推定時刻は、一昨日の夜です。2週間連続の無断欠勤を心配した同僚が部屋に来てみたところ部屋に人の居る反応はあるんですが、インターホンを押しても出てこない。そこで管理人に開けてもらったところ………というわけです」
「ずいぶんきれいな死体だな」
 俺は独り言のように言うと、
「死因は?」
「餓死です。正確には、衰弱死ですか」
「餓死ぃ!?」
 俺にしては似つかわしくない素っ頓狂な声を上げて訊き返したが、牧村はうなずくだけだった。スラム街の人間でも餓死なんてしようとしない限りなかなかできない時代にも関わらず、大企業の若手エリートが自宅で餓死とは………。
「本当か?」
「だから、衰弱死と言っているじゃないですか」
 慌てたように牧村が言う。
「まず、初めに精神が死に、ついで肉体がその後を追ったようです」
 その説明で俺は牧村が言ったことを理解した。
 ホワイト・アウト………。サイバースペースが誕生したことで生まれた、新たなる死の概念である。サイバースペースにジャック=インした精神は多大な情報的プレッシャーにさらされ、ジャック=イン平均12時間後から精神的な異常が発生する。18時間で意識が朦朧とし、24時間を経過すると精神は消え失せ肉体は植物人間状態になる………それが、ホワイト・アウトである。
 サイバースペースとは、コンピューターのネットワークが肥大化しカオス化していった結果、誕生した、”もう一つの世界”だ。膨大な情報のみで構成されたその世界に、人はジャック=インと呼ばれる手段を持ってその精神を投影していく。結果、キーボードやマウスをインターフェイスとして使うときとは比べものにならない程の大量の情報を、一度に扱うことができるのだ。
「じゃぁ、このマシンは違法ハードなのか?」
 ミラーシェードを人差し指でわずかに押し上げて俺が訊くと、牧村は首を横に振った。一般的に市販されているコンピューターには精神に影響を及ぼさないよう、ジャック=インして12時間たったら自動的にジャック=アウトするようになっている。だが、違法品にそんなサービス品はついていないのが普通だ。
「いえ、シノハラ・ハードウェアの最新機種です。ただ、強制ジャック=アウトのROMが書き換えられていました」
「書き換え?」
 鸚鵡返しに俺は訊き返すと、
「被害者がやったのか、ウイルスなのか………」
「ちょっとそこまではわかりませんが、被害者が脳をオンラインしていたときに死んだのは間違いありませんね」
 牧村の微妙な言い回し。わずかに俺は微笑むと、
「オンライン? ジャック=インしていないのか?」
「少なくとも、ここ2週間の電脳庁のジャック=イン記録の中に被害者のIDはありませんでした」
 その言葉は、被害者が自宅LANの中で作業をしていたことを示していた。ジャック=インは精神の全てをネットワークに没入してしまうが、オンラインは脳をいわばコンピューターに間貸しする形である。脳とコンピューターは接続され情報のやり取りをするが、意識は現実世界に残ったまま。それが”脳のオンライン”であり、意識もネットワークに行ってしまうジャック=インとの最大の差である。
「被害者を発見したときに走っていたソフトは?」
 窓から見える美しい東京の夜景を見ながらの俺の質問に、牧村は返答を窮した。ユーザーがホワイト・アウトしてしまうと、そのとき動いていたソフトは動きっぱなしになっているのが普通だ。
「それが、なかったんです」
「ないっ!?」
 思わず俺は声のオクターブをあげて訊きかえした。なにかしらソフトが動いていたはずなのに、それがないというのだ。牧村の異常の答えに俺は驚かずにはいられなかった。彼は俺の視線にもう一度、うなずくと、
「はい。消された………というか、何かのソフトが自己削除するときに他のソフトもまとめて消してしまったようなんです」
「サルベージは?」
 ソフトが削除されたときなんらかの痕跡が残るのが普通であり、その痕跡からどんなソフトだったのか復活できるのが普通だ。その削除ソフトを復活させることを、サルベージと呼んでいる。ちょうど、深海から宝物を引き上げるのに似ているからだ。
「今、鑑識がやってますがどうにもかんばしくないようです」
 牧村の言葉は見えない犯人が2重も3重も強敵であることを告げるだけだった。
「かなり丁寧に消したらしく、破片が集まるかどうかも………」
 最後までその言葉を聞かずに、俺は書斎を出た。居間も素通りして、入ってきたときと同じように玄関の警官を押しのけるようにして外に出る。違うところと言えば、俺の後ろに牧村がついてくるところだ。
 マンションのエレベーターホールまで戻って、俺は自動販売機にカードを差し込んだ。缶コーヒーと缶紅茶のボタンを押して取り出すと、俺は缶コーヒーを牧村に放る。神妙そうな顔つきで彼は受け取ると、ペコリと頭を下げた。
「現場の状態はわかった」
 俺は缶紅茶のプルタブを開けて、一口飲むと、
「だが、あれだったら事故死で片づけるのが普通だろう? どうして、うちに捜査依頼があったんだ?」
 鋭く刺すような俺の口調に、牧村は息をつくと肩をすくめた。
「別に隠すつもりはなかったんですよ」
 甘いコーヒーを飲む。
「ここ一ヶ月で同じ状況で5人が死んでいます」
 かなり真剣味を帯びた口調で牧村が言った言葉は、俺にしてみれば十分に刺激的な言葉だった。
「共通しているのは現場の状況と、長期間の無断欠勤、行政府もしくは多国籍企業の若手エリート………」
「最初は事故と処理していたが、ここまで頻発すると犯罪の可能性もあるか………」
「そういうわけです」
 牧村の言葉を継いだ俺の推測に、若い刑事は納得するようにうなずいた。紅茶をなめるように飲んで俺は唇を濡らすと、
「コンピューター、もしくはソフトの欠陥という可能性は?」
「ハード的な欠陥はないです。ソフト的な方は5件ともまともにサルベージできなかったので、なんとも………」
「その5件の調査書その他の資料、全てをこっちに送ってくれ」
「わかりました」
 牧村が答え手帳にメモする隙に、俺は紅茶を全て飲んだ。
「それと、この件の鑑識の一次報告書も出しだい早急に………」
 言うと、俺はごみ箱に向かって空き缶を投げた。放物線を描いて缶は飛んでいき、見事ごみ箱に飛び込む。その派手な音に俺は満足そうに笑みを浮かべたのだった。
 
 
 こいつはいいまでのとは違うぜ。本当にいい夢が見れるんだ。
 
 
 

 
 
 朝、俺は定刻よりも2時間ほど遅れてオフィスに入った。南区にある行政府警察ビル25階、電脳局第1捜査部2課のオフィス。昨夜、緊急呼び出しを受けているを知っているので、誰も俺の遅刻をとがめはしない。もっとも、刑事なんて仕事、定刻にオフィスに来ることなどあまりないのだが………。
 お世辞にも整理されているとは言えない俺のオフィスにはいると、俺はトレンチコートをコート掛けに掛け端末のスイッチを入れた。端末が立ち上がっている間に、紅茶を入れてモニターの前に座るのが俺の朝の日課だ。
 コンピューターからジャック=イン・コードを持ってきて首の後ろの付け根にある端子に差し込むと、俺は行政府警察のネットワークにログインした。俺がIDを入力すると、本人かどうかの照合のためにネットが脳波照合をおこなう。
 ピッ、短くビープ音がして俺はネットにログインした。
「おはようっ!」
 俺のログインを待っていたかのように、右手に置いてあるのモニターに少女が現れた。同時に、スピーカーから少し高めの少女の声が大きく響いてくる。15才ぐらいの可愛らしい少女………アシストAIの”アリス”である。
 アシストAIといってもアリスは”人間並みの知能と思考・感情を持つ”A級AIで、ちゃんと市民権も持っている。B級AIなら普段は眠らせておいて用のあるときだけ起こして使うということができるのだが、A級AIにそんなことをさせると精神崩壊を起こしてしまう。つまり、A級AIには人間と同じように”無駄な時間”が必要なのだ。
「よう」
 あまり気の入っていない返事を俺は返したが、アリスは気にしていないようだった。実をいえば、俺はこのAIがあんまり好きではなかった。前任者が置いていったAIをそのまま使っているのだが、はっきり言って俺の趣味ではなかった。できれば、自分でAIを組んで使いたいのだが、残念ながら時間がなく結局アリスを使っているのだ。
「メールが来てるよ。幸福ネットワークさん、シャリオン・プロダクツさん、犯罪局刑事部1課の牧村さん、ANKさん。以上だけど………」
「牧村からのメールを展開してくれ。あとは、削除していい。どうせ、ダイレクトメールだろう?」
「ん…と」
 牧村から以外のメールの中身を素早く検索してアリスは答える。
「そうね。概要を保存してメールは削除します」
「OK」
 と、答えながら、俺の意識は目の前のモニターに現れた牧村からのメールに集中していた。牧村が言っていた類似性の高い今月の5件の事件の調書と、周辺資料。俺はざっと目を通すと、どこかに行こうとするアリスに声を掛けた。
「アリス。この5件の事件から共通項目を出して、それに該当する事件を………そうだなぁ〜、6カ月以内で検索してくれ」
「ふぇ〜ん。めんどくさいよぉ〜」
 文句を言いながら、アリスは仕事を始めていた。事件から共通項目の抽出するのはすぐに終わる。その項目を元に共通性のある事件をデータベースから検索するのが、骨の折れる作業だった。
 2分ほどでアリスは戻ってきた。
「引っかかったのは、全部で8件」
「被害者の一覧表を出してくれ」
 画面に展開していた牧村からのメールが消えて、かわりに表が現れる。被害者の名前や年齢、勤め先などをまとめた表が現れる。
「全員、行政府か企業の若手のエリートか………」
 俺は呟き、紅茶のカップを口に付けた。香りを少し楽しんで口に含みのどを潤す。
「共通項をリストアップしてくれ」
 今度も一瞬で作業は終わる。細かいところから共通項はいくつかあったが、俺の興味を引いたのは”ヤング精神衛生研究所に会員権があり”という項目だった。
 続けて、俺はアリスにヤング精神衛生研究所について調べさせたが、マシな情報は上がってこなかった。いくつかのデータベースに医療法人として名前を乗せているだけで、場所と連絡先以外の情報はない。
 だが、そのことが俺の次の行動を決定づけさせるに十分な情報だった。
 
 
 東京の地下は開発されて尽くされているようで、実はそうではなかった。大戦前の地下鉄や地下街、大きな駅の地下構内などの一部は封鎖されただけで、実際は取り壊されも再開発もされていないのだ。
 当然、そこには名実ともに暗黒街が形成される。技術者を統率するグループが水や電気を盗んできて、封鎖地下街に電気を通す。やがて、そこは独特のルールが支配するもう一つの無法地帯となった。
 地上の東区と対になって表現される世界、”モグラ街”である。
 モグラ街の一角に、俺の姿はあった。薄く明かりがともっている通路を歩いて、俺は男が一人、見張りに立っているドアの前で立ち止まる。繁華街の一つから少し離れたところで、地上の騒々しさも地下の騒がしさもここまでは届かない。ときおり、チューブの唸る音が聞こえてくるくらいだ。
「バルザックに会いたい」
 俺は不意に、ぶっきらぼうな口調でドアの前の男に告げた。鋲を打った黒の皮ジャンを着た男は、胡散臭そうな顔つきで俺を見ている。
「名前は?」
「如月が来た、と伝えてくれ」
 俺のミラーシェードに写る自分の姿を見ながら、男はドアのそばにあるインターフォンを取った。男にバルザックへの面会権を与えるか否かの権限はなく、たぶん、ただの見張りなのだろう。二つ三つ言葉のやり取りをすると、男は振り返った。
「どうぞ」
 ぶっきらぼうな言葉と同時に、ドアが開き俺は中に入った。中は短い通路ですぐにドアがある。そして、そのドアの向こうがバルザックのオフィスだった。
 初めてバルザックを見た人間は、その異形の姿に驚かずにはいられないだろう。なぜなら、彼の姿はほとんど機械と同化しているからだ。サイボーグというレベルではない。はっきりとはわかるのは二重顎の顔とでっぷりと太った腹だけで、あとは背面の壁の機械の中だ。
 真の意味のハッカーで、サイバースペースの申し子が彼だった。彼の脳は24時間、一瞬の隙もなくオンラインし続けているのだ。さらにサイバースペースを駆けめぐるかわりに、彼の肉体はこの部屋から一歩も出ることはない。というより、出ることはできない。彼の肉体とコンピューターを結ぶ無数のコードを外すことは不可能なのである。
 バルザックの裏社会での役割は、モグラ街の一部の運営と情報屋だった。彼には他のハッカー達から見れば無数としか思えないネットワークを持っており、そのネットワークを駆使すれば手に入らない情報は存在しないとまで言われているのだ。
「やぁ、刑事さん。久しぶりだね」
 にやにやとした笑いを浮かべながら、バルザックが言う。俺は嫌悪感を表に出さないよう努力しながら、ミラーシェード越しにバルザックを見やると、
「社交辞令はいい。二つ情報が欲しい」
 真剣な口調で俺は言っているのだが、バルザックのにやにや笑いは止まらなかった。
「なに?」
 太っているせいで妙に高い声が、少年のような口調と微妙なバランスを保っている。
「一つは、”ヤング精神衛生研究所”に関する事柄をなんでもいいから集めて欲しい。二つめは………」
 言いながら、俺は懐からディスクを取り出した。右手に持ってディスクをバルザックに見せると、部屋の隅にいた男がそのディスクを受け取った。男の手によってディスクがスロットに入れられる。
「中身は、ある事件で警察の鑑識が可能な限りサルベージしたモノだ。その中身をお前の手でできるだけ再現してもらいたい」
 ディスクの中身は、鈴木圭介の部屋のコンピューターからサルベージしたモノだった。出かけるちょっと前に、牧村が送ってきたモノをそのままディスクに入れてきたのだ。
「完全には無理だけど………中身の推測ぐらいはできるね」
「そんなもんでいい」
「報酬は………」
 視線を少しだけ上に動かして何かを考えてる様子のバルザック。彼を制するように俺は言った。
「金だったら、いつもの口座から………」
「今月の交通警察の配備状況を教えてくれない?」
 バルザックの言葉に俺はちょっとだけ驚いた。そんなこと、バルザックだったら自分で容易に調べることができるはずだからだ。
「そんなこと自分で調べたらどうなんだ?」
「だから、調べてるじゃん」
 バルザックの言うところはもっともだった。
「OK。毎週月曜にお前のメールボックスに放り込んでおく。3回。それでいいか?」
「契約成立」
 言って笑みを浮かべるバルザックを見て、俺も笑みを浮かべていた。結果的に俺は交通警察の機密資料を流す約束したわけだが、そのことについての罪悪感は一切無かった。
 
 
 マジだってっ! マジにいい夢を見ちゃうんだよ。
 
 
 

 
 
 ”行政府法人監督局”に登録されているとおりの場所に、ヤング精神衛生研究所はあった。西区の一角にある広大な公園を思わせる緑豊かな敷地の中に、白い3階建ての建物。それが、ヤング精神衛生研究所だった。
 ”行政府警察電脳局”と書かれたIDカードの力で俺は警備員が3名もいる正門を通過すると、緑に囲まれたアスファルトの道を歩いていった。東京の中にあるとは思えないほど緑豊かな木々や花が多く、ここがメガ=シティの中であることを忘れてしまいそうになるほどだ。
 ミラーシェードをかけたまま俺は建物の中に入っていき、受付を探そうとした。だが、その努力はすぐに必要ないと知る。
「如月さんですか?」
 すぐに俺は男達に囲まれたのだ。細身の男が俺の目の前に立ち、その両脇に鍛えられた筋肉をスーツに隠した男が二人。
「当研究所の渉外担当部長の早瀬です」
 わずかに頭を下げると、細身の男は言葉とともに名刺を出した。俺は名刺を受け取るとそれを一瞥する。俺がポケットに名刺をしまうのを確認すると、早瀬は、
「御用件は何でしょうか? 刑事さん」
 考える時間をごまかすように、俺はミラーシェードを外すと早瀬を見た。何ごともないように早瀬はわずかな笑みを浮かべて、俺を見ている。わずかな間の後に俺は脳の増設メモリから13人の名前を引っぱり出してきて、それを口頭で早瀬に伝えた。
「この13人の治療データを見せてもらいたい」
「もう一度、お願いできますか? 今、メモを取りますので………」
 早瀬の言葉に俺は名前を一つも言うことなく、スーツの内ポケットからディスクを一枚取り出した。やけに人工臭い光を反射して、ディスクの面が虹色に光る。
「こいつにいま言った16人分のパーソナル・データが入っている」
「ご存じかと思いますけど………」
 言いながら、早瀬はオールバックの髪を両手で撫で上げた。
「個人情報管理法により、医療業務をおこなう企業が所有する個人情報の他企業への公開は著しく規制されています。裁判所の令状がない以上、相手が警察でもこの条項を適用しなくてはいけません。それでも、よろしいですか?」
「あぁ、かまわない」
 俺は答えると、早瀬はディスクを持って奥に引っ込んだ。早瀬の考えるところは明白すぎた。個人情報管理法を盾に16人の治療データを空白にして、俺に渡す気なのだろう。普通だったらいくら法律がそのように言っていても、警察に対する受けをよくするためにそれなりに情報を出すはずだ。ということは、いきなり核心を突いてしまったのかもしれない。
 すぐに早瀬は戻ってきた。
「公開できる範囲で情報を入れておきました」
「ありがとう」
 ほとんどおざなりといっても過言ではない口調で俺は答えると、ディスクを内ポケットにしまった。
「以上でよろしいでしょうか?」
「できれば、彼らを治療していた医者に会いたいのだが………」
「フレイズッ!」
 名前を呼ばれて早瀬の左側に立っていた男が、一歩だけ前に踏み出した。
「お帰りになるそうだ。お送りして………」
「結構だ」
 冷たく言い放つと、俺は早瀬に背を向けて建物を出た。一瞬、抵抗するかどうか迷ったのだが、ここでダダをこねたところで早瀬という男より上には行かないだろう。脆く見えてもここのガードは意外と堅い。
 そう判断した俺は、素直に研究所の建物を出た。数分前に上ってきたアスファルトを俺は下っていく。
 正門から女が上がってくるのが見えて、俺はわずかに体を左にずらした。その拍子にずれたミラーシェードをあげようとした右手の動作が、足と同時に止まる。俺が女の正体に気づくのと同時に、向こうも俺のことに気づいたのだろう。驚きの表情で彼女は唇をゆっくりと動かしたのだ。
「さ……聡?」
「真希か?」
 俺の問いかけに女、真希はこっくりとうなずいた。
「こんなところで会うなんて………ひさしぶりね」
 どこか弱々しく真希が微笑むのを見て、それにあわせるように俺も薄く微笑んだ。出てきたばかりの白い建物を見やってから俺は真希を見ると、
「ここで働いているのか?」
「そうよ。聡はあいかわらず?」
「あぁ」
 うなずいてから、俺は一つのことを思いついた。思いついたままに言葉にする。
「良かったら、これから会って話せないか?」
 いきなりの俺の申し出に真希は戸惑っている様子だった。驚きを隠せない表情を俺のミラーシェードにうつす。
「どうしたの?………別にいいけど………」
 俺の視界の右隅に常時、瞬いている時間表示を確認する。
「昼休み………でも、いいか?」
「いいわ。じゃぁ………」
 視線をミラーシェードから外し真希は考えると、
「正門を出て少し歩いたところに、モリシーって喫茶店があるの。そこで待ってて。もう少ししたら行くから………」
「OK」
 答える声を聞いて、真希がわずかに迷惑そうな表情を見せたが、そのことに関して俺は深く追求することはしなかった。
 
 
 モリシーは緑が多く紅茶もうまいいい喫茶店だったが、今の俺にその良さを堪能する精神的余裕はなかった。車から持ってきた携帯用ドライブと脳をコードで接続して早瀬からもらったディスクを見ていても、なぜか心を占める妙なざわめきをおさめることはできなかった。
 カランという店のドアにつけられているベルの音と、店員の「いらっしゃいませ」という声に俺は反射的に顔を上げた。店に入ってきたのが真希であることを知ると、俺は素早くコードを抜きドライブをテーブルの脇にやる。ディスクをポケットにしまう頃に、真希が俺の目の前に座った。
 真希が店員にコーヒーを頼み終わるのを待って、俺はミラーシェードを外した。片手の一動作でたたみ胸ポケットにさすと、
「ちょうど一年か?」
「一年よりたってるわよ」
 女らしい細かさで答えると、真希はハンドバックから煙草を取り出した。
「話ってなに?」
「あの研究所の情報が欲しい………」
 俺の言葉に真希はさほど驚かなかった様子だった。ゆっくりとした動作でハンドバックからライターを出し、口にくわえた煙草の先に火をつける。煙を吸い込み吐き出すと同時に、彼女は言葉も吐き出した。
「うちの女の子に聞いたわ。あの人……早瀬部長のところに刑事が来たって………」
「あそこの会員が13人、死んでいる。あの早瀬って奴に治療データをよこすよう言ったんだが、返ってきたのは空のディスクだ」
 言って、俺はポケットに閉まったディスクを真希に見せた。何の感動もしなかったような視線で真希はそのディスクを見ると、
「つまり、その13人の治療データが欲しいってわけ?」
「それもそうなんだが、それ以上にあそこの研究所のデータが欲しい」
「私はあそこでコンピュータ処理の統括をやっているから、あなたの頼みは聞けないこともないわ」
「報酬は払う」
「待って」
 わずかに慌てた口調で真希は言うと、
「誰もやるとは言ってないわよ」
「報酬だったら出すのは俺じゃない。俺の給料額を考慮しなくてもいいんだぞ」
 俺としては少しの気の利いたジョークを言ったつもりだったのだが、真希に感銘を与えることはなかった。わざとと思えるほどの大きなため息をつくと真希は、俺の顔を真っ直ぐに見て言ったのだ。
「そんなことじゃないわよ」
 彼女はわずかに視線をずらす。
「………そういえば、前もそうだったわね。私があの時あなたに協力した理由を、あなたはきっと永遠にわからないんでしょうけど………」
 真希が、数年前、俺に捜査の協力をしたときのことを言っているのはすぐにわかった。数年前、彼女は2課がある事件で内偵をすすめていた会社の社長の秘書だった。俺は友人だった彼女に会社情報のリークを求め、彼女はそれに応じ2課は多額の情報提供料を支払った。そして、それをきっかけに俺と彼女の関係は友人以上のものになったのだ。
「どういう意味だ?」
 少し刺の含まれた俺の言葉に真希は応えず、
「憶えてる? あなたの心に私はいない、っていう私の言葉………」
「あぁ」
 うつむき加減に答える俺を見ながら、真希は立ち上がった。
「今回は協力しないわ。あなた、変わってないんだもん」
 去っていく真希の背中に俺は何も言えなかった。言葉を失ったかのように押し黙ってうつむくだけだ。あの時の真希の言葉が、心に虚ろに響く。
 あなたの心に私はいない………。
 愛しているという言葉を信じてもらえなかったのだろうか? それとも、俺は本当に愛していたのだろうか?
 心にベルが響く。体内にインプラントしてある電話が俺を呼んだのだ。電話を取るよう意識すると、俺の脳に直接、男の声。
 低い声だった。
 
 
 最高の快楽? ”望んだ夢”に決まってるだろ?
 
 
 

 
 
 根本的にジャック=インという行為は恐怖感を伴うものだ。
 コードを首の付け根にある端子に差し込み、ソフトを走らせる。意識が吸引される感覚があって、視界が真っ暗になる。原始の時代でも人間が体験していないような真の闇。
 続いて、精神を揺さぶるのはゆっくりとゲルの中を落ちていくような感覚だ。学者の何人かは「感覚のデジタル化に伴う精神的痛み」なんて説明しているが、やってる当事者にしてみればそんな理屈は関係ない。闇の中を落下するというのは、人間の根本的な恐怖である「死」を刺激する。
 喫茶店モリシーで俺の元にやってきたのは、一人からやってきた2つの知らせだった。知らせてきたのは、バルザックの代理人。顔見知りの男だ。
 一つは、鈴木のコンピューターからサルベージしたソフトの断片に関する情報だった。「推測ではあるが」の注釈付きのバルザックの報告は、俺の興味を引くに十分なモノだった。
 その報告によれば、サルベージしたソフトはジャック=インしている人間の脳のいくつかのシナプスを集中的に刺激するというのだ。その刺激が何をもたらすかはわからないとあるが、どちらにしろ特定のシナプスを集中的に刺激するようなソフトを作るのは電脳庁の認可が必要である。もし、ヤング精神衛生研究所で作られたとしたら電脳庁の認可を受けていないので犯罪になる。
 二つめは、そのヤング精神衛生研究所に関するレポートだった。ざっとそのレポートを見た俺の興味を引いたのは、藤宮総業という会社だった。藤宮総業は研究所とは何の関係もない会社なのだが、なぜかデータのやり取りが活発なのだ。しかも、そのやり取りは巧妙にカムフラージュされている。
 外見は何の関係もない会社なのだが、巧妙に隠された大量のデータ流通がある。
 俺はその藤宮総業という会社にあたりをつけた。判断材料に勘という奴がかなり含まれているが、捜査の手を付けるにはいいところだろう。バルザックのレポートにあった藤宮総業のネット・アドレスに、俺は一気にジャンプした。
「すごいセキュリティだよ」
 恐怖心をにじませた口調でアリスが言う。
 藤宮総業のイメージは、2、3階建ての光輝くビルだった。ビルの規模は会社の社内ネットワーク(LAN)の規模を表しており、多国籍企業や行政府の官庁ともなれば巨大ビルの複合体で表される。
 ネットの周りを一周して、セキュリティをざっと走査する。アリスの言うとおり、ネットの規模にしては厳重なセキュリティだった。ちょっとやそっとでは破れそうもない。そして、こういう小規模な割にセキュリティの厳しいネットは「あやしい」と相場が決まっていた。
「あたりだな」
 独り言のように俺は言うと、
「アリス、”アセンブリ・ブレーカー”」
 俺の言葉に従って、アリスが俺のコンピューターから”アセンブリ・ブレーカー”を持ってきた。セキュリティを破壊するウイルスのようなソフトであり、サイバースペース上では光輝く球体で表されている。
 アリスの手から俺の手に移され、さらに俺は即席で一部のコードを状況に即して書き直す。アセンブリして、俺は球体をビルに素早く近づけていった。
 抵抗はほとんど一瞬だった。波紋のようにビルの壁が歪み、俺の手とともに球体はゆっくりとビルに飲み込まれていく。球体が全てビルの中に入ったのを確認すると、俺は手を素早くだが慎重に引き抜いた。
 壁の一点に黒が生まれ、それが周りの壁を浸食していく。浸食は徐々にだが確実に壁に広がっていき、それは人一人が通るには十分な大きさになったところで止まった。俺は頭を下げて穴をくぐると、セキュリティを騙すためのソフトを置く。これで、俺とアリス以外の人間が見ても壁には何の異常もないように見えるはずだ。
 慎重に内部を探索する。藤宮総業は電子部品を中心とした小さな会社と資料にはあったが、ネットのセキュリティはその資料とは不相応なものだった。張り巡らされているセンサーに、歩き回っているセキュリティ。ちょっとでもおかしな動きをしたら察知されて、俺は脳みそをかけて逃げなくてはいけなくなるだろう。
 それでも、俺は巧妙にセキュリティを騙しながら、いくつかのデータベースにアクセスしデータを盗み出していた。3つめのデータベースからデータを吸い出し、次に藤宮総業とヤング精神衛生研究所のアクセスポイントに監視ソフトを置こうとし移動を始める。
 その彼を認識できたのは、ほとんど一瞬だった。いや、本当に”彼”だったかどうかもわからない。電脳法で禁止されているものの、サイバースペース上で個人の外見を偽るなど造作もないことだからだ。ただ、瞬間、俺の目に映ったその影は男だったということだけは確かだ。
 影を認識した次の瞬間、俺の周囲の世界はカオスに落とされた。冷たい障壁、トラフィックの流れ、高度の情報密度により発生する光、風邪のように吹き抜ける2値情報。情報を象徴する様々なものが一瞬で溶けあい、虹色を形成し混沌のみを俺に与える。
「どうしたの?」
 軟らかい女の声で俺は目覚めた。汚れた大気により濁った朝日が差し込む俺の部屋。ベットの上で俺は上半身だけ起こしていた。素肌の上にタオルケットと一枚の毛布。そこでようやく、ベットのそばの椅子の上に真希が居ることに俺は気づいた。
「なんか、ずいぶんうなされていたみたいだったけど………」
「いや………」
 真希の優しい声に俺は頭を抱えた。妙に汗ばんでいる髪をかき上げ、目頭を揉む。
「嫌な夢を見た。俺は刑事で………」
 本当に夢なのか? 奇妙なすれ違いが俺の心でわずかな軋みをあげる。
「真希にふられていて、それは俺の仕事が原因で………」
「ふ〜ん、それで?」
 興味深げな表情で真希が俺の顔を覗き込む。眉間にしわが寄っている表情を隠そうともしないまま俺は顔を上げると、彼女の顔を真っ直ぐに見た。
 おかしい………だが、なにがおかしいのか、俺にはわからなかった。
「犯人を追っていて、そいつは悪い奴で………」
 頭が痛い。手を突っ込まれて脳みそを直接、かき回されている感じだ。汗が吹き出て、俺は妙な気持ち悪さを感じていた。シャワーを浴びたい、だが、おかしい。なにかが、おかしい。なんだ、この世界は………俺は………。
 俺は真っ直ぐに真希を見据えた。微笑みを浮かべたまま彼女が俺を見返す。
「お前は誰だ?」
 その言葉は俺の意志とは無関係のように思えた。真希が驚いた表情で俺の瞳を見る。その彼女の仕草、一つ一つが妙にリアルで、それがフィクションに思えて仕方がない理由だった。
「私は真希よ。何、言ってんのよ………」
 だが、すでに俺はほとんどその言葉を信じていなかった。
「いや、違うこの世界は………」
 ゆっくりと、真希の顔が歪み始める。色彩があやふやになって虹色になっていく。一度崩れ始めたら、世界が崩壊していくのは早かった。ベットも、真希の胸も、本棚も、すべてが溶けて虹色のカオスに消えていく。
「強制ジャック=アウトします」
 その少女の声は、まるで神々の高みから聞こえてきたようだった。そして、その声がアリスのモノであることに俺は不意に気づく。
 現実は一瞬で戻ってきた。目を開くと、そこはいつもの見慣れたオフィス。首の付け根から強制的に外されたジャック=イン・コードが、鱗のない蛇のように床の上でとぐろを巻いていた。
 どこまでが現実だったのか曖昧になりそうな意識の中で、俺は「今が現実だ」と強く無意識のうちに言い聞かせていた。汗でシャツが肌に貼りついているが、不思議と気持ち悪さは感じない。むしろ、その気持ち悪さが現実であることを示しているようで心地よかった。
「脳内レベル第2位までの侵入を確認しましたので、強制ジャック=アウト処理をしました」
 モニターに写るアリスの事務的な声は、しばらくぶりに聞いたような気がした。冷たい飲み物を求めて視線をさまよわせながら、俺ははっきりとした口調で訊く。
「なにがあった?」
「藤宮総業のネットを探索中に脳への侵入を受けました。ログが破壊されているため不明ですが、何者かが侵入の糸口を作りソフトウェアを侵入させた模様です」
「それで?」
 ポットからいい加減ぬるくなっている水をコップに注いで、俺はそれを一気に飲み干した。
「ソフトウェアはほとんど一瞬で脳障壁を破壊、脳内レベル2位に侵入しました。侵入と同時に脳波活動が低下。そこで、私が強制ジャック=アウトさせましたが………」
 事務的な口調はそこまでだった。
「ダメだった?」
 不安げな少女の口調で言われて、俺は首を横に振った。アリスの口調に負けたわけではない。彼女の反応は正しかったのだ。あそこで強制ジャック=アウトしなかったら、俺の脳はそのソフトウェアにぐちゃぐちゃにかき回されていただろう。
 脳内レベルとは”脳の深さ”のことであり、レベル2位は”記憶層”を意味している。侵入直後の俺の脳波記録は、”俺が夢を見ている”ことを示していた。つまり、俺に侵入したソフトウェアは記憶をいじり回して俺に夢を見させたのだ。
「くそっ!」
 俺は昔から伝わる怒りを意味する単語を口から吐き出すと、机を叩いた。震動でモニターが揺れるが気にしない。
「脳にソフトウェアの影響が残っている可能性があります。医療部で検査をして下さい。あと、今回のログを医療部にメールします」
 だが、俺はほとんどアリスの言葉を聞いていなかった。上着を羽織り、ホルスターの中の銃を確かめる。
 藤宮総業がどこにあるかはもうチェックしていた。
 
 
 エンドルフィンで、ドラッグは決まりだね。
 
 
 

 
 
 南区にある港湾倉庫群の近くは、妖しげな会社が多く集まる街区である。一攫千金を狙うソフトウェアのベンチャー企業や、多重債務者にも平気で金を貸す金融屋、その金融屋の取り立てをやっている3流ヤクザ………。東京経済の底辺を生きる者達が集まる街に、藤宮総業はあった。
 法人監督局に登録されているとおりのアドレス、汚い雑居ビルの3階だ。俺は看板が取れかかったビルの前に車を置くと、200メートル先にあるその雑居ビルを見やった。
 ミラーシェード越しに周囲を観察する。行政府警察のパトロール範囲外にある街なのだが、街の性格上、治安は微妙な力関係の上に成り立っているようだった。じっとをこっちを観察している男や女が何人かいるが、それも車や金を狙っているという目じゃない。新参者を見極めようと観察する目だ。
 だが、俺はその目のほとんどを意識することなく藤宮総業のビルを見つめていた。ミラーシェード越しにビルを見つめながら、車の警戒装置を作動させる。俺以外の人間……正確に言うと、俺の持つ認識カードを持たない人間並みの熱源が近づいてきたら、高圧電流を車体に流す仕組みになっている。
「藤宮総業の入っているビルの警備システムを確認しました」
 インプラントしている電話を通して、アリスの報告する声が俺の脳に直接、響く。
「これより内部に入るのを支援するためダミー情報を流します」
 開けっ放しのドアの上にカメラが目立たないようにつけてあるが、俺はほとんど意識しないでビルの中に入った。カメラは動いてレンズの中に俺の姿をずっと捉えているはずだが、アリスがダミー情報をカメラ回線に乗せているから画面には異常がないように写っているはずだ。
 短い廊下を歩き一階に入っている妖しげな金融業者には目もくれずに、俺は階段を上がり始めた。2階をパスし3階へ。短い廊下を歩いて、俺は曇りガラスに”藤宮総業”と書かれているドアノブに手をかけた。
「ドア向こうに人は居ません」
 警備システムを利用したアリスの情報収集。俺はサイバースペースの彼女の報告を受けると、ゆっくりとノブを回しわずかな隙間を作ってそこに滑り込むように中に入った。再び短い廊下。左右にドアが何枚かついているが、どのドアからも人の気配はしない。この階、全体が死んでいるような印象を受ける。
「コンピューターが集中している部屋は、右手2枚目のドアの部屋です」
「この階の図面は取得したのか?」
 音を立てないように気を付けながら、俺はアリスの言うドアに向かった。
「転送しますか?」
「あぁ」
 スッと視界の右下隅にこの階の図面が現れた。アリスが警備システムの中から吸い出したものだ。すでにこのビルの警備システムはアリスのモノになっているが、ダミー情報のおかげで見た目には異常がないようになっている。俺がドジを踏まなければ、まず警備システムのことは気づかれない。
 ドアノブに手をかけ、隙間から中の様子をうかがう。端末やモニターがいくつか置かれていて、この会社の情報処理を一手に引き受けているような感じだった。女性が一人ドアに背を向けてモニターに向かってキーボードを叩いているが、こちらに気づいている様子はない。
 静かにドアを開け滑り込み、音を立てずにドアを閉める。俺は素早く移動すると座ったままの女性の後頭部に銃を突きつけた。後頭部に冷たいモノを突きつけられて、彼女は初めてこの部屋に二人目が居ることに気づいたのだろう。声も出さずに固まってしまう。
「何かあったらすぐにトリガーを引く」
 ミラーシェード越しにモニターを見つめながら、無機質な口調で俺は言う。お決まりな台詞を吐いてから、俺は目の前の女が真希であることに気づいた。真希も脅しているのが誰かであることに、声で気づいたのだろう。
「昔の恋人を脅す気?」
 妙にリラックスした口調で真希は言う。
「脅している気はない。ただ、質問に答えて欲しい」
 平静を保っているように聞こえるよう俺は言ったつもりだったが、実際にどうだったかはわからない。実際問題として俺はここに真希が居ることに動揺しているからだ。
「質問って、なに?」
「ここで何をしているんだ?」
「ソフトウェアの開発よ」
 すまして答える真希の声は俺の勘に触ったが、俺は動揺を見せんとするに精いっぱいだった。
「どんな?」
「それは答えられないわ」
「だったら、何かはこっちで判断するからそのソフトウェアとやらをよこせ」
「あら」
 意外そうな声を上げながら振り返る真希に、俺はほとんど無意識のうちに一歩、後ろに下がっていた。銃口が動いていないのがせめてもの救いだろう。
「令状はあるの? 私としては家宅不法侵入で研究所が訴えないうちに、帰って欲しいんだけど……」
「ここに来る前、俺はここにサイバースペース上から侵入してみた」
 俺の言葉に真希はハッとした表情を見せた。
「いくつかのデータベースを探っているうちに、誰かに脳に手を突っ込まれて記憶を触られた」
「なに、それ?」
 真希の口調には嫌悪感すらあったが、俺は気にしていなかった。
「記憶を探られて、強制的に夢を見せられた。お前の夢だった。俺はその夢で忘れたつもりの感情を思い出して……」
「夢って……」
 真希の口調は夢遊病者のそれと同じだった。
「誰かが”DF”でも使ったの、でも……」
「”DF”ってのは、なんだ?」
 正確な俺の指摘と、真希のしまったと驚きの入り交じった表情と、ドアが開いたのはほとんど同時だった。
 振り返りざまに銃口を向けようとする俺の動作は、
「動くな」
 という、非個性的な男の声によって遮られた。顔と視線だけを動かして戸口に立っている男を見る。早瀬だった。細面にオールバックの髪。銃口を正確に俺に向けながら、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。
「今日は筋肉の連れはいないのか?」
 まだ、皮肉を言うだけの余裕が俺にはあったらしい。早瀬は薄い笑みを浮かべると、
「必要のない時は連れませんよ」
 キーボードのそばに立つと、彼は画面を見ずにいくつかのキーを叩いた。モニターを見ていた真希がハッと息を呑んだのが俺に伝わってきたが、何が起きているのかはわからない。
「暴力は嫌いなんですよ」
「じゃぁ、どうしてそんなもので俺を脅しているんだ?」
「必要だからですよ」
 意外と早瀬の答えはつまらなかった。銃を突きつけられているのに表情を変えない俺が意外なのか、早瀬の態度にはいらだちが見えている。演劇がかった動作でコンピューターから伸びているコードを一本、取る早瀬。それは、ジャック=イン・コードと呼ばれているものだった。
「”DF”っていうのは、なんだ?」
 一瞬だけ早瀬の表情が変わった。彼も俺と同じように”感情を表情に出さない訓練”を積んでいるようだったが、それでも制御できない部分がある。
「それを死んだ13人に渡していたのか?」
 何も答えないため、電子臭がする部屋には俺の声だけが響いていた。早瀬は何も答えないが、仮面の剥がれた表情と態度が核心を突いているという事実を伝えていた。
「死んだ鈴木圭介のコンピュータの中には、シナプスを直接、制御するようなソフトがあった。それが”DF”なのか? だとしたら、お前のところの研究所は電脳庁の認可を受けていたか?」
「け、刑事さん。”DF”という奴には聞き覚えがないんですが……」
「説明してやれよ、真希」
「さ、聡……」
 突然の言葉に真希はパニックになったように立ち上がると、俺のミラーシェードに鋭い視線を突き立てた。その視線を俺が冷たい表情で受けている。
「ま…真希?」
 妙な馴れ馴れしさが早瀬の言葉にはあった。震える早瀬の言葉に真希は何も答えることができない。”DF”という単語を漏らしてしまったのは、彼女の責任なのだ。
「早瀬さん」
 抑揚のない冷たい俺の声に、早瀬の体が冷水に打たれたように震えた。
「行政府警察電脳局まで来てもらえますか? 任意っていうことで……」
 その時、無意識のうちにでも早瀬から視線をそらしていたのは俺のミスだった。彼はもてあそんでいたコードをしっかりとつかむと、俺の首の付け根の後ろに突き刺そうと振りかざしたのだ。気づいたときには遅く、抵抗する間もなく俺のジャック=イン・端子に奴の持つジャック=イン・コードが突きささる。
 感じたのは衝撃だった。体が大きくビクンと震えて、見たくもない天井を見る。意識の向こう、俺の意識を包み込む宇宙の果てから巨大な手がやってくるような気配がして、俺は本能的に体を固くした。
 巨大な手が俺の意識を包もうとする。その手は”やすらぎ”を意識させ、”母親の膝枕のような優しさ”をイメージさせたが、なぜか俺は恐怖していた。力が抜けて膝が床につく。だが、俺はその手から抵抗するのに一所懸命だった。
 意識が薄れていく。水性インクの文字に水を一滴、一滴垂らしていくように、俺は意識が薄れていくのをはっきりと意識していた。手と足の感覚が無くなっていく。
 いつの間にか俺は床に倒れ込んでいたが、いつ倒れたのかはわからなかった。息が荒くなっている。手が動かない。胎児のように丸まろうとしている。もう、瞳には何もうつっていない。
 冷たい床の触覚すらも、消えてしまいそうに、な…り……
 
 
 夢を見ましょう。素晴らしい夢を……
 
 
 

 
 
 俺は喫茶店の椅子に座っていた。柔らかい日ざしを受けた花をゆっくりと眺めながらお茶を飲むことができる、窓際の席。テーブルを挟んで向かいには真希が座っていて、笑みを浮かべて俺を見ている。テーブルの上には二つのカップ。
「どうしたの? ぼぉ〜としちゃって?」
「……あ、ここは?」
「なに言ってんのっ!?」
 わずかに驚きの口調を混ぜて真希は言うと、
「この喫茶店のブルーマウンテンが飲みたいっていったの、聡じゃない?」
 言われて、俺はここが二人でよく来ている喫茶店であることを思い出した。今日は休みで俺はここのコーヒーが飲みたくなって、二人でビデオが見たいという真希を連れ出してやってきたのだ。
 太陽の明かりがかなり赤の成分を含み始めていることに、俺は気づいた。夕焼けだ。
「そろそろ、かえろっか?」
 時計を見て真希が言う。
「今日は私が晩御飯をつくってあげるね」
「おっ、そいつは楽しみだな」
 答えながら、俺は伝票を持って立ち上がった。レジで清算して店を出る。帰る途中で近所のスーパーによって今夜の材料を買う。真希はあらかじめうちの冷蔵庫の中身をチェックしてきたらしく、買うものに無駄はなかった。
 二人でスーパーのロゴ入りビニール袋を一つずつ持って、帰り道の坂を上っていく。
「なんかさぁ〜」
 不意に真希が言ったのは、二人で大きな夕焼けを見ながら坂を上っているときだった。俺は彼女の顔を見やると、
「どうした?」
「こういうのって……いいよね」
「こういうのって?」
「だから……」
 真希は夕焼けから視線を外すことなく、言葉を続ける。
「こうやって、夕焼けに向かって好きな人と二人で歩くのって……なんか、ドラマみたいで……」
「急に何を……」
 ちょっとあきれながら俺は微笑むと、
「そんなこと古くさいドラマでもやらないぞ」
「嘘だ。やってるよ」
 やけに向きになって反論する真希がなんだか可愛かった。
「そんなことを今どき書いてるきゃ……」
 驚きでというよりは、口を塞がれたことで俺は言葉を失った。俺の唇を一瞬だけふさいでその唇は戻っていく。唇は持ち主の意志に答えて微笑みの形を作ると、
「愛してるよ」
 俺は何も答えられなかったが、真希のそんな一動作、一台詞で心が満たされていくのを感じていた。こういう世界もあったんだな。歩きながら、俺は「小さな幸せ」という奴に浸っていた。
「なぁ、真希」
 ベットの中で裸の彼女を優しく抱きしめながら、俺は呟いた。情事の後の気怠い空気。俺の胸に顔を預けてまどろむ彼女が、顔を上げて俺を見た。
「俺の仕事に反対か?」
「なんで、そんなことを……」
 訊きながら、真希はわずかに顔を曇らせると、
「あなたが傷つくかもしれないという不安には、もう耐えきれないかも……」
「やめようかと思う」
 不意に出た言葉は、なぜか俺の意志を介していないように思えた。
「やめてまっとうな職について……」
 言いながら、俺は妙なのどの渇きを覚えていた。うれしさと心配を半分半分に混ぜ合わせたような表情で俺の顔を見やる真希。
「何か飲む?」
「あぁ……」
 答えながら、俺は真希が俺が喉を乾いているのに気づいたことに違和感を覚えていないことを不思議に思った。俺は真希に喉が渇いたことは一言も伝えていないのに、彼女は俺が喉を乾いていることを知っているのだ。そして、そのことを驚きもしないで平然と受けとめている自身を俺は不思議に思っている。
 真希が俺の前に出したのは、グラスに並々入ったアイスコーヒー。ご丁寧にも氷がいくつか浮かんでいて、よく冷えている。俺はそのグラスに手を伸ばそうとしたが、俺の意識の中で何かがそれを拒んだ。
「ねぇ、聡」
 真希が言うことにほとんど耳を貸さずに、俺はグラスをつかもうと格闘していた。
「このまま二人でずっと居ようよ」
 囁く真希。俺は真希の体を片手で抱きしめる。と、不意に鏡に少女が一人、写っていることに気づいた。何かを訴えるような目で俺を見ている。だが、この部屋には俺と真希以外は居ないはずだ。
 その時、俺は気
 フリップ
 降りきしる雨の中、俺は立ちつくしていた。雨の勢いが強く、周りのビルが蜃気楼のように見える。濡れた髪から滴る雨粒が目に入って痛い。右手で髪をかき上げると、俺はアスファルトの向こうを見た。
 真希がすてられた仔犬のような瞳で俺を見ている。その視線の強さに気圧されたように俺は、数歩、歩いたところで立ち止まった。耳に降りしきる雨の音が痛いくらい響いている。
「結局、あなたの心に私はいないのよ」
 どこかで聴いた台詞だな。俺はのんきにそんなことを考えていた。ん? どこで聴いたんだ? 何かの歌かな?
「仕事、仕事ばかりで、あなたは私を見ようともしないっ!」
「違うっ!」
 心は他人事のように冷めていたが、俺ははっきりと否定の意味を込めて叫んでいた。雨のカーテンでビルや建物が薄らいでいく。この世界にあるのは、雨の音と俺と真希だけのような錯覚に陥りそうになる。
「俺は真希を愛している。愛しているから……」
「聡……」
 彼女の頬が濡れているのが、雨のせいじゃないことに俺は気づいた。彼女の頬を伝うのは雨じゃない。涙だ。俺は近づき、彼女の肩に手をのせた。真希もそれを拒まない。まるで、それを待っていたかのように俺の胸に顔を預ける。
 軟らかく抱きしめようとする俺の視界に、傘をさした少女が写る。どこかで見たことがある。訴えかけるような瞳で俺を見る。真希を抱きし
 フリップ
 暗い映画館。上映しているのは古いアメリカ映画だ。妖精と呼ばれた少女がローマの街を新聞記者とデートしている。俺は肩に真希の軽い重みを感じながら、じっとスクリーンを見つめていた。
「見たいって言ってたのは、真希なのにな」
 俺は呟き苦笑したが、真希を起こすようなことはしなかった。何をしていたのかは知らないが、あまり眠っていないようだ。俺はそこで自分の誕生日が今日であることを思い出した。
 まさか、真希の奴……
 スクリーンのシーンが変わった。モノトーンの少女がアイスを食べている。その少女の横に、カラーの少女が立っている。見たことがないはずの映画なのに、カラーの少女は妙なデジャヴを俺に起こさせた。
 少女がはっきりと俺を見て呟く。
「いつまで……夢を見ているの?」
 俺は少女の台詞を完
 フリップ
 真っ白な空間にいるのは、俺と少女だけだった。少女はやわらかい視線で俺を見ると、はっきりとした口調で言ったのだ。
「夢はもうおしまいよ」
「わかってる」
 答える俺は、なぜか泣いていた。理由はわからない。瞳から涙が流れ出てそれが止まらない。悲しいわけではないのに、楽しい夢の後に悲しい現実に引き戻されたように俺は淋しいのだ。
「わかってるさ……アリス」
 なにをわかっているというのだろう。なにをわかっているのかわからないが、俺は夢から覚めて現実に戻る時間であることを理解していた。
 白い空間からゆっくりと色が抜けていく。アリスの姿はもう無い。俺の意識が薄らいでいくが、それに不安感はなかった。ただ薄くなっていくのではなく、広がって薄くなる感じなのだ。
 これが……ネットの広がりなのか?
 俺は不意に意識した。
 
 
 初めに返ってきたのは聴覚だった。
「……どうするの? このままじゃ……」
 女の声。それが真希であるとわかるのに、しばらくの時間を要した。
「この刑事はホワイト・アウトするまで夢を見ている。ホワイト・アウトしてしまえば、どうとでも言いつくろえるだろ?」
 これは、早瀬の声だ。
 触覚。冷たい床の感覚が俺の体に染み込んでくるのがわかる。手や足の感覚も徐々にではあるが取り戻されつつある。右手の運動能力がどれだけ戻っているか確認するように、俺は少しだけ指を動かした。
「このソフトはいじってあるから、18時間で完全にホワイトアウトしてしまう。そうなったら、あとはどうとでもできるだろ?」
「別にそこまでしなくても……」
「君がこいつとつきあっていたのは知ってるよ」
 視覚に光が満ち始めたのを、俺は感じていた。光が溢れはじめただけで、まだ、視界は形になっていない。俺は二人の会話を聞きながら、体の調子が戻るのを待っていた。かなり無理にジャック=アウトをしたせいか、脳と神経系のコネクトがうまくいっていないような気がする。
「そんなことじゃない。今はあなたしか愛してないのよ」
「わかってるよ。だったら……」
 まだ、視界は完全に回復していない。だが、俺は早瀬が自分を見て薄く微笑んだように思えた。首の後ろのコードはまだつながっているが、モニターを見れば俺の脳がジャック=インしていないことはわかるはずだ。
 視界がかなりはっきりしてきたところで、俺は行動を起こすことを決意した。早瀬もじきに気づくだろう。だったら、体がまだ本調子じゃなくても不意をついたほうがいい。
 俺は息を吸い込むと、インプラントしてあるドラッグスタピライザーの弁を開いた。俺の意志通りの調合でドラッグが血管中に流れ込み、体を覚醒させアップテンポにさせていく。筋肉に十分に力が入ったところで、俺は思いっきり良く立ち上がった。
 立ち上がった瞬間は、まだ、早瀬は気づいていなかった。首の後ろからコードを抜くのと、銃をかまえるのを同時にする。銃をかまえコードを投げ捨てて、早瀬はようやく俺が夢の世界から冷めていることに気づいたのだ。
「な……」
 素早く正確な動作で俺は早瀬の額にピタッと銃口を付けた。真希が凍りついたように固まり、その表情が青ざめていくのがわかるが俺は何も言わなかった。
「よくもやってくれたな……」
 口から紡ぎ出された言葉は、俺の意志に反していた。
「殺してやろうか?」
「……ヒィ」
 言ってから、俺はどうしようもない怒りを覚えているということに気づいた。言って、俺は自分自身の怒りに気づいたのだ。俺の怒りの波動を感じたのか、早瀬はガタガタと震えて俺を見ている。
「よくも、人の記憶に手を突っ込んでくれたなっ!」
「やめてっ!」
 真希が叫ぶが、その言葉はもう俺には届いていなかった。
「これが、お前らの作ったモノかっ! こいつを売っていたっ!! そうだな?」
 震えるように首を横に振るうだけの度胸が、まだ早瀬には残っているようだった。しかし、比べて真希の方はもう限界らしい。顔面を真っ青にしてブルブル震えながら、銃を突きつけている俺を見ている。
「売ってなんか……いない」
「黙秘するならいい。お前が死んでもブツが喋ってくれる」
「なっ……」
 ゆっくりとした動作で舐めるように動かすと、俺は銃口を早瀬の口に突っ込んだ。恐怖で彼の瞳孔が細くなり、脂汗の量が目に見えて多くなる。ガタガタと震えるえていたのがピタリとおさまったのは、あまりの恐怖のせいなのか?
「全部、言えよ」
 怒りを制御できなくなっている自分を感じながら、俺は一方で怒りにまかせたい感情に揺れていた。真希と早瀬が愛しあっていることに対する嫉妬なのか、俺が失ったモノを早瀬が手に入れていることへの怒りなのか、もう忘れてたはずの感情を思いおこさせたことに憤っているのか。
 体中が妙に熱い。炎の中にいるようだ。俺はまばたきの数が多くなっていることに気づきながら、早瀬の視線を真っ直ぐに受けとめていた。
「ご…ほぉ、ぶっ」
 銃をくわえさせらているために、早瀬は言葉をしゃべれない。そのことはわかっているのに、恐怖のせいで彼の口から吐き出される音に俺は理由もなく怒りを感じるのだ。
「どうなんだっ!」
 叫びに呼応するように、早瀬の瞳がカッと見開かれた。血走った目が俺を見て、それに答えるように俺を包む炎が熱くなる。どうしようもなくなり、俺は衝動のままにトリガーに指をかける。
「殺してやろうかぁっ!!」
「やめてぇっ!」
 真希が俺の体を突き飛ばしたのは、俺が叫んだ半瞬後だった。早瀬の口からスポンッと音をたてて銃口が外れ、その瞬間、指に力がかかって銃が咆哮する。耳に痛い銃声が俺に妙に空虚に聞こえ、銃弾でえぐられた床を見つめる。
「全部、話すから……」
 真希の声はいつの間にか涙まじりになっていた。彼女は床に座り込むと、
「だから、この人は殺さないで……」
「……真希」
 恐怖から冷めて早瀬が半テンポ遅れて言うが、もう彼女は止められなかった。
「あなたの言うとおり、私たちはDF……ドリーム・ファクトリーを売りました。新手のドラッグです。脳をオンラインさせた状態で走らせることで、幸福な夢が見れる。それが売りでした」
 聞いているかどうかもあやふやだった。俺はなぜか、銃弾でえぐられた床を見つめるだけだ。
「DFは脳の記憶野に作用しその人の幸せな記憶を探って、それを夢として見せます。ドラッグと違って身体的な副作用も禁断症状もない」
「やめろっ!」
 泣き声と表現してもいい声で早瀬は叫ぶが、真希は聞いていなかった。
「常習性、習慣性、身体的依存性がないドラッグとして私たちはDFを開発しました。でも、所長が試験的に数名に販売して初めてわかったんです」
 アリスがこの場の会話の全てを録音していることに俺は気づいた。いつから録音しているかはわからないが、アリスが録音したことは裁判の証拠となりうる。
「10名に販売して、1週間で7名がホワイト・アウトしました。DFはユーザーに心地よい夢を見せます。ゆえに、7名はその夢から帰ってくることを拒否したのです」
「俺も夢を見させられた……」
 呟くような俺の言葉。
「いい夢を見たいというのは人の欲求だけど、それを満たしたら……刑事さん」
 真希のその呼びかけに俺は過敏に反応した。バッとを顔を上げて真希を見やる。彼女は泣いていた。泣きながら、俺を見ていた。なぜ、名前ではなく刑事さんと呼んだのか? 俺の意識はその一点に集中していた。
「逮捕して下さい。全て喋りました。人が人に夢を見させるなんて、やっちゃいけなかったんです」
「俺はお前らに夢を見させられて、忘れていた想いを……」
「ごめんなさい……」
 顔を伏せずに頬を涙で濡らしながら、真希は俺を見ていた。俺の方が視線をそらしたくなるような真っ直ぐで力強い瞳だった。
「あなたが私の夢を見るなんて思ってもいなかった。あなたが私を、まだ……」
「……もういい」
 吐き捨てるように俺は言ったが、心は不思議なことに晴れ渡っていた。真希から早瀬に視線を移すと、俺ははっきりと言ったのだ。
「電脳倫理法違反の疑いで身柄を拘束します」
 早瀬の揃った両腕に手錠を掛け、ついで、真希に向き直る。彼女も黙って両手を差し出した。俺が手錠を掛けるとき、真希はかろうじて聞き取れるような声で言ったのだ。
「楽しい夢が冷めた後ってさびしい。誰もが夢の中で暮らしたいんじゃないの?」
「少なくとも、俺のお前の夢は楽しいものじゃなかった」
 俺の言葉に真希は何も答えなかった。
 
 
 The END


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