時を越えた、変わらない……
AIHARA Masami
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 ………大戦末期、カンボジア、陸上自衛隊アユタヤ基地。
 外は蒸し暑いがクーラーのきいた基地の中は快適そのものだった。基地の中で一日のほとんどを過ごす沙貴は、時々ここが熱帯のジャングルの中であることを忘れてしまう。
 白衣を着てディスクを数枚持った沙貴は、鼻歌混じりに廊下を歩いていた。すれ違った軍服姿の警備兵に会釈されて軽く頭を下げると、彼女は”江原 明 研究室”と書かれたドアの前に立つ。
 す〜っと自動ドアが開いて、彼女は中に入っていった。
 中は機能的にまとめられたシンプルな部屋だった。左手の壁一面がガラス張りの他は全て白塗りの壁で、清潔感が漂っている。中の調度品も必要最低限のものばかりで、一番目立つのは数台のコンピューターとモニターだった。
 男が一人、首の後ろから伸びるコードをコンピューターに繋げてキーボードをカチャカチャ打っている。集中して男はキーボードを叩いていたが、画面に映った沙貴の姿を見て手を止めて顔を上げる。
「沙貴か………どうしたんだ?」
「OSの最新版を持ってきたのよ、明」
 沙貴はそう言って手の中の数枚のディスクを見せると、明の首に後ろから抱きついた。彼はそんな彼女の様子を見てわずかに微笑むと、ディスクを受け取りドライブに静かに差し込む。
「俺が言ったバグは取れたのか?」
「まぁね」
 ばつが悪そうな笑みを浮かべると沙貴は、
「こっちのイージーミス」
 と、だけ言った。もちろん、プログラム的に何かミスがあったのだが、そのことをプログラマーではない明に説明してもどうせ理解できない。また、彼自身もそのことをわかっているからそれ以上の説明を求めなかった。
「これで彼女たちを新しいシミュレーションにたたき込めるかな?」
 独り言のように明は言うと、OSをインストールし始めた。ディスクがアクセスするモーター音が聞こえてきて、彼はキーボードの上から手を外す。そのまま左手をあげると明は自分の肩に顔を預けている沙貴の髪をゆっくりと撫で始めた。
 そして、空いている右手でCDデッキのPLAYボタンを押す。
 聞き慣れたメロディーがスピーカーから流れ出す。彼女たちを目覚めさせるときは決まって明はこの曲をかけていた。いや、このときだけではなくいつも彼はこの曲を聴いていた。
「なんか………いっつも、これだね」
 沙貴の言っているのが流れだした歌であることに気づいて、明は微笑んだ。前奏が終わって空間に歌が流れ出す。少し高めの男性ヴォーカルだ。
 ………ブレーキの悲鳴が スクランブルに こだまして
「好きなんだよ」
 明の答え方はどこかぶっきらぼうだったが、だが沙貴はその言葉の中にこもっている感情を理解していた。彼に顔を預けながら沙貴は歌に聴きいり、モニターを二人一緒に見つめる。
 OSが無事立ち上がり各個体にほとんど一瞬でインストールされた。次にシミュレーション・ソフトが立ち上がって、明が組んだシミュレーション・フィールドの全体図がモニターに現れる。
 ………最後に見る あの星は 一番 はかない願い
 フィールド上に12の個体が配置されて、次に仮想敵が15配置される。わずかに息を吸い込むと明はリターンキーを叩いた。すぐに戦闘シミュレーションが始まる。
「今度はエラーが出ないな」
「ちゃんと直したもん」
 明の人を小馬鹿にしたような口調に、沙貴は少しだけ唇をとがらせて答えた。そんな彼女を見て明を微笑むと、顔を引き寄せてキスをする。
 部屋の中に空調の音と歌だけが響いている。
 ………今夜 君をさらって 虚ろな この現実から
 優しいキスをうけながら沙貴はいつの間にか歌に聴きいっていった。
 そして、ガラスを挟んだ隣の部屋で、12個の彼女たちも静かに歌を聴いていた。
 
 
 大戦と呼ばれるそれの実体は、第2次世界大戦や第1次世界大戦のような二大陣営の衝突ではなく、単なる地域戦争の集合体でしかなかった。もっとも、大戦中は戦争状態でない国家は存在せず全体的視点から見れば、先の二回の大戦と変わることは何もなかったのだが………
 だから、大戦がいつ始まったのかは定かではない。いつのまにか戦争が始まり、気がついたら世界中が戦争をしていたのだ。
 だが、終わりには”マドリード企業間条約”という明確なしるしがある。大戦によって経済力と政治力を失った国家のかわりに経済力にふさわしい政治力を身につけた大企業。国家によって始まった大戦は、大企業によって終わったのだ。
 大戦中、キース・ウェイブは陸上自衛隊第1師団第14特務連隊、通称”マーフィー”と呼ばれる非公式特殊部隊に所属していた。だが、終戦直前、マーフィーはグリーンベレーの手によってキース他10名あまりを残して全滅する。
 日本政府の後継政体である東京行政府はキースのような残存兵に対しては冷たく、殺ししか取り柄がない彼は東京の裏、東区で生きるしかなかった。
 東区。東京の闇の部分が集合し、行政府が再開発を半ばあきらめはじめ治安維持を放棄した街である。大戦によるスクラップと大戦前からの建物、再開発によって誕生した規格的な新しい建物が、妙にアンバランスな街並みを作り上げている。
 セックス、違法ドラック、奴隷、違法ソフトウェア、違法ハードウェア。
 手に入らないものはなにもない。法は存在せず、かわりにいくつかの不文律とマフィアの力、ヤクザの力、それらのせめぎあいが存在する。どうしもなく混沌だがその混沌の中から活気が生まれ、東京一激しい街を創り出しているのだ。
 そんな東区では比較的3流なディスコ”ホーンド”はトイレまで3流だった。いたずら書きはそのままだし、ドラックのきめすぎで誰かが吐いた汚物を掃除する者もいない。
 少し音の外れた口笛を吹きながら、男は小便器の前に立った。少し酔っているのか男はふらつきながらズボンのチャックを開けると、ペニスを取り出して小便を始めた。小便が勢いよく便器を叩く音が聞こえてきて、男の顔も少ししまりのないものになってくる。
 だから、キースの左手で口元が押さえられるまで男は背後に立った彼の存在に気づかなかった。小便をしたままうめく男の口を押さえると、キースはそのまま背後の個室に引きずり込む。
 ナイフを持った右手でドアを閉めると、そのままの動きでキースは男の首を思いっきり掻き切った。空気が漏れる異常な音が低く聞こえ、鮮血が吹き出る。真っ赤な血は個室のドアをきれいに染め上げたが、キースの服を汚すことはない。
 血が吹き出る勢いが弱まるのを待って、キースは男を大便器に座らせると何喰わぬ顔で個室のドアを開けた。後ろ手にドアを閉めて、破片程度の鏡で服に血がついていないかどうかを確認する。
 床上10センチぐらいまである真っ黒なコートには血の跡はどこにもないし、夜の闇のようなダークスーツにももちろんついていない。黒の革靴にちょっと気になる跡があったが、まぁこれも汚れと同じレベルだ。
 キースは髪に簡単に手櫛を通すとトイレを出た。あとは、家に帰って依頼人指定のメールBOXに仕事が完了した旨のメールを放り込んでおくだけだ。依頼人がメールを読んで一両日中に後金が口座に振り込まれる。
「キース!」
 トイレを出てメールの文面を考えているときに呼びかけられて、キースは反射的に立ち止まり振り返った。そして、呼びかけた人間を見て驚き後悔する。
「なんで、こんなところにいるの?」
 女性用のトイレに入ろうとしていたアイリスがそう訊きながら、キースに近づいてきたのだ。もっともアイリスに見られたくない場面の直後で出くわしてしまったのでキースはかなり焦っていたが、それでも表情に出すことなく、
「いや、ちょっとな………で、お前はどうして?」
「友達とパーティー」
 と言うと、彼女は少しだらしのない笑みを浮かべた。酔ったときにアイリスがよく見せる表情だ。キースは早く、この場から離れたかった。いつ死体が発見されるからわからないし、この状況で発見されたらアイリスに疑われるのはまず自分だ。それだけは避けたかった。
「そうか………」
 少し気のない返事をするとキースは出口の方をチラッと見やり、
「じゃぁな」
「あっ………! 待って」
 だが、早々に立ち去ろうとするキースをまたもやアイリスは呼び止めたのだ。一瞬、キースは聞こえなかったふりをして行ってしまおうかと思ったが、立ち止まってしまったのではそれもできない。
「これ………」
 手に持ってるバックからチケットを取り出してアイリスはキースに見せると、
「今度のライブのチケット。見に来てね」
 ルナティックのライブのチケット。視線を走らせてそのことだけを確認すると、キースはきれいにたたむこともなくチケットをポケットに押し込んだ。それから、再び視線を出口の方に走らせると、
「じゃぁな」
 と、背中を見せて手を振るとあわてて歩き出したのだった。
 
 
 ニンセイ通りにあるライブハウス”ジェネレーション”は、今日、最高の熱気に包まれていた。全てのテーブルや椅子はしまわれ、客達は総立ち状態で詰め込めるだけ詰め込まれている。それでも入りきらずライブハウスの外でうろうろしている男女がいる。
 最低の環境だったが、それでも客達の熱気がおさまることはなかった。むしろ、劣悪な環境が少年や少女達の興奮を増長させているようにも思える。まだ、今夜の主役は現れていないのに奇声を上げているものもいる。
 今日は”ルナティック”のライブだった。東区のライブハウスを中心に活動しているインディーズのバンドで、10代の少年少女や20代の男女に熱狂的なファンが多い。ライブハウスの熱気と入りきらない少年少女がその人気を裏付けていた。もちろん、チケットは全てソールドアウト。
 客席の照明が落とされ、開演が近づく。5名のメンバーが現れるのをこの場にいる全員が待っている。
 ドラムのサリーにキーボードの八木、ギターの美佳、ベースの浩二、そして、ヴォーカルのアイリス。ルナティックの5人は、全員が熱狂しているファンの神なのだ。ルナティックが”神”ならば、それを待っている彼らは”信者”だ。
 そして、神が現れライブが始まった。
 ライブは初めっからハイテンションだった。それをさらに加速させようとサリーがドラムを打ち鳴らし、美佳のギターがハイテクニックにのってうなる。音を浴びて少年や少女達の狂気はさらに加速していく。
 
 touch! touch!! touch it!!! あなただけ触れることができない
 feel! feel!! feel it!!! 感じることができない
 
 アイリスの声で一気に興奮は爆発する。彼女の姿を見て声を聞いて音楽に身を委ねて、興奮と狂気の宴は始まった。まだ、始まったばかりなのだ。声を上げ、手を振り上げて
彼らは危険な域まで噴き上がっていく。
 
 サイバースペースの彼方にいるデジタルな彼
 そう、触れるわけがない
 現実と全て同じだからって 感じるわけないじゃない
 デジタルが完璧なわけがない そういうあなたは、わかってない
 
 熱狂する観客と歌うアイリス。キースはライブハウスの壁に背中を預けながら、そのふたつを妙に冷めた目で見ていた。
 アイリスはアパートの一階に住んでおり、キースは同じアパートの5階に住んでいた。二人の関係はそれだけであり、少なくともキースはそれ以上の関係はないと思っている。また、ルナティックの練習場がアイリスの住居と合体しているので、キースとルナティックの他のメンバーはそれなりに親しい関係だった。ルナティックの機材が壊れれば電子関係に明るいキースが修理してやるし、ライブを開くとなればこうやってチケットが向こうからやってくる。
 コートのポケットの中でくしゃくしゃになっているチケットの半券を持て遊びながら、キースはミラーシェード越しにライブを見つめていた。
 歌うアイリスがキースに気づいて投げキッスを放る。それを受けて少年や少女がどよめくが、キースはただ薄く微笑んだだけだ。だが、アイリスにはそれだけで十分だった。もう一度キースの方を見て笑みを浮かべると、歌い続ける。
 
 会わなくても心は通じる そんなの嘘よね
 サイバースペースは完璧じゃない だって、あなたに触れない
 touch! touch!! touch it!!! 心だけ触れるなんてできやしない
 feel! feel!! feel it!!! むなしさだけが襲ってくる
 
 ライブがいつもと少し違う様相を呈し始めたのは、5曲目が終わったあたりだった。5曲目の「そのままじゃ愛せない」が終わり、アイリスがゆっくりと話し始める。曲と曲の間にこの様にMCを入れるのは珍しいことではなかった。ただ、6曲目の歌が変わっていたのだ。
「次の歌はルナティックのいつもの歌とは違います」
 激しい歌のせいで少し息切れしている中、アイリスはまだ興奮が冷めていない少年少女にゆっくりと語りかけていた。アイリスの少し湿った口調に奇声を上げていた少年も静かになり、ドラッグをきめようとしていた少女もその手を休める。
「浩二が作った曲じゃありませんし、私が詩を書いてません。いつものナンバーとはかなり違いますけど、良い歌です」
 そこでアイリスは一息、吸い込む。
「みんなもきっと気に入ってくれると思います。だから、聴いて下さい………Cosmic Runaway」
 すっとアイリスがマイクを下ろして、前奏が始まった。
 確かにいつもの曲とは違い、それだけでキースの注意を引いた。どこかコンピューター臭い音楽。わずかにスローテンポで、ドラムが響きギターが歪んだ音をたてる。古くささをどこか匂わせているが、曲は悪くなかった。
 アイリスがすっと息を吸い込み、歌い始める。
 
 ブレーキの悲鳴が スクランブルに こだまして
 ヘッドライトの流星が 流れて消える真夜中
 
 歌詞も悪くなかった。むしろ、アイリスよりも上手く思える。心に染み込み、そして、残るような………
 
 明日 大人になる 少年と少女たちが
 最後に見る あの星は 一番 はかない願い
 
 いつの間にか、キースはアイリスの歌声に聞きいっていた。壁に背中を預けながら彼女の声に、曲に、歌詞に神経を集中する。歌にのって、曲に思いを託した人達の思いが伝わってきそうだった。作ったのはアイリスでも浩二でもないと言っていた。では、誰なんだろうか? ふとした疑問がキースの心の中に生まれる。
 
 冷たいアスファルトの宇宙を 僕らは さまよいながら
 それでも どこかへ たどりつけると信じてた
 涙に 立ちふさがれても
 
 おかしな動きをしている女をキースが見つけたのは、アイリスがすっと息を吸い込んだときだった。立ったままアイリスの歌に聞き入っている少年や少女をかきわけて、ステージに向かっているのだ。その動きは少しだけ早く、左脇の膨らんだジャケットがキースに注意を促す。
 左にでかい銃を下げているな。
 壁にそってキースはゆっくりと女の動きを追うべく、移動を始めた。女の歩調と同期して視線を女から外すことなく歩く。壁沿いに客はほとんどおらず、キースの移動を妨げることはなかった。
 
 今夜 君をさらって 虚ろな この現実から
 どこまでも 君をさらって いつか見た あの未来まで
 
 できることなら、銃を撃つことは避けたかった。発砲なんてしてしまえばパニックになるし、どちらにしろライブは台無しになる。ルナティックのライブにかける情熱を見ていただけに、それだけは避けたかった。
 だが、あの女がアイリスなり誰かの命を狙うキチガイ野郎だとして、発砲する以外にそれを防ぐ手だてがあるのかというとキースには思いつかなかった。距離がありすぎる。接近していたのなら格闘でなんとかできるが、これだけ距離があると………。かといって、距離を詰めることはできない。
 
 遠く 君をさらって 勇気が燃えつきる前に
 
 客の最前列よりわずかに後ろ、アイリスまで5メートルほどというところで、女の動きが止まった。前に出てきた女に金髪を逆立てた少年が何か文句を言っているが、女は聴いていない様子だった。わずかに顔を上げてアイリスを見ている。
 キースはまだ迷っていた。女が銃を抜いたとして、撃つべきなのか。撃ったらライブは台無しになる。だが、撃たなかったらアイリスが死ぬかもしれない。選択の余地はなかった。だが、キースは迷っていた。
 汗が流れていくのがわかる。緊張が最大限に高まる。口の中が異常に乾く。ミラーシェード越しに視線を女に突き刺す。
 
 悲しみの重力よりもスピードを上げて
 
 女が銃を抜く動作がキースには妙にゆっくりに見えた。判断する間もなくキースも銃を抜き、銃口を女に向ける。もう、アイリスの歌声は聴こえてなかった。視界が、神経が、銃口をアイリスに向けようとする女に集中する。
「Cosmmic runaway!」
「ふせろ!!」
 アイリスの歌声とキースの叫びは、わずかにずれていた。反射的に伏せたのもいるが、ほとんどが立ったままキースを見ている。
 と、女の銃に気づいて一人の女が絹を裂くような悲鳴を上げた。ほとんどの視線がアイリスに銃口を向けている女に集中する。ステージに移動しながら、キースはためらうことなくトリガーを絞った。
「アイリス、伏せろ!!」
 すんでのところでキースの銃弾は間に合わず、重なった2つの銃声がライブハウスに響きわたった。キースの銃弾が女の頬をかすめ、女の銃弾がアイリスの持っているマイクを弾く。
 甲高い金属音が響き、「キャ!」という短い悲鳴を上げてアイリスはしゃがみ込んだ。女に銃口を向けながらキースはステージそばの階段を上がる。キースの動きを制しようとライブハウスの人間が動きかけたが、八木の「その人はいいんだ!」という叫びで動きが止まった。
 動きながらキースはトリガーを絞ろうとしたが、パニックになった客が邪魔で撃つことができない。あちこちから無関係な悲鳴が上がり、少年や少女達が外に出ようと出口に向かっていく。
 ステージに上がりキースはチラッとアイリスの方に視線を走らせた。彼女はパニックというよりは、おきていることが把握できないらしい。呆然とした表情で立ちつくしたままだ。
 キースは視線を女に戻すと、再び同じ言葉を叫んだ。
「アイリス、伏せろ!!」
 その声でハッとしたように彼女はキースの方を見ると、
「キース!」
 そして、まるでその声で目覚めたかのように再び女が発砲した。
 銃口にマズルフラッシュがきらめいた瞬間、キースは思わず目をつぶっていた。間違いなく、アイリスが撃たれたと思ったからだ。この距離じゃ彼女をかばうことができない。自分がかばわなければ撃たれる。そう彼は考えていたのだが、現実は違っていた。
「浩二!」
 聴こえてきたのはアイリスの悲痛な叫びだった。アイリスの前に立ちはだかった浩二。浩二の左脇腹から流れ出ている赤い血。キースよりも早く浩二がアイリスの前に立ちはだかり、彼女の身をかばったのだ。
 崩れていく浩二の体をステージ上で抱えると、アイリスは彼の顔を覗き込むようにして再び彼の名前を呼んだ。ろくに狙いもつけず牽制の意味で2発、女の方に撃つと、キースがアイリスのそばにやってくる。
 そして、彼女をガードするような位置に立ち銃口を女に向けると、
「早く行け!!」
「でも、浩二が………」
 アイリスは懸命に涙を堪えている様子だったが、すでにその声は泣いていた。銃口を女の銃にしっかりと据えると、キースは叫ぶと同時に撃ったのだ。
「八木! 浩二を連れていけ!!」
 銃弾は正確に女の右手の甲を撃ち抜いた。銃が床の上に落ちるにぶい音が聞こえ、わずかに何かがピッと飛び散る。女は銃を拾うとしたが、それよりも早くキースがステージから飛び降り女の右頬を蹴りとばした。
 悲鳴を上げて少女が女の体を避け、女はそのまま床にたたきつけられる。キースは女の銃を女の体からできるだけ離れるように蹴りとばすと、ぴたっと銃口を女の顔に向けた。起きあがろうとした女は、しかし、目の前の銃口を見てその動きが止まる。
「よし、そのままうつ伏せになるんだ」
 女はキースの言うとおり膝をついた。少しゆっくりとした動作でうつ伏せになっていく女を見ながら、キースは離れたところで見ているライブハウスのスタッフに、
「客を全員、外に出して下さい」
「は…はい」
 慌ててうなずきスタッフは出入口の方に向かうと、何か指示を出し始めた。
 八木と美佳もアイリスと傷ついた浩二を楽屋に連れていったようである。その様子をチラッと見やるキース。そして、女はその隙を見逃さなかった。
 しっかり床をつかむと両足を揃え足の向きをキースの頭に向けて、腕の力だけで飛び起きたのだ。凄い勢いで向かってくる足を避けるため、キースは後ろに数歩、下がる。女はそのまま立ち上がると、右、左と拳を打ち、最後に右の回転蹴りを見舞わした。
 2回目の拳までは防ぎきれたが、回転蹴りをこらえることはできなかった。右腕のブロック越しに衝撃が顔に来て、吹き飛ばされる。
 器用に左手で受け身をとり床にたたきつけられることなくキースは体勢を立て直すが、すでに女はアイリスを追って楽屋口に向かって走っていた。吹き飛ばされた拍子に落とした銃を拾ってかまえる。だが、すでに女の姿は楽屋口の向こうだ。
 チッ!
 自分の迂闊さを呪って舌打ちすると、キースは楽屋口に向かって走っていった。中途半端に閉まっているドアを蹴り開け、銃口と視線を同時に中に入れる。真っ直ぐの廊下。一番奥の角を左に曲がっていく女の後ろ姿を見て、キースは走り出した。
 走っていって銃口をやや先行させて角を曲がる。
 ルナティックの楽屋のドアを閉めようとしている美佳の背中と、それを追うとしている女の背中。ドアの向こうに行こうと立ち止まろうとする女の動きを、キースは見逃さなかった。
 警告は一切なし。射撃は恐ろしいまでに正確だった。
 銃声は4発。左膝裏、右膝裏、右肩の後ろ、左肘の後ろの順に正確に撃ち抜く。女の体が崩れていくのを見て、キースは走るのをやめた。横たわる女に銃口を向けたまま、キースはゆっくりと近づいていく。
 死んでいるわけがないのに女はピクリとも動かなかった。その妙な様子がキースの勘に触り、警告を生み出す。騒ぎが収まったのを感じて、美佳が少しだけドアを開けて顔を覗かせる。
 瞬間、キースはなぜか女の意志を感じ叫んだ。
「美佳! ドアを閉めろ!!」
 視界を光が覆い、熱が皮膚感覚を刺激し、爆発音が鼓膜を叩き、爆風が体を叩く。作戦の遂行失敗を悟った女が自爆したのだ。硝煙の匂いがする人工の嵐が一瞬で生まれ、時間をかけて消えていく。
 ミラーシェードによって光による視界への影響はほとんどなかった。爆風や熱から守ろうと上げた腕を、キースはゆっくりと下ろしていく。
 黒く焦げた壁材に、バラバラに散らばった破片。
 視界にはそれだけしかなかった。そして、それだけを確認するとゆっくりとキースはミラーシェードを人差し指でなおした。
 
 
 東区には行政府の認可を受けた正規の医者は一人も存在しない。東区全域は第3種地域に指定されており、正確には正規の医者は存在できないのだ。だから、東区の医者は全てなんらかの理由で認可を受けることができなかった闇医者だ。
 浩二が担ぎ込まれたホプキンス病院も、東区にある以上、闇病院の一つだった。もっともマフィアやヤクザの手厚い援助を受けているので、看護婦や医者の数、質、機材などは正規の医者に勝るとも劣らないものがある。東区内にはこういう闇の総合病院がいくつかあり、東区の特殊事情を浮き彫りにしていると言えた。
 幸いにして浩二の受けた傷は大したことないものだった。命に別状はなく一週間も入院すれば問題はない、それだけ医者は告げると看護婦と共に病室を出ていった。病室に残ったのは、眠る浩二と心配そうにベットの周りに座るアイリス、美佳、八木、壁に背を預けて立っているキース。
「ねぇ………」
 短い沈黙のあと、アイリスが声をかけた。しばらくしてから、自分にその声が向いていると気づいてキースは顔を上げると、
「え? なんだ?」
「さっき………どこに連絡してたの?」
「あぁ………」
 どこか気のない返事をしてキースが答えようとしたときだった。彼の脳の中に体内にインプラントしている通信機のコール音が響きわたった。一回目のコールで電話をとるように意識すると、すぐに男の声が脳に直接、聴こえてくる。
 見た感じでは、キースがどこぞの誰かと電話をしているとは見えない。どう見たってただ壁にもたれて立っているようにしか見えない。だが、急にキースが黙ってしまったことと目が少し虚ろになっていることから、その場にいる全員はキースが誰かと電話していると判断していた。
 やがて、キースの視線が動きアイリスを見た。その動きで全員が電話が終わったことを知る。
「アイリス………」
 懐からカードを取りだしキースはアイリスにそれを放ると、
「これで人数分、コーヒーを買ってきてくれないか?」
「………」
 黙ったままアイリスは動こうとしなかった。だが、
「頼む」
 と、キースにせかされると釈然としない表情で立ち上がり、病室を出ていった。ドアから顔だけ出しアイリスが病室から離れていくのを確認すると、キースはドアを閉める。そして、振り返るとキースが口を開くよりも早く八木が口を開いた。
「アイリスにはやばい話なのか?」
「聞いたら………少なくとも、あいつはショックを受けるだろう。聞かせる必要はないから、無用のショックは与えたくない」
 わずかに言葉を選びながらキースが言うと、美佳が意味ありげな笑みを浮かべた。その笑みに気づいていないのかキースは言葉を続ける。
「すぐに知り合いの”調査屋”に現場を調べさせたんだ」
 キースの言う現場が女が自爆したところであることを、全員がわかっていた。”調査屋”とは、依頼に応じてありとあらゆることを調べることを生業にしている人間のことだ。キースは浩二を病院に運ぶ途中で調査屋に現場を調べるよう、インプラントしている電話で依頼していたのだ。
「で、なにかわかったの?」
 好奇心にあふれた美佳の言葉にキースはうなずくと、
「襲った女の正体が分かった。アンドロイド、だそうだ」
「どうして?」
 八木の口調は妙に慎重だった。
「現場に落ちていた破片………機械片ばかりだったんだそうだ」
「じゃぁ、サイボーグという可能性も………」
「肉片が一つもなかったんだ」
 低めのキースの声に八木は何も言えなかった。たとえ全身を機械に代えたサイボーグであっても、脳と脊髄はかえることができずその肉片が残るはずだ。それすらもないということは、あの女が全てが機械のアンドロイドであることの証明だった。
「で………」
 病室であることを忘れて八木がポケットから煙草を取り出した。それを見た美佳が、「ここ、病院」と低い声で言うと、彼は慌ててそれをしまう。
「なんで、そのことをアイリスに聞かせたくなかったんだ?」
「理由はわからないがアンドロイドはアイリスを狙っていた。アンドロイドであるということは、暴走でもない限り指揮者がいる」
「つまり………」
 八木の台詞を美佳が受け継ぐ。
「もう一回、襲ってくる可能性があるということね」
「一回とは限らないがな」
 キースの付け足しは真実だったが冷酷と言えば冷酷だった。彼はチラッとドアの方に視線を走らせると、
「そういえば、6曲目に歌った歌………どこから持ってきたんだ?」
「持ってきたのはアイリスなんだ」
 眠っている浩二を見ながら八木が言った。
「どこから持ってきたのはわからないが妙に古ぼけたCDを持ってきて………そのCDの中身はほとんどインストゥルメタルばかりだったんだが、何曲か歌が入っていてその中の1曲なんだ。”Cosmic Runnaway”は………」
「コズミック、ランナウェイ………」
 考えるようにキースが曲のタイトルを呟くと、
「どうしたんだ?」
 八木がそう訊いたが、キースは何も答えなかった。ドアの方に視線を向けたままわずかに沈黙を保つと、
「いや、あのアンドロイド………なんとなくあの歌に反応したような気が………」
「え?」
 キースの言葉を聞き取れなくて八木がそう訊き返したときだった。絹を裂くような女の悲鳴がかすかに聞こえてきたのだ。一瞬、誰もが空耳かと思ったがもう一度、聞こえてきて確信に変わる。
 一番、最初に反応したのはキースだった。すぐに病室を飛び出すと階段を駆け下りる。八木と美佳がその後を追う形になった。キースに続いて階段を下りて一回の受付ロビーに出たところで、二人の動きは止まる。
 アイリスが二人の女に襲われていたのだ。スーツを着た女がアイリスの両腕をつかみ、皮ジャンの女が警備員の顔をつかんで持ち上げている。キースはといえば、少し離れたところに立ったままだった。
「キース!」
 八木が名前を呼んだが、キースは反応しなかった。わずかに虚ろな目で宙を見ながら、ピクリととも動きだそうとしない。アイリスが気づいてキースに助けを求める視線を向けたが、それでも彼は動かない。あえぐようにアイリスの口が動く。
「…た………た……」
 皮ジャン女が警備員を投げ捨て、警備員がカエルが潰れたような声を上げて気絶する。スーツ女がさらにアイリスを締めあげて、彼女の顔が徐々に青ざめていく。夜勤の医者が「警察を!」と叫ぶ。八木と美佳が怒りをこめてキースを見る。
 キースの行動は本当に突然だった。左手でスーツを開き銃を抜きざま、3発、皮ジャン女にぶち込んだのだ。頭、左胸、左肩と穴があいて、皮ジャン女は穴から白っぽい液を流しながら倒れる。
 異変に気づいてスーツ女がキースの方を見やった。一瞬、アイリスとキース、どちらが優先されるか考える。そして、その思考がスーツ女の命を奪った。
 スタートから数秒間のキースの動きを見切れた者は誰もいなかった。一瞬と形容していいスピードでキースはスーツ女との間合いをつめると、彼女の顔に強烈な左ストレートをお見舞いしたのだ。
 スーツ女はキースが近寄ってきたことすら、認識してなかった。だから、彼女にしてみれば突然、顔面に強烈な痛みと衝撃が襲ってきたことになる。思わず驚きでアイリスをつかんでいる手を離してしまう。
 さらに、続く右アッパーで空中に浮かされてもスーツ女は事態を把握していなかった。スーツ女の現状把握能力が鈍いのではなく、単にキースのスピードが彼女の能力を上回って速いのだ。
 浮いたスーツ女をキースの右回し蹴りが襲う。無防備な体制のまま思いっきり喰らってスーツ女は白い柱に叩きつけられた。そして、うめきながらスーツ女が目を開いたときにはすでに目の前に銃口があった。
 全てがわずかな時間の出来事だった。周りで見ている人間にしてみれば、キースの姿が消えて次の瞬間には、スーツ女はボロボロになって銃を突きつけられ、アイリスはしっかり開放されている。そんな感じだ。
 全てはキースがインプラントしている”スピード”というサイバーウェアのおかげだった。これをスタートさせると、わずかの時間だけ通常の人間より速く………見切られることなく行動できるようになるのだ。ただ欠点があり、それは体に大きな負担を掛けるために大きく体力を消費するということである。
 だから、キースが平然とした表情で立っているのは、実をいえば大変な演技力の賜物なのだ。わずかに肩が大きく動いている以外には、おかしいところは特になにもない。そして、彼は黙ってスーツ女を見おろしていた。
 それは妙な時間だった。キースは銃口を突きつけたまま何もしないし、スーツ女も観念したのか抵抗しない。たっぷり30秒ほど過ぎスーツ女が口を開こうとしたとき、キースの銃が咆哮した。
 正確に3回。頭、左胸、右肩と撃ち込んだところで、限界が来たのだろうキースはそのまま座り込んでしまった。空いた穴から白い液体を流したまま動かないスーツ女の体。それを見つめながら、ハァハァと荒く息をするのがやっとという感じだ。
「大丈夫?」
 ゆっくりと近づきながら美佳が気づかったが、キースは片手を挙げて答えただけだ。体力の消耗のあまり喋ることすら難しいのだろう。肩で息をしながらなんとか体調を回復させようとする。
 ずっとキースは座ったままだったが、やがて彼はゆっくりと立ち上がった。体調も完全に回復したようで立つ足がふらついているとかそういうことはない。ゆっくりと彼は八木を見やると、ボソッと言った。
「奴等の親玉の居場所がわかった」
 八木は助かったショックで泣いているアイリスを美佳とあやしていたが、キースに言われて、
「え?」
 と、顔を上げた。アイリスを美佳に任せて八木はキースに近づいていくと、
「どういうことだ?」
「こいつが………」
 キースは銃口でスーツ女をさす。
「活動を停止する寸前に緊急電波を発信して返信を受信している。その電波を探知して突き止めたんだ」
「探知って………キースがやったのか?」
 慎重な口調で八木が訊くのに対して、キースの口調はやけにあっさりだった。八木に背中を向けると、
「いや、知り合いに頼んだ。戦う前に………」
「………ちょっと待て」
 病院から出ていこうとするキースの肩をつかんだ八木の口調は、怒りの色に塗りつぶされていた。
「それって、アイリスをダシにしたってことか?」
 キースは何も答えなかった。ゆっくりと銃のマガジンを交換してホルスターに納める。だが、その沈黙が八木にしてみれば雄弁な解答だった。
「アイリスをダシにしたんだな!?」
 いつの間にか、八木の声は大きなものになっていたが、そのことに本人は気づいていない。
「お前がはやくこいつらをやっていれば、アイリスはあんなに苦しまなくてすんだんだ!! お前が………」
「八木!」
 美佳が鋭い声でたしなめる。だが、キースが八木の襟首を締め上げるのを見て続く言葉を彼女は失った。
「おい………」
 キースの声は低くルナティックの誰もが聞いたことのない声だった。
「俺がアイリスのことを何も考えてないと、思ってるのか?」
 八木は何も答えず、二人の緊張は高まっていく。美佳が何か言って二人の間を取り持とうとしたが、何を言っていいのかわからない。ゆっくりと危険域まで緊張が高まっていこうとしたとき、
「喧嘩……しないで………」
 涙混じりのアイリスの声で全てが弾けた。泣きじゃくる少女を見て、キースの締め上げる手がゆるんでいく。二人は今さらながらに気づいたのだ。
 誰が一番、心細いのか。浩二が傷ついて、誰が一番、すまないと思っているのか。
「アイリス………」
 キースはそれ以上、何も言えなかった。呼ばれて少女は顔を上げたがキースは視線をあわせることなく、病院から出ていく。
 誰も何も言えなかった。ただ、アイリスが呟いただけだ。
「キース………」
 だが、続く言葉は本人にも聞こえていなかった。
 
 
 ………終戦直前、東京、陸上自衛隊研究施設
 遠くで爆発音が聞こえる。妙に視界が白い。廊下が揺れて走る沙貴は思わず転んでしまった。「きゃっ!」と短い悲鳴を上げたが彼女は壁に手をついて立ち上がると、再び走り始めた。
 中国の反撃で各所の部隊は敗走、戦線は完全に崩壊。
 沙貴が知っているのは、はるか前に手に入れたそれだけの情報だった。状況は全くわからないが、最悪なことだけは確かだ。中国や韓国の連合軍が東京に上陸し、陸上自衛隊は敗北した。すでに統一された指揮系統は存在せず、沙貴もどうしていいかわからない。
 走る彼女の白衣はかなり汚れており、あちらこちらに擦り傷や切り傷があるが沙貴はかまっていなかった。砲弾かミサイルの着弾で建物が小刻みに揺れる。ぱらぱらと天井から何かがふってきた。
 目指すドアにようやくたどり着いて、沙貴はノックもせずにドアを開けた。中は外よりはるかにきれいだった。コンピューターや本が妙にきれいに片づいていて、沙貴は一瞬、違和感を覚えたほどだ。
 かすかに驚きの表情を浮かべて振り返った明を見て、沙貴はなにも言えなかった。明はコーヒーを飲んでいたのだ。あきれて今までの恐怖心も忘れて彼女は近くの椅子にぺたんと座ると、
「なに、飲んでるの?」
「コーヒー」
 すまして明は答えると、
「沙貴も飲むか?」
「こんなときに………いらない」
 嘆息とともに沙貴は言葉を吐き出した。妙に落ちついている明が腹立たしいほどだ。自衛隊は完全に崩壊してしまい軍属である自分たちの命すらどうなるかわからないのに、この男は優雅にコーヒーを飲んでいるのだ。
「どうせ俺達はもうなにもできないよ」
 妙に醒めきった口調で明は言った。
「すでに中国軍が研究所の中に入っている。俺達が見つかるのも時間の問題だ。彼らは北京の復讐のつもりだから………」
「やめて!」
 叫ぶように沙貴は言ったが、明は言葉を続けた。
「みんな殺してる。軍属の研究員だって例外じゃないさ。もっとも、沙貴は女だから………」
 それ以上、彼は言葉を続けなかった。かわりに、泣き出しそうになっている沙貴の顔を引き寄せるとその唇にそっとキスをする。
「そんなことさせないさ」
 言う明の言葉の根拠が沙貴には理解できなかった。明が自分ではなく向こうを見ていることに気づいて、彼女は彼の視線を追う。視線の先がガラスの向こうにたどり着く。
 驚きで沙貴は言葉が出なかった。ガラスの向こうに8体の戦闘アンドロイドが眠っているのだ。
 アユタヤ基地で沙貴や明が開発したアンドロイドである。開発されたアンドロイドはすぐに戦争に投入され、二人が日本に帰ってこれるだけの成績を上げた。研究所のアンドロイドは全て戦闘に投入されたと沙貴は思っていたのだが、どういうわけかここに8体の戦闘アンドロイドがいる。
「なに、あれ………護身用のつもり?」
 沙貴の判断は正常なものだったが、明の答えは違った。
「いや、違う。アレが8体あっても護身用になんかならない」
 そして、次の答えを言うときの明の瞳に宿った光に、沙貴はその時、気づくべきだったのかもしれない。
「でも、君の身を守ることはできるんだ」
「え?」
 それ以上、沙貴は何も言えなかった。いきなり口と鼻を濡れたタオルで押さえられたからである。
 軽い刺激臭を鼻に感じて、諜報部が使う即効性の睡眠薬だな、と沙貴は妙なことを考えた。意識がす〜っと遠のいていく。何も考えられない頭の外で明の言葉を聞く。
「大丈夫。すぐに、また会えるから………」
 それが彼女の聴いた最後の声だった。
 
 
 人の気配を感じない。遠くから聞こえてくるかすかな音以外は何も聞こえてこない。耳に聞こえてくる音は自分の歩く音だけだ。
 再開発放棄地区。白く輝く夜の東京に転々と見える虫食い穴はそう名づけられていた。なんらかの理由により危険と判断されて、行政府が再開発を断念した地域である。よりつくのは重度の犯罪者か行き場がどうしてもないホームレスぐらいなものだ。
 アンドロイドが受信した電波より突き止めた建物は、その再開発放棄地区の一つの中にあった。治安維持地域と再開発放棄地区とのライン上に車を置き、キースはそこから歩いている。
「ここか………」
 やがて、たどり着いたのは今にも倒壊しそうな白塗りの建物だった。大戦前に建てられたどこかの研究施設なのか、どことなく古ぼけていて砲撃や銃撃の後が見える。廃虚をアジトにするのは定石だが、この建物はいささか気合いがはいりすぎている。
 キースが建物の前に止めてある黒塗りの車に気づいたのは、玄関を見つけたついでだった。建物の古さと妙にアンバランスで、それが彼に警戒心を起こさせる。少し迷った末、キースはゆっくりと車に近づいていった。
 瞬間、車のドアが開いてキースの右手が反射的に懐に伸びたが、銃を抜くにはいたらなかった。なぜなら、車のドアを開けてできたのは彼の見知った顔だったからだ。
「………今日子」
 濃い紺のセミロングの髪。美しいと称するに値する顔。夜の闇に溶け込むような男物のソフトスーツ。微笑みを浮かべて立っているのは寺西今日子だった。
 東京最強と言われている、シノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリー、隊長。大戦中は陸上自衛隊特殊部隊マーフィーに属しており、キースの戦友であり恋人でもあった女だ。
 キースがアンドロイドの電波の逆探知を頼んだ相手というのは、今日子だったのだ。彼女はキースの頼みを受けてバルキリーを使って電波を逆探知、キースに教えた。というわけである。
「どうして、こんなところにいるんだ?」
 必要以上にキースの言葉は冷たかった。そんな彼の声を予測していたのか今日子は微笑みを浮かべたまま、
「手伝いに来た」
 それから彼女は建物を見上げると、
「私にモノを頼むんだ。かなりヤバイことに巻き込まれたんだろ?」
「必要なときに必要な人間に頼んだだけだ。ヤバイことに首なんか突っ込んでない」
 気づかないうちに、キースは今日子に対すると、必要以上に意地を張るようになっていた。そんな彼を知っているのか今日子は微笑みを浮かべたままだ。
「で、そこのトラックの影に隠れている奴の用件はなんだ?」
 だが、そう呼びかける今日子の顔に笑みはなかった。言われて振り返りキースはトラックの影を見る。今日子の声から遅れること数秒後、トラックの影から出てきたのは八木だった。
「知ってる奴か?」
 何も反応を示さずに首を戻したキースを訝しげに思って今日子が訊く。
「アイリスのバンド仲間で八木って奴だ」
 キースはそう言うと、今までの事情を今日子にざっと説明した。一通り説明を聞いて今日子はうなずくと、
「で、気づいていて彼をここまで案内したってわけか。悪だね、ウェイブ君」
 今日子の台詞を聞いて八木の表情がわずかに険しくなったが、キースは相変わらず反応を示さなかった。ただ、彼は八木を妙に冷たい視線で見やると、
「なんでここまでついてきたんだ? 八木」
 何も答えない。わずかな沈黙の後、今日子が何か言おうとしたが八木が口を開いて彼女は発言をやめる。
「アイリスが心配で……お前にだけ任せるわけにはいかないから………」
「俺のことが信用できないのか?」
 奇妙に冷たいキースの声に八木はわずかに体を震わせたが、しっかりと顔を上げるとはっきりとした口調で言ったのだ。
「あぁ………病院でのお前のやり口を見ていたら、信用なんてできるわけがない」
「病院でのやり口?」
 今日子の疑問に八木はややはっきりしない口調で病院での経過を説明した。彼の主観がたっぷり混じった言葉ぶりだったが、キースはなにも言わない。説明が終わって今日子はチラッとキースを見やった。沈黙を保っているキースを見て八木の言葉を判断すると、
「八木………だったっけ?」
 わずかに顎を引くようにうなずく八木。
「君はキースがアイリスをなかなか助けだそうとしなかったから、彼を信用できないって言っているんだろ?」
 再び八木はうなずいた。
「そのとき、キースは私と体の中にインプラントしている電話を使って話していたんだ。この男………」
 そこで今日子は皮肉めいた笑みを浮かべてキースを見やると、
「バルキリーの力を使って病院に出入りする通信を全て逆探して洗って欲しい。と、言ってきたんだ」
 バルキリーという単語を聞いて、八木の表情が驚きのモノに変わる。バルキリーの噂は東区にも当然、広まっており、八木も噂程度は耳にしたことがあった。八木の表情の変化にかまわず今日子は話を続ける。
「時間が時間帯だったので公共電波以外に不審なものは一つしかなかった。まぁ、作業自体は簡単だったがね」
「じゃぁ、キースがアイリスをなかなか助けなかったのは………」
「私と交渉していたから、さ。よりによって、この男、バルキリーを揺するんだぞ」
 言葉は非難めいていたが、今日子の口調は冗談そのものだった。
「バルキリーじゃない。揺すったのはお前個人だ」
 起伏のない口調でキースは言うと、歩きだそうとした。その動きを見て今日子は、
「待て、キース。この建物が何ものなのか知っているのか?」
 その言葉でキースは立ち止まると振り返った。
「その表情じゃ………知らないみたいだな」
 うなずくキースを見て、今日子はやれやれと言った感じで息を吐き出した。それから白い建物を見てキースを見やると、
「名前はわからんが陸自の研究施設だった建物だ。ここらへんは、一種機密区域だったろ? 覚えてないか?」
 今日子の台詞は暖かみにあふれたモノだったが、キースの表情は妙に硬かった。その表情と八木の不可思議そうな顔を見て今日子は気づいた。キースは昔のことをバンドの人間には、少なくとも八木には話していないのだ。
 気づいて一瞬、今日子は表情をわずかに歪めキースに視線を送ったが何も帰ってこなかった。彼女はすぐに微笑みを貼りつけると、
「といっても、そんなものに関係なかったお前は知らないか………」
 キースは何も答えなかった。八木の表情が元に戻ったのを見て今日子は自分の台詞がとりあえず正解だったことを知る。
「ここらへんは大戦前、陸上自衛隊の研究施設が集まっていたところだ。中国・韓国連合軍の攻撃でボロボロにやられたんだが、それでも所々の警備施設は生きているし細菌関係のやばいモンが埋まってるらしい。行政府が再開発を放棄したのも、そういうからみらしいが………」
 そこで今日子は言葉をいったん切ると、
「だから、この建物の中にも何があるかわからん。それでも行くのか?」
 キースは何も答えなかった。何も答えずに今日子に背中を向けると、彼は建物の中に入っていく。そんなキースを見て今日子は軽くため息をつくと、男の後に続いて入っていった。八木も慌ててはいる。
 中は外以上にひどい有り様だった。壁や天井はところどころ崩れているし、妙な匂いが漂っている。歩くこともなかなか上手くいかない瓦礫の様子は、大戦中の攻撃の激しさを物語っていた。
「どうしてついてきた?」
 立ち止まったが振り返らずにキースが訊いた。彼はもう足音と気配で、今日子と八木がついてきていることを知っている。今日子は笑みを浮かべてキースの横に並ぶと、
「気にするな………趣味だ」
 彼女の言葉にキースはそれ以上、何も言えなかった。かわりにキースはチラッと振り返り八木の顔を見ると、
「お前も趣味か?」
 と、訊いた。
 だが、八木は何も答えなかった。沈黙を保ったままの彼にキースは薄く笑みを浮かべると告げる。
「勝手にしろ」
 三人は一階を軽く見回して地下への階段を見つけると、そこから下へと降りた。一階や2階は戦火の被害で倒壊の危険性が高いので、使うなら地下を使っているだろうという、判断だ。
 地下は上に比べるとかなりきれいだった。もちろん、比べたらの話であり戦火によって痛んでいることに間違いはない。そして、3人の目を引いたのは廊下に明かりがともっていることだった。
「誰かが電気を引いて、生活に使っているところだけ配線をなおしたな」
 闇に消えている廊下の左手と明かりが点々とついている右手を見比べて、キースがそう呟くように言った。明かりがついている方を今日子は視線で探ると、
「こっちか?」
「あぁ………」
 うなずきキースは左手をゆっくりと歩き出した。
 
 
 薄い明かりの中で彼女が3人に気づいたのは、ほとんど偶然だった。彼女の子どもの一人のセンサーに偶然、ひっかかったのだ。彼女は一部の修復が終わったばかりの警備システムを動かすと、彼らをカメラのファインダーの中にとらえた。
 2人は知らない顔だったが、一人は知っている顔だった。あの汚いライブハウスで子どもをスクラップにしたあのいけ好かない男だ。
 彼女は立ち上がると、コンピューターから伸びている数本のコードを自分の首の後ろの端子にはめはじめた。カチッ、カチッという音が静かに響き、彼女はシステムと一体化する。
 意識が広がっていく感じがする。システムと一体化する感覚が全身を包み込み、性的快感をわずかに感じる。だが、シンクロ感がいつもと違った。
 違う理由はわかっていた。あの歌がないからだ。彼女はゆっくりと薄れていく視界の中で、部屋の隅にあるCDデッキを見やる。
 唇がいつの間にか歌を呟いていた。
「………今夜 君をさらって 虚ろな この現実から」
 
 
 ゆっくりとした足どりで先頭を歩いていたキースが足を止めたのは、地下に入ってしばらくしてのことだった。真ん中の八木も止まり、最後尾の今日子も立ち止まる。
「どうした?」
 八木の言葉にキースは何も答えなかった。立ち止まったまま鋭い視線で回りを見る。
「気づいたか?」
 訊かれたのが自分ではなく今日子であることに八木が気づいたのは、半瞬後だった。振り返ると今日子も鋭い視線でゆっくりと周りを見ている。前方10メートルぐらいの左への角とか、後ろの三叉路、ちょっと行ったところの左手にあるドアとかに注意を配っている。
「管理職になって勘が鈍ったと思ったら、そうでもないんだな」
 いやみのスパイスがちりばめられたキースの言葉に、今日子はわずかな笑みを浮かべると、
「管理職って言っても昔と変わることはない。前線には出ている」
「偉い人が出しゃばると、部下がいい顔しないぞ」
 キースの言葉に今日子は微妙な笑みを浮かべた。だが、冗談を言い合えるのもそこまでだった。何も状況の見た目に変化はないのに、キースと今日子の表情が妙に引き締まったものになったのだ。
 空気が緊張していくのが素人の八木にもわかった。目に見えない、プロにわかるところで変化が起きているのだ。
「どっちだと思う?」
 囁くような声で今日子が訊く。視線をドアに向けてキースが答える。八木が過度に緊張する。
 キースの行動は本当に突然だった。いきなりドアを蹴り破ると、中に飛び込んだのだ。いきなりの行動に驚く八木の前に、角の影から女が飛び出してくる。
 声にならない声を上げるしかなかった八木に対して、今日子の行動はあくまでも冷静だった。稲妻にも等しいスピードで懐から銃を抜くと、抜きざまに一発、引き金を絞ったのだ。
 耳元で銃声が鳴ったショックで、八木の意識がわずかに遠くなる。彼の視界の片隅で、銃弾を喰らって女が大きくのけぞるのが見えた。飛び散っているのが血ではなく、メタリックな部品と妙に白い液体であることに八木は奇妙なショックを覚える。
 不意に体が引っ張られ、八木はドアの向こうに押し込まれた。今日子が彼を部屋の中に入れてバタンとドアを閉める。
 部屋はそんなに大きくなかった。生活には使っていないのだろう、埃がつもっていて今となっては使いものにならない部品があちらこちらに転がっている。目を引くものは、キースと足下に転がっている女性アンドロイドぐらいだ。
 角にもアンドロイドが居たのだが、同時に部屋の中にもアンドロイドが居たのだ。気配でそれを察した二人は先手を取って二手に分かれて、個別に処理したわけである。
「きちんと死んでいるのか?」
 足先でちょんちょんとアンドロイドをつっつく今日子の言葉に、キースは「あぁ」という言葉を返した。それから、銃弾をマガジンに込めながら、
「ここに入ったのは良い判断だと思うか?」
「どうだろう?」
 今日子の返事は微妙なモノだった。
「良いか悪いかなんて相対的なモノだし、狙いが達成できたら良い判断と言えるんじゃないのか?」
「優等生的なお答えだこと」
 肩をすくめて答えると、キースは八木の名前を呼んだ。驚いた表情で顔を上げる彼に向かって、キースは今まで弾を込めていた銃を放って渡す。慌てて受け取り八木は不思議そうな顔で銃を見ると、
「これは?」
「自分の命は自分で守れってこと」
「じゃぁ、キースは何を使うんだ?」
 八木の質問にキースは言葉で答えず、コートの裏に隠していたショットガンを見せることで答えた。護身用に銃を持っている人間はいるが、ショットガンまで持っている人間はそうそういない。
 キースの装備に驚きながら八木は興味深そうに、慎重に訊いたのだ。
「何で……そんなモノ持ってんだ?」
 何もキースは答えない。黙ってショットガンをかまえ、入ってきたドアを睨みつけるだけだ。
「キース………」
 呼びかける八木にキースは何も反応しない。
「あんた、いったい何をやってるんだ?」
 決定的な質問にその場にいる3人が、しばし状況を忘れる。キースが何をやっているのか何をやっていたのかを全て知っている今日子だったが、キースが八木達に過去を隠していることがわかった以上、口を挟むことができない。
 マーフィー出身というのは、別に隠すほどのことでもなかった。だが、過去に人を殺し今も人を殺すことで生計を立てているキースの今の状態は、確かに胸をはって人に言える類のものではない。それであっても、必要以上に頑なに隠し続けるキースの態度に今日子は疑問を感じていた。
「俺達はキースがどうやって喰っているのか知らない。信用してくれと言うんだったら、そういうことを教えてくれてもいいんじゃないのか?」
 理論的にはおかしいが、心情的には理解できる八木の台詞だった。だが、キースは何も答えない。黙っているだけだ。口を閉ざしたまま、ショットガンを持ってドアを睨みつけている。
 ここまで心理的に追い込まれたキースを今日子が見るのは初めてだった。キースを助けるために何か言ってやりたいが、言葉が思い浮かばないし何か言えばその事実がさらにキースを追い込みそうで怖かった。
「キースッ!」
 八木が彼の名前を呼ぶのと、キースが何か言いかけるのと、ドアがいきなり破られたのはほとんど同時だった。
 いつものキースだったら、部屋に飛び込んでこようとする奴を撃つなど造作もないことだった。だが、キースの動作は確実に遅れており、そのことが部屋への侵入を許すことになった。
 妙に連携がとれた動きで二人の女は部屋の中に飛び込むと、それぞれキースと今日子に襲いかかったのだ。
 素手で飛び込んできた女に対して、今日子は銃を握っているにも関わらず発砲しなかった。女の右のストレートを半身になってかわすと、その体勢で女の脇腹に右蹴りを叩き込もうとする。
 だが、女は左腕で確実にブロックすると自ら飛ぶことでその勢いを殺した。間合いを取って再度、飛び込んでこようとする女に向かって、今日子は銃の引き金を絞る。
 銃弾は女の左肩に突き刺さったが、女の体勢は何も変わらなかった。左肩から漏れ出ている白い液体にかまわず、女は再び突っ込んでくる。
 スピードの乗った勢いのある右ストレート。それをかわそうと今日子は動き出したが、それよりも女の動きの方が速かった。数段、素早い動作で右ストレートを腹に叩き込まれて、今日子の意識がわずかに遠のきそうになる。
 だが、彼女はそれをこらえると女の足に右下段蹴りを入れたのだ。バランスを崩して防御が甘くなった隙をついてさらに下段に右蹴りを入れ、そこから流れるようにえぐるような右中段蹴り。
 天井近くまで空に舞った女の体に左上段蹴りを2発、連続で入れると、最後の仕上げとばかりに今日子は右のかかと落としで女を床にたたきつけた。人間だったらそれでノックアウトだが、相手はアンドロイドだ。とどめの銃弾を2発、その体に叩き込む。
 ショットガンの銃声を背中に聞いて今日子は振り返った。頭部を粉々に吹き飛ばされたアンドロイドがゆっくりと座り込むように倒れていくのが見える。今日子はキースに近づきまだ硝煙がかすかに上がっているショットガンの銃口を見やると、
「時間がかかったな。今日のお前、おかしくないか?」
「ふん、相変わらずテコンドーか」
 キースは違う言葉を吐いて質問をかわそうとした。追求されたらおしまいだが今日子はそれ以上、何も言わない。かわりに、壁際にただ立っているだけの八木を見ると優しい口調で彼女は言った。
「もっと隅に行った方がいい。まだ、終わってない」
「お前もそう思うのか?」
 かすかに笑みを浮かべてのキースの言葉に今日子はうなずくと、
「まだ、2匹はいるだろ」
「そうみたいだなっ!」
 キースの言葉に今日子はドアの方を見て、男のアンドロイドが一人、開きっぱなしのドアから飛び込んでくるのをみとめた。男は真っ直ぐにキースと今日子の方に突っ込んでくる。
 え? 一人? 自分の勘が外れたことに今日子は一瞬、戸惑いを感じたが、すぐに身構えると男に精神を集中させた。だが、男の後ろに影が見えて彼女の精神はわずかに撹乱される。
 男の後ろから現れた女が突っ込んできたのは、今日子にとって完全な不意打ちだった。女の勢いに押されて数歩、後ろに下がってしまう。だが、それでも女の勢いを殺すことはできず今日子は女のタックルをまともに受けてしまった。
 視界の隅で転がる今日子を見てキースは叫んでしまう。
「今日子!」
 だが、キースに彼女を助けに行くだけの余裕はなかった。男の攻撃に受けに回るのが精いっぱいで、他の人間を助ける余裕なんてどこにもないのだ。
 男の右ストレートを肩のブロックで受け、蹴りを膝のブロックで受ける。人間なら生じる疲れによる隙も、アンドロイドだからそんなもの存在しない。冷たい正確な動きでキースは追い込まれていく。
 だが、キースが追い込まれていく原因はもう一つあり、そちらの要因の方が大きいということも彼自身わかっていた。八木の視線によるプレッシャーだ。キースが自分の仕事をひた隠しにしていることが、確実に鎖になっているのだ。
 今日のお前、おかしくないか?
 今日子の言うとおり、今日のキースはおかしかった。アイリスには汚い自分を見せたくない、その欲望が鎖となって自分を縛りつけている。アイリスの前の自分は、殺しなんて知らないキースだ。それ以外の自分は見せたくない。だが、見せなくては、マーフィーの自分を、殺しをするときの自分を見せなくては、今を生き延びることができない。今日子を助けることができない。
 今、この場にアイリスは居ない。だが、八木の冷静な瞳がアイリスの瞳となって、キースに重い圧力と深い矛盾を突きつけるのだ。
 こうなることはわかっていた。いつまでもアイリスを欺くことはできない。彼女は本当の自分を嫌うだろう。殺しをして金を貰っている自分を、きっと嫌うだろう。キースはそのことだけを恐れていた。
 だが、本当にそんなことでいいのか? 違う疑問がキースの心に根を生やす。嘘をつきづつけることが本当にいいことなのだろうか? 良い嘘というのは確かにある。だが、今の自分の嘘は明らかにいけないものだ。
 次に心を支配するのは恐怖。しかし、その支配力は一瞬前に比べれば、確実に弱いものだった。アイリスに嘘をつき続けることはいけないことだ。確かに本当の自分を知ってアイリスが嫌うことは怖い。恐怖する。だが、もし、受け入れてくれたら………
 受け入れてくれなかったら、その時はあきらめよう。
「キース!」
 八木の悲鳴にも近い叫び。その内容はわかっていた。キースは思いっきり男を蹴りとばすと、ほとんど狙いもつけずにショットガンを今日子に馬乗りになっている女に向かって撃ったのだ。
 12番ゲージが炸裂して女の背中に無数の穴を開ける。ショックで生じた隙を今日子が見逃すわけがなかった。彼女はそのまま女の襟首を両手でつかむと、巴投げの要領で投げ飛ばしたのだ。
 そして、素早く立ち上がりキースのそばにやってくる。
「やっと、戻ったみたいだな」
 全てを見透かしたかのような元恋人の台詞にキースはかすかに苦みが混じっている笑みを浮かべると、
「開き直ったんだよ」
 だが、軽口を叩けるのもそこまでだった。男と女のアンドロイドは立ち上がると、今度は同時に二人に襲いかかったのだ。
 八木の目の前で展開された格闘戦は、芸術的なものだった。1対1が2組ではなく、完璧な2対2の戦いが展開されたのだ。精密機械のように連携がとれている男と女のアンドロイドと、信頼しあい互いが互いのことを知り尽くしているキースと今日子。
 複雑に連携しあい拳と蹴りが入り交じりながら、戦いは芸術的な緊張感を持ってすすめられていく。
 押されているのは、キースと今日子だった。どこかにアンドロイドを指揮する者がいるのだろう。2体のアンドロイドは全体的な視野で戦いを展開しているのに対して、キースと今日子は個人的な視野で戦いを展開していた。いくら微妙に連携がとれていても、やはりミスは生じアンドロイド達は確実にそこをついてくる。
 キースのフォローが漏れた隙から女の左ストレートが今日子の右肩をとらえ、そこから連続的に3発、今日子の体に打ち込まれる。短い今日子の悲鳴にキースの意識は一瞬、そちらに取られ、生じた隙に蹴りがやってきた。
「なんなんだ、あの連携」
 間合いを取るとキースは今日子にそう囁いた。
「どこかに奴等を指揮している奴が居るんだろう。数体のアンドロイドを一度に動かすことができるシステムがあると、大戦中に聞いたことがある」
「だから、あれだけなめらかな連携がとれるのか?」
 キースの言葉に今日子はうなずいた。
「だったら………」
 言うなり、キースは今度は自ら男に突っ込んでいった。その言葉と行動からキースの意思をくみ取って今日子は女に向かって突っ込む。
 戦いは微妙に変化していった。アンドロイド達は2対2の戦いに持ち込もうとするのだが、キースと今日子があくまでも1対1の戦いに変化させていくのだ。連携を取りサポートしあおうとするアンドロイドの動きを巧みに廃し、あくまでも1対1の戦いにする。
 連携を取って戦えば強いアンドロイドも、1対1の戦いになるとかなりキースと今日子に押されていた。今や二人の距離は完全に離れ、今日子対女、キース対男という構図ができあがっている。
 男の右蹴りを軽く受け流し、体勢の崩れところにキースの左ストレートが男の顔にめり込む。今日子の連続蹴りについに防御が間に合わなくなって、女はまともに蹴りを喰らってしまう。
 キースの右、左を男はブロックすることができたが、そこから続く流れるような右回し蹴りを防御することはできなかった。まともに喰らって男の体が転がるように倒れる。
 一歩踏み込んで両手を突き出した女の双掌打を、今日子はかわすのではなく自ら後ろに飛んで勢いを殺すことを選んだ。ポンと飛んで着地すると、今日子はすぐさま前に飛び出し飛び蹴りを女の頭に喰らわせる。滞空したまま蹴りをもう一発入れ、さらにかかと落としを決める。
 そして、キースのショットガンが男の胸に穴を開けるのと、今日子に蹴り飛ばされて女の体が壁に打ちつけられたのはほとんど同時だった。2体のアンドロイドはそれぞれの格好のまま、ピクリとも動かなくなる。
 戦いの後のだらけた妙な緊張感が場を支配していた。喧噪がおさまり静けさだけが支配しているが、誰も何も喋らない。
 キースと今日子はただ荒い息を吐いたまま、互いの相手の体を見おろすだけだった。
 
 
 その部屋だけは妙にきれいに整理されていて生活感があった。数台のモニターとコンピューター、コードが床の上を這い回っていてそこだけが汚く見える。そして、リクライニングされている椅子に座る一人の女性。
 3人がこの部屋を見つけたのは、実に単純な方法だった。一つずつドアを開けて調べていったのである。4つ目に開けたドアがこの部屋のドアだった。
「女か………」
 部屋に突然、入ってきた3人に気づいてというよりは、キースの声に気づいて女は閉じていた瞳を開けた。顔だけ上げて3人を見ると手をついて上半身を起こし、遠慮のない視線を3人に突きつける。
「今までの機械人形とは違うようだな」
 ほとんど独り言のようなキースの台詞だったが、声は十分に女に届いていた。女は薄く微笑むと、
「子ども達は全て倒したのか?」
「子ども達………?」
 女の言葉の意味をわかっているくせにキースはわざと考えるようなふりをすると、
「あぁ、あのアンドロイドか。知ってんだろ? どうなったか、なんて………」
「全てわかっているのか?」
 女の口調は人間くささがあるくせに、妙に声は機械臭かった。その奇妙なギャップに悩みながらキースは、女が首の後ろの端子から伸びている数本のコードをまとめて引き抜くのを見る。
「どこまでこいつのことを知っているんだ?」
 右手でコードをまとめ持ってブラブラさせながら、女がやる気無そうに訊いた。
「噂レベルだ」
 答えたのは今日子だった。
「小隊単位の戦闘アンドロイドをまとめて指揮することで、精密機械のような連携をとらせチーム戦闘力を飛躍的に向上させる。そういうシステムを開発しただか、実験途中だったかという話だけは聞いたことがある」
「システムが実験途中なのか私の能力が不足していたのかはわからないが、2体を同時に操るのが限界だった」
 右手をパッと離し女の手からコードの束が滑り落ちていく。
「4………いや、7体全てを同時に扱えれば全てを失うことはなかったのに………」
「俺達はそういう話をしたくてここまで来たわけじゃない」
 切れ目のいいところで話を打ち切ると、キースはそう本題を切り出した。
「アイリスを襲ったのはお前か?」
「あぁ、そうだ」
 以外にもあっさりと女は認めると、
「やめろと、言いたいのか?」
「単刀直入に言うとそうだ」
「あの女が持っていったCDさえ返してもらえれば………用はない」
 どこか苦しげに女は言った。だが、女の言ったことにキースと今日子は心当たりがなかった。ただ、八木が反応しただけだった。
「CDって………Cosmic Runawayの入っている奴か?」
「そうよ」
 女の口調が変わりはじめ最初にあった警戒心が薄れはじめていることに、誰も気づいていなかった。
「あの女が持っていったCDを返してもらえさすれば………」
「そのCDってなんだ? 八木」
 キースの質問に八木は視線を女から外すことなく答える。
「ライブで歌った歌だよ。浩二の病室で説明しただろ」
 そこまで言われてキースは病室での会話を思い出した。Cosmic Runawayが入った歌はアイリスの持ってきた古ぼけたCDに入っていたという話だったが、彼女はここから偶然、持ち出したのだろうか? いや、アイリスがこんなところに入り込むはずがないから、どこかの古物商が持ち出し彼女に売ったのだろう。
「再開発放棄地区にある建物を漁ってそこから使えそうなモノを持ち出し、売っている人間が居る。おそらく、アイリスはそこから買ったのだろう」
 淡々としたキースの説明に女は何も反応を示さなかった。おそらく事実なのだろうが、女にしてみればそんなことはどうでもいいことなのだ。
「なんで………」
 少し歯切れの悪い八木の言葉。
「なんで、たかがCDごときでアイリスの命を狙ったんだ?」
「………たかが?」
 聞き返す女の口調に怒りの微粒子が乗っていることに、全員が気づいた。だが、怒りに彩られると思われた女の言葉は次の瞬間、悲しみにも似た憤りだった。
「そう………たかが、CDよ。でも、私にしてみればあのCDは明を思い出すための………!」
 突然の女………いや、沙貴の血を吐くような独白にだれも何も言えなかった。ただ、沙貴の言葉を聞くしかない。
「大戦末期、中国や韓国の連合軍が東京に上陸したとき、私と明はこの研究所のこの場所にいた。殺されるのは間違いないという状況の中で、明はどうしたと思う?」
 答える者はいなかった。答えはわかるのだが、それを言えない雰囲気を沙貴が創り出していた。
「これに入れたのよ」
 言うなり沙貴は袖をまくり上げると、メンテナンス用の蓋を開けた。皮膚が開いてその下からコードやらなにやら、生身の体にはないものが詰まっているのが見える。彼女の言うところは明白だった。つまり、明は彼女を守るためにアンドロイドに彼女の人格を移植したのだ。
 理論的には不可能ではなかった。アンドロイドの脳には脳医学用のデヴァイスを詰め込めるだけ詰め込んでいるから、人の意識を受け入れるだけの容量も処理能力もある。ただし、それはあくまでも理論上の話であり、実際にやろうとすれば精神衛生学に属する問題が多発し困難を極めるのだ。
「サイボーグだろ?」
 キースが信じられずに訊く。アンドロイドではなく、脳と脊髄以外を機械化したサイボーグだったらいっぱい居る。だが、沙貴ははっきりと首を横に振ると、
「アンドロイドよ。小隊指揮用に開発された、ね」
 沙貴の言葉に何か言う者は一人も居なかった。メンテナンス用の蓋を閉め皮膚を元通りに戻すと、
「私は意識を失っていたから、明がどうやって私をこの体に移植したかはわからない。ただ、目覚めた時、私はアンドロイドの体に入っていて戦いは終わっていたの。そして………」
 そこで沙貴が言葉を切ったのは、口にするにはあまりにも辛い出来事だったからだ。
「明はいなかった。捜せるだけ捜したけど彼の姿はどこにもなかったわ。死んだかどうかもわからない。生きているかもしれない………」
 言葉を時々切るのは、過去を思い出しているからだろう。沙貴は目を閉じると、
「私の支えとなったのは、明の言葉と彼がいつも聴いていたCDだった。CDを聴きながらアンドロイドを指揮できるように訓練し、アンドロイドを使って東京中を彼の姿を求めて捜し回った」
「でも………」
 八木が何か言いかけたが、沙貴が自嘲の笑みを浮かべて言うほうが早かった。
「彼は見つからなかった。死んじゃったのかもね。たぶん、死んじゃったのよ。でも、私は待ち続け捜し続けた。何年も………」
 そして、彼女は目を開けしっかりと3人を見やると叫ぶように言ったのだ。
「私の生きる理由はそれしかなかった! 彼を待って捜すことが、私の生きる理由になった。生きるために私は待って捜しているのよ。このつらさがわかる!?」
 答えることができる者はいなかった。彼女の激しい慟哭を、何年も孤独に耐え愛する者だけを待ち続けたそのつらさを理解できる者はいなかった。理解できるわけがない。理解できると答える者のその言葉は、ただの詭弁で安っぽい同情でしかない。
「だんだん、彼の記憶を失っていく。言葉も、声も、暖かさも、抱きしめられたときの力強さも、顔も、表情も、微笑みも、愛の言葉も………。失いたくないのに! 失っていくのよ」
「それでも、愛しているのか?」
 深いキースの言葉に対する沙貴の反応は、劇的な化学反応だった。
「愛してる!? そう………たぶん、愛してるわ! 時がたちすぎて、愛することもあやふやになってしまう。もしかしたら、もう愛していないのかもしれない。でも、そうなったら私の生きる理由はなくなる………」
 沙貴の瞳から涙が流れている。そのことに本人は気づいていなかった。涙を流すなんて機能はついているわけがないのに、涙が流れている。愛する者をなくしている悲しみと、思い出を失いつつある自責の念、全てに対する憤り。溶岩のようにドロドロとした感情が流れるはずがない涙を流しているのだ。
「大丈夫。すぐに、また会えるから………」
 自分の言葉を味わうように彼女は言った。
「最後の彼の言葉も、今は声じゃなくて言葉でしか覚えていない。温もりも忘れてしまった。彼の好きな歌と、最後の言葉。私に残されたものはもうそれしかないのよ。だから………」
 それっきり、沙貴の声は言葉にならなかった。何年ものあいだ一人で抱き続けた想いが嗚咽となって、涙とともに流れ出しているのだ。その重みにだれも何も言えなかった。
「だから………」
 沙貴と同じように重い声を出したのは今日子だった。
「CDにすがったのか? 思い出が詰まってる、彼の好きな歌に………」
「………そう」
 絞り出すような沙貴の声。
「それしかなかった。彼をどんどん失っていくのに、あのCDまで………あの歌まで失ったら私はどうすれば………」
「アイリスはあの歌を気にいっていた」
 わずかにいつもより硬い八木の声。
「歌に想いがのっていると言っていたんだ。作った人間のはもちろんのこと、この歌を愛した人達の想いが………」
「アンドロイドを指揮していたのなら、アイリスの歌も聴いているはずだ」
 いつの間にかショットガンを下ろしていたキース。
「素晴らしい歌だった。彼の君に対する想いも君の彼に対する想いも、全てがのっているような………」
 そこでキースは言葉を切ると、
「CDは返すようにアイリスに言う。だから………」
「わかってる。すべて、わかってたのよっ!」
 全てを吐き出すような沙貴の言葉に、キースの声は中断された。彼女は涙を流しながら顔を上げる。
「アイリスさんの歌を聴いたとき、私の意識の中に明がきれいに現れた。もう、声も思い出せなかったのに、彼女の歌を聴いた瞬間………まるで、歌にこめられた明の………」
 嗚咽で声が詰まる。
「彼女を傷つけるなんて間違ってるとわかっていたのに、私は………」
「わかっていたのなら、どうして?」
 訊いたのは八木ではなくキースだった。
「こんなに愛している私が失うしかなかったのに、アイリスさんはあの歌を歌うだけで私に明を想い出せたのよ。私が一番、愛しているはずなのに、私が一番、わかっていたはずなのに………」
 それ以上、沙貴は言わなかった。言えなかった。そして、誰もが彼女の抱いた感情を理解し納得したのだ。
 誰も何も言わず、静寂だけの中でキースが訊く。
「CDは返す。もう、やめてくれるな」
 沙貴はうつむき加減に、ただ、うなずくだけだった。
 
 
 1週間後の夜、沙貴はライブハウス”ジェネレーション”にいた。浩二の復帰記念と途中で終わってしまった1週間前のライブのやり直しをかねた、ルナティックのライブだった。
 キースのそばに立っている沙貴の見ている前で、ライブは順調に進んでいた。1週間前と同じ曲目でライブは進行していき、客達はただ熱狂している。激しいロックのときは飛び上がり、静かなバラードの時はただ聴きいる。
 ただ、一つだけ違うところがあった。6曲目の曲がCosmic Runawayではなかったのだ。そこだけが違っていてキースに妙な印象を与える。
 そして、最後の曲………
「みなさん、今日、最後の曲です」
 切れる息を整えながらアイリスはそう話しはじめた。
「前のライブのときは、この歌で中断しました。でも、この歌はどうしても聴いて欲しいんです。この歌にこめられた想いを、愛している人に対する想いを、何年もの時間を越えた愛を………」
 はっと、沙貴は顔を上げた。驚きの表情でステージ上のアイリスを見ている。沙貴とアイリスは会ったことはないが、キースと八木の説明によってアイリスは沙貴の事情を全て知っていた。
「この歌は私が偶然、見つけた昔のCDの中に入っていた歌です。そして、この歌にはある男性の時を越えた想いがこもってます。私がその想いを伝えられるように歌えるかどうかは、わかりません」
 ステージの向こうからアイリスの視線が沙貴に向けられる。
「時を越えた、変わらない………想い」
 そこで彼女は一息、吸い込むと、
「聴いてください。Cosmic Runaway………」
 そして、前奏が始まった。わずかにスローテンポで、ドラムと歪んだギターの音が耳に響く。沙貴は目を閉じると曲に耳を傾ける。そばに立つキースは何も言わず、アイリスを見る。ミラーシェードは無機質で冷たかったが、口元にはあたたかい微笑みが浮かんでいた。
 
 ブレーキの悲鳴が スクランブルに こだまして
 ヘッドライトの流星が 流れて消える真夜中
 
 目を閉じているはずなのに、沙貴の前には明がいた。いくら想っても想い出せなかったのに、アイリスの歌を聴いただけなのに明の姿を想い出すことができたのだ。明は沙貴を見て微笑んでいた。
 
 明日 大人になる 少年と少女たちが
 最後に見る あの星は 一番 はかない願い
 
 あれほど想い出せなかった明の笑み。言葉でしか覚えていない明の声。全てがはっきりと想い出されていく。当たり前だと思っていた二人の世界が、忘れていたことが、次々と_想い出される。
 
 冷たいアスファルトの宇宙を 僕らは さまよいながら
 それでも どこかへ たどりつけると信じてた
 涙に 立ちふさがれても
 
「今夜 君をさらって 虚ろな この現実から」
 いつの間にか、沙貴はアイリスにあわせて歌っていた。最初は囁くようなものだったのが、いつの間にかキースに聞こえるようになる。
「どこまでも 君をさらって いつか見た あの未来まで」
「沙貴さん?」
 沙貴がキースの腕をつかんでいるのに気づいて、キースはそう小声で呼びかけた。
「遠く 君をさらって 勇気が燃えつきる前に」
 だが、彼女はキースの声に気づいていないのか腕をつかんだまま放そうとしない。もう一回、呼びかけても無駄だ。変化がない。
「悲しみの重力よりもスピードを上げて」
「沙貴さん?」
 呼びかけるのと、彼女が走り出したのはほとんど同時だった。突然の彼女の行動にキースは反射的に追いかける。会場を出て階段を途中まで上ったところで、キースは沙貴の腕をつかんだ。
 ドアの向こうからアイリスの声が聞こえる。
「Cosmmic runaway!」
「どうしたんで………」
 振り返った沙貴の瞳が濡れていることに気づいて、キースはそれ以上、何も言えなくなる。
「ごめんなさい」
 瞳を濡らしたまま沙貴はキースから視線をずらして言うと、
「あの歌を聴いていたら明を想い出して…それで………」
「大丈夫ですか?」
 優しい口調でキースが言うのと、沙貴が体に抱きついてきたのはほとんど同時だった。しっかりしがみついてきた沙貴の両腕の強さに驚きながら、キースは触れるか触れないかぐらいで彼女の背中に手を回す。
 
 ガラス窓 引き裂く ノイズのような痛みを
 誰もが 胸にかくして にごった夜空 見上げる
 
「……沙貴さん」
 わずかにキースが動揺しているにたいして、沙貴の声は以外としっかりしていた。
「ごめんなさい。わかってます、でも、少しだけ………」
 そんな沙貴の言葉にキースは何も言えなかった。二人でアイリスの歌を聴きながら、キースは彼女の髪をそっと一撫でする。
 
 冷たい君の指を包めば 全ての謎が解けてく
 初めて見つめた日の あの懐かしさの意味
 逢えないせつなさの意味
 
「いっそのこと………」
 呟くような沙貴の声。ゆっくりと、アイリスの歌声とシンクロする。
「あのとき……さらってくれれば、良かったのに………」
 
 今夜 君をさらって 仕組まれた この世界から
 どこまでも 君をさらって 二人見た 夢の場所まで
 
 ゆっくりと沙貴の体が離れた。右手で瞳を拭きキースを見上げた彼女の顔に、もう涙のあとはない。
「ごめんなさい。もう、大丈夫です」
「本当に?」
 キースの言葉に沙貴は微笑むと、
「もう、明を待つことはしません。彼の想いを感じることができましたから………」
 それだけ言うと、彼女は階段を上がりはじめた。数段あがったところで、外の無機質な光を背にして沙貴は振り返ると、
「それに、これ以上くっついていたらアイリスさんに怒られるし………」
「ちょっ……おい」
 だが、キースの言葉を無視するように沙貴は階段を上がっていくと外に出ていった。そんな彼女の後ろ姿を見ながらキースは、ただ、何とも言えない笑みを浮かべるだけだ。
 ドアの向こうから、かすかにアイリスの歌声が聞こえてくる。
 
 
 遠く 君をさらって ときめきを 忘れる前に
 求め合う引力よりもスピードを上げて
 Cosmmic runaway
 
 You want to I want to We want to dream
 You want to I want to We want to love
 
 今夜 君をさらって 虚ろな この現実から
 どこまでも 君をさらって いつか見た あの未来まで
 
 You want to I want to We want to dream
 You want to I want to We want to love
 
 
 キースは壁に背中を預けたまま、黙ってアイリスの歌声を聴いていた。会場に通じるドアを見つめながら、そっと呟く。
「愛してる………か」
 
 
 The END


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