壁に両手をついて男は初めて自分が追いつめられたことに気づいた。振り返り、めり込みそうな力で背中を壁に押しつける。そんなことをしても逃げられるわけはないのに、追跡者の放つプレッシャーが男にそうさせるのだ。
「なぁ………頼む」
脂汗の浮いた額に哀れみを乞う瞳。男は上目遣いに追跡者を見やると、頭を下げて精一杯の命乞いをする。だが、追跡者は何の反応も示さない。ゆっくりと数歩歩み寄って、立ち止まるだけだ。
「金なら…いくらでも出す。いくらで雇われたんだ?」
逃げてきた過程でそうなったのだろう男のスーツはかなり汚れていたが、対して追跡者の格好は妙にきれいだった。きちんと前をあわせた茶色のトレンチコートに、中はダークスーツ。瞳を隠すミラーシェードが夜の街の無機質な光を反射して、男の瞳を射抜く。
周りに人はいない。ビルとビルの谷間にぽかんとある奇妙な空白地。ここでこの男が死んでも死体が発見されるのは、いつのことだろうか………。
「依頼人は誰なんだ? 報酬の2倍………いや、3倍を出す」
心の焦燥に比例して男の舌の回転は速くなっていったが、追跡者の関心を買うことはなかった。両手をコートのポケットの中に入れたまま追跡者は首を少しだけ曲げると、
「悪いな」
初めて追跡者が口を開いたことに男は一瞬、喜んだが、続く言葉を聞いてそれもすぐに消え失せる。
「………最低限、守らなきゃいけない信頼ってのがあるんだ」
追跡者のコートの裾が跳ね上がりその中から右手に握られたショットガンが出てくるまでに、1秒とかからなかった。銃口がわずかにスライドして、狙いを正確に男の頭にあわせる。その段階になってようやく男はショットガンの存在に気づいていた。
「…う……わぁ!!」
意味のない声を上げて男はその場に立ちつくす。極度の恐怖が男から理性を吹き飛ばしたのだ。追跡者はまるでそれがたわいのないことのように、いとも簡単にトリガーを引いた。
大きめの銃声が轟き、脳奬と血がコンクリートの壁にぶちまけられた。
大戦が終わったとき、キースには何も残っていなかった。
大戦が勃発する直前に自衛隊に入隊したキースはそのまま、東南アジアに派遣された。2年間を戦友とともにジャングルの中で過ごした彼は、サイゴンでマーフィーに引き抜かれた。
陸上自衛隊第1師団第14特務連隊、通称”マーフィー”は書類上は存在しない非公式特殊部隊である。自衛隊の主戦場であった東南アジアなどで要人暗殺や施設破壊などのテロ活動に従事するのが、このマーフィーの任務だった。噂の形でマーフィーの存在を知っていたキースはそのオファーを受け、大戦2年目の夏、自衛隊を書類上、退役した。
以後、終戦までは、マドリード企業間条約調印までは、キースの人生は順調だった。大きな怪我もなく戦友達と与えられたミッションを確実にこなす。東南アジア派遣時に二等陸士だった階級は、終戦時には三尉になっていた。だが、終戦直後のサイゴンで彼の人生は一変する。
寺西今日子一尉率いる1小隊を残してマーフィーは壮絶なガス戦の末に全滅したのだ。マーフィーに散々辛酸を舐め続けさせられていたグリーンベレーが最後の最後で仕かけたトラップだった。そして、キースは生き残ったマーフィーの10人余りの一人だった。
帰国したキースを待っていたのは、日本政府の後継政体である東京行政府の冷たい扱いであった。行政府は雀の涙ばかりの退職金をキースの口座に振り込むと、彼を戦後の低迷期の東京に放り込んだのだ。
いくつかの大企業の警備組織が彼に仕事をオファーしたが、キースはその誘いをことごとく蹴った。彼はもう人殺しはしたくなかったのである。
だが、キースが持っているものは人殺しの技術だけであり、彼が生き抜くためにはその技術を使うしかなかった。すでにカオス地帯となり行政府が再開発を諦め始めていた東区に身を投じ、彼は仕事を始めた。
フリーのエージェントとして名が売れ食事に困らなくなるようになるまで、2年の時間がかかった。結局、彼は元マーフィーという過去を隠し様々な仕事を請け負い仕事に応じて人を殺しているのだ。
キースのいきつけの店ワイアードのバーテン夜叉が、キースにその話を持ちかけてきたのは彼が2杯目のモスコミュールを半分まで飲んだときだった。
「マーフィーって、知ってるか? キース」
話を聞いて5秒間は表情を抑制するのにキースは大忙しだった。自然さを装いつつトレンチコートの中のダークスーツの胸ポケットからミラーシェードを取り出すと、
「大戦中の自衛隊の奴か?」
相づちを打ちながらキースはミラーシェードで瞳を隠した。
「あぁ………」
コップにビールを注ぎながら夜叉はうなずくと、そのコップを二人連れの女の前に置いた。キースはそんな夜叉を横目で追いながら、
「それがどうしたんだ?」
「元マーフィーの人間を捜している奴がいるんだ」
「そんなこと、どうして俺に教えるんだ?」
「あんたの飯のタネになるかと、思ってね」
少しお茶らけた口調で夜叉は答えた。
ワイアードはビジネスの店として東区にその名を馳せていた。ワイアードの店内は取引の場として提供されており、店主の政治力もあってかワイアードは東区でも数少ない”組織の力が及ばない中立地帯”となっていた。つまり、この店なら安心して様々な取引ができるわけだ。
いつものように騒がしいワイアードの狭い店内には、煙草やドラッグ等の入り混じった得体の知れない煙が充満していた。キースはそんな臭いを鼻に感じ、雑多な人混みの気配を背中に感じながら残りのモスコミュールを一気に飲み干す。
少し考えて思考と言葉をまとめると、キースは夜叉に訊いた。
「どんな奴だった?」
女二人連れが立ち上がり、夜叉は再びキースの前に戻ってきた。
「男だったな。人種的にはヨーロッパ系って感じだったが………」
「ふ〜ん」
どこか興味なげにキースはうなずくと、カードを夜叉に放って立ち上がった。左腕に仕込んであるカードリーダーでキースの口座から今夜の飲み分を引き落とすと、彼はカードをテーブルの上に置く。
「おかずのタネにもならん話だったな、夜叉」
カードをポケットにしまいそう台詞を吐き捨てると、キースはワイアードのドアを肩で押し外に出た。
夜の喧噪がキースを包み込み、すぐに彼は雑多な人混みと一体化した。きらびやかなネオン。通りは様々な人であふれんばかりになり、路地裏ではガキどもが中国人や黒人を袋叩きにする。違法ドラッグ、武器、奴隷、違法ソフト、女、ありとあらゆるものが取引され売られていく。
瞳を無機質なミラーシェードで隠しながら、キースは住まいに向かって歩いていた。ワイアードがあるニンセイ通りから少し離れたところにある廃虚群、大戦前は団地だったところも今は管理者がいない無法地帯だ。キースはそんな団地の中の使えそうな一室に住んでいた。
ニンセイ通りから外れると人混みも急に少なくなり、かわりに娼婦が目につくようになる。アンドロイドの娼婦は人間とは思えないテクニックを生身の娼婦は肉の暖かみをキャッチセールスにキースに誘いをかけてくるが、彼はその誘いをことごとく無視する。もっとも、顔見知りの娼婦も多くそんな彼女たちは手を振るだけだ。
娼婦の姿が消え倒壊しそうな団地群が見えてくる。キースはその中の一つ、入り口から派手な音楽が聞こえてくる棟に入っていった。一階にある部屋から派手なロックの演奏が聞こえてくる。
階段を上ろうとしてキースは足を止めた。
「よぉ」
と、片手を上げて階段の2段目のところに腰をかけてリンゴをかじっている少女に声をかけられたからだ。透明度の高い金髪を肩につくかつかないかぐらいまで伸ばしている、エメラルド色の大きな瞳の少女。
「こんばんわ、アイリス」
ゆっくりとした口調でキースは少女に挨拶を返した。
「キース、頼みたいことがあるんだけど………」
「なんだ?」
壁に背を預けてアイリスを見下ろすとキースは訊いた。
「暇なときでいいんだけど、アンプをみてくんない? ちょっと調子が悪くて………」
「あぁ………いいけど」
アイリスは仲間4人と”ルナティック”というバンドを組んでおり、このアパートの一階で練習をしていた。そのためだろう、このアパートにはアイリスとキース以外に定住している住人はいない。
キースの返事を聞いて微笑むと、アイリスはリンゴを一噛じりした。それから彼女は立ち上がり食べかけのリンゴをキースに向かって放る。胸のところでキースがそのリンゴを受けとめると、
「ナイスキャッチ。それは修理のお礼」
「ありがと」
微笑み混じりにキースは答えると階段を上がり始めた。
「カレーを作るんだ! 後で持って行くね!!」
背中からのアイリスの声にキースは片手を上げて答えた。
そのまま階段を上がっていきルナティックの演奏が聞こえるかどうかという5階で、階段を下りて廊下に入る。手すりの向こうにニンセイ通りが見える廊下を歩いていき、一番突き当たりにあるドアの前でキースは立ち止まった。コートのポケットを漁って鍵を取りだし、ノブに手をかけて彼は驚いた。
鍵が開いているのだ。鍵をかけ忘れたという事はあり得ない。鍵をかけて出かけたことに自信はある。ということは、泥棒が入ったのか中に誰かいるのか………
ドアから少し離れてコートの裏側にぶら下げているショットガンを抜こうとして、キースは躊躇した。中で万が一に銃撃戦なんて事にでもなったら、ショットガンでは部屋の被害が馬鹿にならない。
ホルスターからオートマチックを抜くと、キースは少しだけドアを開けて隙間から中を覗き込んだ。トラップがある形跡はない。人の気配がかすかにする。静かにドアを開けキースは中に入っていった。
バスとトイレは無視してキースは短い廊下を突っ切ると、居間のドアを開けた。人の気配を察知してキッチンの方に銃口を向け、同時に男を一人、認識する。キッチンに置いてあるタマネギを手に取っている男。そこまで男を観察したところで、キースは大声で男に告げた。
「両手を脇から離して頭の後ろで組め!」
自分の置かれている状況をわかっているのかいないのか、男は平然とした表情でタマネギを置くとゆっくりと振り返った。グレーのスーツを着た20代後半のサラリーマンといった感じだ。ただ眼光の鋭さがあきらかに男の危険さを物語っていた。
「早くしろ!」
キースの言葉に対して男はやけに丁寧でゆっくりとした言葉で答えた。
「別に君に危害を加える気はないんです、キース・ウェイブさん」
それでもキースは油断することなく銃口を男に向けていた。男は変わらないキースの態度に肩をすくめると、
「私はあなたに仕事を依頼しに来たんです」
「名前と所属は? どうせ、どこかの企業の人間なんだろ?」
まだ、キースは銃口を下ろしていなかった。
「コンタクトの方法が不粋だったことは謝ります。だから、銃を下ろして話をしませんか?」
少しだけキースの表情が柔らかくなった。左手に握ったままのリンゴをテーブルに置くと、彼は銃口を下ろした。それから男にソファーを勧める。男が勧められるままにソファーに座ってから、キースはその対面に座った。
「じゃぁ、話を聞こうか………」
「私は神崎と言います」
懐から名刺入れを出し名刺を差し出すと男は少しだけ頭を下げた。名刺には名前とメールアドレスしか書いていない。名刺を一瞥しキースはテーブルの上に置くと、
「で、仕事っていうのは?」
「東区の一角で取引されるある物品を、奪ってきて欲しいのです」
そう神崎は仕事の話を切りだした。仕事の話になるとキースの態度も変わる。少しだけ身を乗り出して神崎の話を聞こうとした。
「ある物品と国際ドルを交換する取引です。私としては、その物品を手に入れたい」
「方法は何でもいいのか?」
テーブルの上のリンゴを手に取ると、キースは訊いた。
「えぇ。ジェノサイドでもかまいません。とにかく、きちんと物品が私の元に来ればいいのです」
「取引に来ている人間の種類は? レベルにあわない仕事はしたくない」
「金を受け取る方はマフィアです。だが、払う方は超A級のプロです。というか、某企業の特殊部隊です」
「部隊でもピンからキリまであるだろ? 部隊名は?」
キースの質問に神崎は顔を強張らせた。少し返答を躊躇し間をあけると、
「それは言えません。それに、必要ないのでは?」
「どうしても必要な情報ってわけじゃないが………」
意図的にキースは言葉に間をあけると、
「シノハラ・セキュリティ社のバルキリーか?」
シノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリーは公式に存在している特殊部隊で、その力は超A級と言われている。かなり名が売れている部隊であり、キースも何度か仕事を依頼されたことがあった。
「そう思った理由は?」
ほとんど間髪入れずに神崎が訊き返した。それに対するキースの言葉はなにやら人を子馬鹿にしたようなものだった。
「勘だよ。直感、特に理性的な理由はない」
「私は何も答えません」
否定も肯定もせずに、神崎は優等生的な答えを返した。それに対してキースはふんと鼻を鳴らしただけだ。
「報酬は、20万国際ドル」
神崎の提示した金額は十分なものだった。キースは何も答えずに神崎の顔に視線を突き刺す。それを肯定と受け取ったのか、彼は言葉を続けた。
「取引の日時、場所、参加する人間。私が提供する情報はこの3点のみです。情報はサービスBOXに暗号化して放り込んでおきます。これがサービスBOXのアドレスと暗号鍵です」
懐から取り出したディスクをテーブルの上に置く。サービスBOXとは送信者が情報を置いておけば受信できる人間が任意の時間にアクセスすれば情報を受信できるという、システムのことだ。送信者、受信者が互いに匿名でいられるという利点があり広く利用されている。もっともセキュリティが甘いのが常であり、そこらへんは暗号化するなりしてセルフディフェンスするしかない。
「報酬はこちらで仕事の成功を確認した上で、そちらの指定の口座に振り込みます」
「前金とかは一切無しか?」
キースの言葉は確認でしかなかった。
「口座を指定していただければ、2万を振り込みます」
「カワサキ相銀、2G456AG247」
口座番号を聞いて神崎の動作が一瞬、止まる。電脳で銀行にアクセスして金を振り込んでいるのだろう。頃合を見てキースも口座にアクセスして、入金を確かめる。
「OK。仕事を確かに受けた」
「では、2時間以内にサービスBOXに情報を入れておきます」
それだけ言うと神崎は立ち上がった。
神崎を玄関まで見送って、キースは工具の用意を始めた。アイリスに頼まれたアンプを直しに行くためである。
アンプの裏の蓋を開けごそごそと色々とチェックしているキースの背中に向かって、アイリスが心配げな声をかける。
「どう………直りそう?」
「コンデンサが一個、壊れているだけだ」
工具を置いて顔を上げると、キースは笑みを浮かべてそう言った。
「あとで買いに行こう。それを付け替えりゃ、直るよ」
「よかったぁ〜」
少し大げさに嘆息してみせると、アイリスはスタジオの向こうにあるキッチンに入っていった。コーヒーポットからコーヒーを2個のカップに注ぐと、そのうち一つをキースに渡す。
「今の経済状態じゃアンプなんてとてもじゃないけど、買えないもんね」
「ライブまであと2週間か?」
キースの言葉にアイリスは少し大げさにうなずいてみせる。
「うん、キースも絶対に来てね」
「わかってるって………」
苦笑混じりにキースはうなずいた。スタジオと言ってもそんなに豪勢なものじゃない。部屋の壁をいくつかぶち抜いて広くしたところに、アンプやら楽器やらの機材が置いてあるだけだ。防音を別にすれば練習する分には十分なスペースと機材が揃っている。また、スタジオはアイリスの住居を兼ねていた。
アイリスがここに住み着いたのは、ルナティックを結成した直後だった。練習に使える場所を捜していたら、ここにたどり着いたのだ。他の4人のメンバーとともに部屋を改造し、早速、練習を開始した。そのけたたましい音楽に元々の住人はどんどん出ていき、キースだけが何故か今も残っているというわけだ。
そのことについて、アイリスはキースに訊いたことがある。「私たちの音楽がうるさくないの?」と………。それに対するキースの返答。
「別に気にしちゃいない」
ともかく、キースとルナティック、というよりアイリスの関係は微妙に変化しつつ良好な状態が続いているのである。
「他のメンツは帰ったのか?」
アンプのネジを締めながらキースが訊く。ドラムの椅子に腰かけてアイリスはコーヒーを一口飲むと、
「うん、今日はもうおしまい」
ルナティックは5人のメンバーで構成されており、アイリス以外は全員、近くのアパートに住んでいた。アイリスほどではないがキースも彼らメンバーとはそれなりに親交がある。
ドラムのサリーにキーボードの八木、ギターの美佳にベースの浩二。それとヴォーカルがアイリス。以上がルナティックのメンバーであり、東区のライブハウスを中心にしてインディーズではそれなりに名が知られる活動をしていた。
ほとんどのバンドがコンピューターによる打ち込み音楽でやっているのに対して、ルナティックはあくまでもナチュラルな音楽で迫っていた。どんな楽器の音楽でもコンピューターでリアルに再現できるというのに、あくまでもメンバーは楽器による演奏を選んでいるのだ。
「ねぇ………一つ訊いていい?」
アンプの蓋を閉め終えて近くにあった椅子を引き寄せて座ったキースの顔を見て、アイリスが思い切った口調で訊いてきた。
「なんだ?」
「今日、来てた男の人ってどういう人なの?」
コーヒーカップを膝の上に置くとキースは、
「別にアイリスには関係ない」
「また、なんか危ないことをやってるんじゃないの?」
心配げなアイリスの言葉にキースは何も答えなかった。立ち上がりまだコーヒーの入っているカップをそばのテーブルの上に置く。
「じゃぁ………コーヒー、ご馳走さん」
それだけ言ってキースはスタジオを出ていこうとした。その彼の背中にアイリスが微妙に感情が入り混じっている声をかける。
「もう………私は心配してるんだよ!」
だが、その言葉にキースは何も答えなかった。
地の底から揺らすようなドラムの重低音が響いているが、キースの聴覚には入っていなかった。狭いトイレの個室の中で彼はマガジンの中の弾を再確認している。トリガーを引くだけで撃つことができポンプアクションを必要としないオートショットガン。キースはマガジンをセットすると、スライドを引いて薬室に弾を送り込んだ。
ストックのヒモを肩にかけてショットガンを右肩の下に吊るす。それから、左肩のホルスターの銃をチェックする。銃器のチェックを終えてキースはいつものトレンチコートを着た。ショットガンはカットオフして銃身を切り詰めているために、コートを着れば外から見えることはない。
東区にある比較的高級なディスコ”カヴァー”。神崎のサービスBOXに入っていたのはここの名前と今日の日付と時間、それと取引に参加する人間のうち3名の顔写真CGだった。
全ての準備を終えてキースは個室のドアを開けて外に出た。ドラッグの決めすぎで惚けて床にへたりこんでいる若い男を無視して、彼は洗面台の前に立つ。
鏡の前で最後のチェックだ。どう見ても銃器を持っているようには見えない。誰もコートの下に凶悪なショットガンがぶら下がっているとは思わないだろう。キースはスーツの胸ポケットから出したミラーシェードで瞳を覆うと、トイレのドアを開けた。
早いビートとそれにあわせた激しいドラムがキースの全身を襲う。鼓膜が微妙に刺激され感覚が狂いそうになるが、音楽の洪水に押されないように踏みとどまる。ゆっくりとキースは歩き出した。
カヴァーは全体の作りがすり鉢状になっている。すり鉢の底が踊るためのホールで、傾斜部分は階段状になっていてテーブルが置かれている。そして、カウンターやVIPルームはすり鉢の一番上にあった。
カウンターに向かってキースは階段を上り始めた。取引が始める時間まで15分ほど。そろそろ人間が集まりつつある頃合だ。途中で派手なモヒカン野郎と肩がぶつかるがそれを無視する。
「てめぇ!!」
背中でモヒカンが罵声を上げる。だが、キースは無視して階段を上がっていきカウンターの前に立った。若いバーテンが近づいてくる。
「なんにしますか?」
「アップはあるか?」
キースの言葉にバーテンはうなずき、自分のポケットから緑色のカプセルを一つ取り出した。
「オナニー。やったことはある?」
黙って首を横に振る。
「そのまま飲んじゃえばOK。すぐに上がれるから………」
「人を捜してるんだ」
ボソッとキースは言うと、3人のCGを印刷した紙をカウンターの上に置いた。それをチラッと見やるとバーテンは首を横に振り、
「ダメダメ。そういうのは教えれないんだ」
「タダとは言ってない」
少し微笑んで言うと、キースはポケットから赤いカプセルを一個だしてカウンターの上に置いた。バーテンの視線が赤いカプセルに注がれる。
「知ってるんだろ? セックス。オナニーより気持ちいいぜ」
「ダメなものはダメだ」
だが、バーテンの言い様は「もう少し欲しい」と同義語だった。キースは黙ってもう一つをカウンターの上に載せる。バーテンは反応を見せない。少し時間を置いてもう一つ置いたところで、
「VIP3に入ってった。俺からってのは内緒だぜ」
「わかってる」
キースは4つ目のカプセルをカウンターの上に置くと、カウンターから離れた。そのままカウンター脇の階段を上に上がっていく。VIPルームはすり鉢の一番上から見おろすように作られており、VIP3は通路の一番奥にあった。
緩い右カーブを描いている通路を歩いていき、キースはトイレを見つけるとそこに身を隠しその影からVIP3の様子をうかがった。扉がありスーツ姿の男が二人、その両脇に立っている。サングラスをかけており、様子からいって特殊部隊側の人間だろう。
キースは素早く考えを巡らせた。取引の時間は既に過ぎており、VIPルームの中では取引が行われているはずだ。取引中に襲撃しなくては仕事を達成できるとは思えない。かといって、二人を同時に殺して、なをかつ中にそのことが悟られないようにするのは無理な相談だ。
爆音のようなドラムの重低音に、悲鳴のような女の声が混じってくる。
VIP3のドアが開いてキースは少しだけ体を縮めた。男が二人出てきて、ついで若い女と中年の男。それから、さらに男が数人出てくる。取引が終わって特殊部隊とマフィアの人間が出てきたのだろう。
アタッシュケースを持っているところを見ると女の方が特殊部隊で、中年男の方がマフィアなのだろう。中年男は見たことがある。東区の娼婦の80%を管理している男だ。女の方は濃い紺の短めのセミロングの髪に、薄い灰色の男物のソフトスーツ。
女の顔を見た瞬間、キースの顔をがわずかに動いた。微妙に表情が動いて、ミラーシェードの下に消える。
女と中年男は開いたドアの前でなにやら談笑していた。女の持っているアタッシュケースの他に大きな荷物はなく、神崎の言ってる物品とはあのアタッシュケースの中だろう。ここに物を持ってこず保管場所の情報のみを交換するという可能性もあるが、そうであってもキースの責任じゃない。
ドアが閉まり人間が動き始める。女と中年男の他に男が8人、その二人の周りを囲んでいる。特殊部隊とマフィアが混ざっているのだろう。妙に動きがぎくしゃくしており、両者が両者とも力を出しきっていないといった感じだ。これだったら、つけいる隙はある。キースは乾燥している上唇をなめた。
10人がゆっくりとトイレの前を過ぎていく。コートのポケットの中で手榴弾のピンを抜く。それから、キースはトイレから出て廊下に入った。斜め後ろから近づいていく。男の一人が気づいてこっちを見た。警戒色に溢れた瞳がキースのミラーシェードに映る。
両者の距離が3メートルを切ったところで、キースはポケットから右手を取り出した。安全ピンを抜いた手榴弾を握った手だ。手を離して手榴弾を落とすと同時に、キースは妙に軽く大きな声をかけた。
「よぉ! みんなで仲良くデートかい?」
手榴弾が床に落ちていく。キースが息を止め視界が赤外線モードに切り替わる。声に気づいて中年男と女が振り返る。キースの顔を見て女の表情が一瞬だけ歪み、キースも女の顔を見て動作が半瞬だけ遅れる。
ボンッという爆発音がキースの足下で響いて、この場にいる全員の視界が白い煙幕で包まれた。キース以外の全員が視界を赤外線モードに切り替え順応するのに、おおよそ2秒はかかる。キースの狙い目はそのタイムラグだった。
女に素早く接近すると、キースは左手の袖口の隠しナイフを引き抜きその1アクションでアタッシュケースの取っ手を切りさいた。切り落とされ床に落ちようとするアタッシュケースを左手で拾い上げると、そのままキースは出口に向かって走り出した。
「高橋!」
女の悲鳴のような叫び。だが、帰ってくるのは煙幕にむせたゴホゴホという濁った咳だけだ。
ナイフをポケットに戻し、コートを跳ね上げてキースはショットガンを抜いた。煙幕から脱出しその中に向かってショットガンを3連射する。視界を通常モードに切り替えて、あとは出口に向かって走るだけだ。
異変に気づいて階段を上がってきた黒服を突き飛ばして階段を駆け下りると、キースはカウンターの脇を走り抜け外に飛び出した。夜の通りは相変わらずの人の洪水で、嫌になるほどだ。だが、キースが今ほどこの人込みに感謝したことはなかった。
大きく息を吸い込み息を整えると、キースはその人混みの中に入っていった。一度、この人混みの中にまぎれてしまえば識別はほとんど不可能だ。
安心感を覚えながら、キースはカヴァーから離れていった。
午後2時に部屋のチャイムが鳴ったとき、キースはまだベットの中だった。1回目のチャイムで意識が3分の1ほど覚醒し、2回目のチャイムで半分が覚醒した。3回目、4回目、5回目と彼は我慢し続けたのだが、6回目で我慢できなくなった。
「なんだよぉ〜」
のそのそとベットから起きあがり、頭を掻きながらキースはドアを開ける。
「なんだ、まだ寝てたの?」
ドアの外に立っていたのは、アイリスだった。白のTシャツにジーンズという格好で、左手には片手鍋を持っている。
「なんだ、アイリスか………」
あくび混じりにキースはぼやくように言うと、
「こんな朝早くに何のようだ?」
「朝早くって………もう昼の2時よ」
わずかに頬を膨らませたアイリスだったがすぐに微笑みを浮かべて、
「カレーを持ってきたの。この前、持って行くって言ったじゃない」
「………言ったっけ?」
何とも頼りない返事を返すとキースは背中を向けて部屋の中に帰っていった。靴を脱ぎアイリスも中に入っていく。
「昨日の夜、持ってきたんだけど、キースいなかったじゃない」
キッチンのコンロの上に鍋を置きながら、かなり目が覚めてきたがそれでも寝ぼけてソファーに座っているキースに向かってアイリスは言った。
「コーヒー入れる?」
やかんを持ってアイリスが快活な声で訊く。
「あぁ………サンキュ」
片手を上げてキースは答えると、ソファーの上の端末を使って神崎のサービスBOXにアクセスした。昨夜、キースはこのサービスBOXに仕事を達成した旨を書いたメールを放り込んでおいたのだ。だが、返事はなかった。メールを受領したことはシステム側からの報告でわかったのだが、神崎からの返事がない。
サービスBOXを抜けキースはシノハラ系列の新聞社にアクセスすると、今朝の朝刊を買った。すぐに端末のプリンターから朝刊がプリントされて出てくる。アイリスからマグカップを受け取ると、キースは朝刊を読み始めた。
「朝ご飯でも作ってあげようか?」
キースの隣にちょこんと座ってアイリスが訊く。
「トーストを一枚、作ってくれりゃそれでいい」
「りょ〜かい」
アイリスが立ち上がりキッチンへと向かう。新聞を読みながらキースはコーヒーを一口すすった。
電話のベルが鳴った。2度、3度鳴るがキースもアイリスも電話を取る気配がない。マグカップをテーブルの上におくと新聞から目を離さずにキースが言った。
「アイリス、電話を取ってくれないか?」
「はいはい」
ぱたぱたと足音を立てて電話口まで移動すると、アイリスは受話器を取った。
「はい、もしもし………」
だが、明るい声はそこまでだった。不意に声が1オクターブ低くなり、どこか暗く不機嫌なものになる。
「はい、少々お待ち下さい」
送話口を手で押さえるとアイリスはやっぱり不機嫌な声で、
「キース、電話!………女の人」
「なに、怒ってんだよ」
不思議そうにキースは呟くと、受話器を受け取った。
「もしもし、お電話、変わりました」
「久しぶりね」
その声を聞いた瞬間、キースの表情が驚きと喜びに微妙に配色された。アイリスがじっとこっちを見ていることに気づいてあわてて表情をいつものモノに戻し、声のヴォリュームを少しだけ落とす。
二言、三言、言葉を交わすとキースは、
「わかった。21時にシェオールだな」
メモ用紙に時間と場所をメモすると、早々に電話を切った。そして、何事もなかったようにソファーに戻り、新聞を再び読み始める。キースには何事もなかったが、しかし、アイリスには何事かあったようだ。
「ねぇ、今の電話の人、誰?」
どこか刺々しい声で訊く。
「昔の友達。それだけだよ」
「ふ〜ん、昔の友達ねぇ〜………で、今日、デート?」
トーストを皿にのせてアイリスが居間にやってくる。
「そんなんじゃねぇよ」
「あ………そ。はい、トーストできたよ」
やけに大きな音を立ててアイリスはテーブルの上に皿をおくと、彼女はそそくさと帰り支度を始めた。ゆっくりと新聞をたたみトーストを見て、キースは固まってしまう。
「じゃぁ、私は帰るから………」
「おい、待てよ! これ、なんだよ」
だが、キースの言葉が聞こえていないのか無視しているのか、アイリスはバンッというでかい音をたててドアを閉めてしまった。後に残されたキースは情けない顔をして湯気を立てているトーストを見やる。
皿の上のトーストは、ほとんど炭と化していた。
東区と中央区の境目にある6階建て雑居ビルの地下一階のバーが、シェオールだった。螺旋状になってる階段を降り暗くいい雰囲気になっている店に入る。カウンター席とテーブル席がいくつか、それと店の奥にBOX席。小さくもなく大きくもなく、キースが大戦前と大戦中に愛用していた店だった。
待ち合わせの5分前に来たにもかかわらず、待ち合わせの相手はカウンター席の端の方に座っていた。濃い紺の短めのセミロングの髪に、ダークグレーの男物のソフトスーツ。遠目に見たら男に見え無くもないが、女はテーブルに視線を落としてショートのカクテルグラスをもてあそんでいた。
「何を飲んでいるんだ?」
女にそう声をかけると、キースは女の隣のスツールに座った。驚いたような表情で女は顔を上げキースを見やる。彼は視線をうけてにっこりと微笑むと、
「久しぶりだな、寺西今日子一尉」
「一尉はやめてくれ、キース。今の私はシノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリー隊長、寺西今日子少佐なんだから」
微笑みを返して今日子はそう答えた。それを受けてキースも微笑むと、近づいてきたバーテンにトムコリンズを頼む。それから、今日子の方に向き直ると、
「しかし、あんな所で会うとはな………」
東区のディスコ”カヴァー”でアタッシュケースを持っていたのは、実は彼女、寺西今日子だったのだ。キースは依頼を受けてマフィアとバルキリーの取引を襲撃し、今日子の持っていたアタッシュケースを奪ったわけだ。
「私だって予想しなかった。妨害が入るという情報はあったのだが、まさか貴様だったとは………」
「腕が落ちたんじゃないのか? 俺に仕事を邪魔されるとは………」
「さぁな? 貴様の腕が上がったのかもしれないぞ」
今日子の言葉を聞いて、二人は一緒に微笑んだ。バーテンが透明の液体が入ったロングのカクテルをキースの前に置く。キースはチラッと今日子のカクテルグラスを見ると、
「サイドカーか?」
「えぇ」
短く今日子はうなずく。
「昔と変わってないな」
言ってキースはトムコリンズを一口飲むと、
「で、今日、ここに呼んだのは何のようなんだ? まさか、あのアタッシュケースを返せって言うんじゃないんだろうな?」
「まさか………」
肩をすくめてカクテルグラスを持ち上げると、
「理由はわからない。何年かぶりに会ったから、きちんと話をしたいと思ったのかもしれない」
「俺には別に話なんてない」
素気なくキースは言うと、一気にトムコリンズをグラス半分まで飲んだ。
「何年かぶり………大戦が終わって以来会ってないっていうのに、ずいぶん冷たいことを言うんだな」
「話がないから、ないって言っただけだ」
やはり、キースの言い様はどこか素気なかった。冷たさといらだちが混じりあっている、そんな感じだ。
「もう少し優しくしてもいいんじゃないのか? 昔は愛し合っていたんだろ?」
いたずらっぽい微笑みを浮かべて、今日子が言う。皮肉めいた笑みを見せてキースは大げさに肩をすくめると、
「それは大戦中の話だろ。それに俺はあんたに振られたんだぜ。今さら俺にどうしろと? まさか、昔みたいに抱いてくれって言うんじゃないだろうな?」
「冗談だろ?」
首を軽く横に振ってみせると、今日子はサイドカーを飲み干した。近寄ってきたバーテンにワインクーラーを頼む。
「私がそんな安っぽい女に見えるのか? それに、キースにはちゃんと女がいるんだろ?」
「おんなぁ?」
場の雰囲気に釣りあわない素っ頓狂な声をキースは上げた。
「特定の女なんて、ここ数年いないぜ。どっからそんなことを聞いたんだ?」
「じゃぁ、電話に出たのは誰なんだ?」
今日子の言葉にキースは飲みかけのトムコリンズを吹き出しそうになった。口元一杯に笑みを広げて笑いをこらえながらグラスを置くと彼は、
「アイリスは何でもない。単に同じアパートに住んでいるだけだ」
「ふ〜ん」
意味ありげなうなずきを返して、今日子はバーテンからワインクーラーを受け取った。一口飲んで、
「同じアパートに住んでいるだけなのに、電話を取らせるのか? 私にだってなかなかを電話を取らせなかったくせに………」
「あの時とは状況が違うだろ」
そこまで言ってからキースはあることに気づいた。
「もしかして、嫉妬しているのか? 今日子」
「冗談、言うなよ。なんで、今さらお前に嫉妬なんかしなきゃいけないんだ?」
今日子が冗談めかして言ったのはそこまでだった。不意に声のトーンを落とし表情を引き締めると、
「うちに来ないか? キース」
「それも冗談だろ? 今日子」
笑って言うと、キースはトムコリンズを飲み干した。
「冗談じゃない。真面目な話だ」
「だったら、もっと質が悪い。その話だったら、あの時に断ってるはずだ」
はっきりとキースは言うと、バーテンにモスコミュールを注文した。
「だが、あの時と今じゃ状況が違う。違うか? キース」
今日子の口調が変わっていることにキースは気づいた。チラッと鋭い視線を今日子の顔に走らせると、
「脅してるのか?」
「とんでもない。私はただヘッドハンティングの話をしているだけだ」
微笑み混じりに今日子はそう言ったが、キースにはとうてい信じられなかった。小さな音を立てて琥珀色の液体が入ったロングのカクテルグラスが置かれる。
「どっちにしろ、断る。部隊に属して戦うのは、俺はもうゴメンだ」
モスコミュールを半分まで一気に飲むと、キースは懐からカードを取りだし「二人分」という言葉とともにバーテンに渡した。すぐに返ってきたカードを懐にしまうとキースは立ち上がり、
「俺の部屋を襲うのはかまわない。だが、アイリスだけは巻き込むな。いいな」
「誰が、お前の部屋を襲撃するって言ったんだ?」
あくまでクールな口調で今日子は言ったが、キースにしてみればそれは見え見えの茶番でしかなかった。
「俺の部屋の電話番号まで調べておいてそれはないんじゃないのか、今日子」
あっさりとキースは言い放つと、今日子に背を向けた。と、その左肩に今日子の右手が重なる。
「待って………」
歩きだそうとしたキースの足が止まった。
「私たち、もう一回やり直せないの?」
一瞬だけ時が止まった。だが、キースの返答は今日子の想像よりも早く、そして冷たかった。
「酔ってるっていうことで、聞かなかったことにするよ」
肩にのせられたかつての恋人の右手を一挙動で払うと、キースは歩き出した。
「………キース」
扉が開き閉まるまで、今日子はその場に立ち尽くしたままだった。
アパートの入り口に男が立っていることに気づいて、キースは立ち止まった。2メートルはあろうかという身長に、がっちりとした体格。ルナティックのベース浩二が険しい視線でキースは睨みつけている。
「こんなところに立って………どうしたんだ? 浩二」
もう時計の針は夜の10時を回っていた。遠くからニンセイ通りの喧噪と明かりが聞こえてくる。
「アイリスがいない」
ぼそっと浩二は平坦な口調で言ったが、キースに与えた衝撃は十分なものだった。彼は浩二のそばを走り抜けるとアイリスの部屋に飛び込んだ。部屋の中は荒らされた形跡はなくいつもと同じだ。部屋の主がいないと言うことを除けば………。
「心当たりはないのか?」
部屋の入り口に背を預けている浩二にキースが訊く。浩二は軽く首を横に振ると、
「俺が来たときにはもうアイリスはいなかった。今日は曲の打ち合わせをする予定だったから、どこかに出かけたということはありえない」
感情のこもっていないいつもの口調で浩二はそう説明した。ルナティックの曲は全てアイリスが詩を書き浩二が曲を書いてる。大事な曲の打ち合わせをアイリスがすっぽかすとは考えられなかった。
「あんたの方に心当たりはないのか?」
なかば責めるような口調で浩二は言葉を吐き出した。キースの危ない仕事にアイリスは巻き込まれたんじゃないのか? 浩二の言葉の外の意味に気づいて、キースは近くにあった端末に飛びついた。
コードを引き出し首の後ろのジャック=イン端子に繋げると、キースは神崎のサービスBOXにアクセスした。キース宛のメールが一通ある。10桁のパスワードを入力してキースはメールを受領すると、すぐにメールを読みはじめた。
「女を預かった。アタッシュケースとの交換のみに応じる。明日の夜、11時に以下のアドレスの倉庫まで来ること」
メールの文面はこれだけだったが、十分すぎるほどだった。コードを引き抜き端末にしまうと、キースは事務的な口調で浩二に事実を伝えた。
「アイリスはさらわれた」
「さらわれたって………誰に!?」
殴りかけた手をかろうじて押さえて、激しい口調で浩二が詰め寄る。キースは顔をそらしわずかに視線をずらすと、
「俺の仕事の関係だ。すまん………巻き込んでしまった」
それ以上は何も言えなかった。言っても弁解にしかならないことを、キースは十二分にわかっているからだ。だが、頭を下げられては浩二もそれ以上は何も言えない。上がりかけていた手を下ろすと、
「で、アイリスは助かるのか?」
「助けてみせる………」
はっきりとした口調でキースは言ったものの、彼には誰がアイリスをさらったのか見当がつかなかった。
メールは神崎のサービスBOXに入っていたのだが、神崎というのはまずあり得ない。彼は金を払えばアタッシュケースを手に入れることができるからだ。金が惜しくなってアイリスをさらったという可能性もあるが、そんな人間だったら報酬を決定する時点でもっとごねているはずだ。だとしたら………
行き当たった可能性は、バルキリーだった。神崎じゃないとすれば、あとはアタッシュケースを手に入れて利益を得ることができるのはバルキリーだけだ。単純な消去法。バルキリーだったら神崎とキースが使っているサービスBOXを突き止めるのは簡単だし、そこに神崎名義でメールを放り込んでおくなんて造作もないことだ。
結論に達するとキースは、再び端末からコードを引き出した。ジャック=イン端子に繋げて椅子に座ると、知り合いの”接続屋”の端末にアクセスする。すぐに、接続屋が出てきた。
サイバースペースに巣喰ういくつかの奇妙な職業の一つに、”接続屋”というのがあった。マフィアや特殊部隊などサイバースペース内でのアドレスを秘匿にしている組織や個人は多数ある。接続屋は依頼に応じて依頼人とそういった秘匿アドレスを接続することを仕事としているのだ。
「おや、キースの旦那、久しぶりですね」
「至急、仕事を頼みたい」
せっぱ詰まった口調でキースはそう切り出した。せっぱ詰まっている様子を見せれば足元を見られることはわかりきっているのだが、そのことを考慮する余裕すらキースにはなかった。
「どこにアクセスしたいんですか? 旦那」
「シノハラ・セキュリティ社特殊任務執行部隊バルキリー隊長、寺西今日子少佐の電話。できれば、プライベート回線がいい」
会社の回線ではなくプライベート回線を指定したのは、会社の回線ではアクセス者の名前や会話の内容が記録される可能性があったからだ。だから、わざと難易度の高いプライベート回線をキースは指定したのだ。
「報酬は5000。前払いですぜ」
「OK」
すぐにキースは接続屋のいつもの口座に金を振り込んだ。金の振り込みを確認して接続屋は仕事を始める。いつものように、仕事は1分とかからずに終わった。
「旦那、そっちの電話が鳴ったら取って下さい。いいですか?」
ルルルルルルッ
不意に電話が鳴って驚いた浩二を無視して、キースは電話を取った。受話器の向こうでコール音が何度か鳴って、受話器が取られる。
「はい、寺西です」
「俺だ………って、言ったらまだわかるかな?」
妙に明るい口調でキースは言ったが、受話器の向こうの今日子を驚かせるには十分だった。息を呑む音が聞こえてきっぱり6秒後に返事が返ってくる。
「どうして、この番号がわかったんだ?」
「それは世界の七不思議の一つにしておいてくれないか」
キースの明るい口調もそこまでだった。明るさが消えて真剣味と凄みが出てくる。
「で、今日子。ずいぶんと汚い手を使うようになったんだな」
「なんの話だ?」
驚きから立ち直り慎重な口調で今日子は訊き返す。
「アイリスには手を出すなと言ったはずだ。まさか、お前が無抵抗の少女を誘拐するなんて思わなかったぞ」
「ちょっと、待て………」
「確かに俺達は大戦で非道なことを山ほどやった。だが、ここまではやらなかったはずだぞ。俺だけが変わらないで………」
「待てと言ってるだろ!!」
今日子の大きな声にキースは言葉を切った。間を空けて彼女は息と考えを整えると、
「なにがあったんだ? キース。アイリスというかいう女が誘拐されたのか?」
「とぼけるのもいい加減にしろ!」
冷静になって今日子の言葉を聞けば彼女が嘘を言っていないことなどすぐにわかるのだが、このときキースは冷静さを失っていた。今日子の口調の変化にすら気づかないほど、頭に血が上っていたのだ。
「神崎のサービスBOXを使って隠れたつもりか? 悪いがあんな3流の手に引っかかるほど、俺は腕が落ちちゃいないぜ」
「神崎………? お前の仕事の依頼人か?」
今日子の言葉でキースは自分が依頼人の名前まで喋ってしまい、同時に頭に血が上っていることに気づいた。そのことに気づいて、少しだけ興奮が収まり落ちついてくる。
「あぁ………そうだ」
喋ってしまったことは仕方がない。キースは自分の落ち度を素直に認めると、
「依頼人のサービスBOXにメールがあったんだ。アイリスをさらった。アタッシュケースと交換するってね」
「私はそんなメールなんて出した覚えは無いぞ」
あくまでも彼女の口調は真剣味に満ちていて、嘘をついているような雰囲気はどこにもなかった。
「バルキリーじゃないというのか?」
探るような口調でキースが訊く。
「あぁ………確かにバルキリーは奪還計画を考えていた。でも、それは実行に移せる段階じゃないし、そんなにプアなものじゃない」
「本当に………お前じゃないのか?」
「信じてくれ」
今日子の言葉を聞いて、キースはその言葉の信憑性を考え始めていた。彼女の言うとおり、バルキリーが立案したとは思えない作戦だ。それに、口調からいって彼女が嘘をついているとは思えない。過去の経験がキースにそう言っていた。
「お前じゃないとして………」
キースの言葉は仮定形ではあったが、今日子の言葉を信じたと言っているようなものだった。
「じゃぁ、誰がアイリスを………」
「それは取引に行けばわかるんじゃないのか?」
どこか意味の深い今日子の言葉だったがキースに追求する暇を与えることなく、彼女は二の句を継ぐ。
「一つ確認したいことがある。依頼人は本当に”神崎”と名乗ったのか?」
「あぁ………そうだが………」
キースはそこまで言うと思い出したように、
「何かあるのか? 今日子」
「今は言えないが、もしかしてお前の助けになるかもしれない」
笑みを含めた今日子の言葉にキースは何か言いたかったが、結局、何も言わなかった。何か言っても彼女が何も答えないということが、経験的にわかっているからだ。
「キース………取引の場所と日時も教えてくれないか?」
今日子の質問を訝しげにキースは思ったが、神崎から貰ったメールをすぐに今日子の元に転送してやる。彼女はそれを受け取り中身を確認すると、
「どうも」
と、だけ言って、電話を切ってしまったのだった。
「なんなんだ、いったい………あの女」
切れてしまった受話器に向かってキースはそう呟くしかなかった。
西区の南、港の一角は広大な倉庫地帯となっていた。無人管理の倉庫が建ち並び、人の気配は昼であろうと夜であろうとほとんどない。ゆえに、コンピューターをだます才能に溢れたホームレスが住み着いたり、マフィアなどが取引や地下カジノの隠れ蓑などに使っていた。
メールが指定したアドレスはその倉庫街でも一番、奥の方にあった。使われているかどうかも妖しい倉庫が建ち並んでおり、ホームレス以外は巡回の警備ロボットすら見かけることがない。
目的の倉庫を見つけて、キースは車から降り立った。待ち合わせの2分前。時間的にはちょうどいい頃合だろう。ケブラー繊維を織り込んだトレンチコートにダークスーツ。港の明かりをミラーシェードが反射したが、暗視機構を組み込んであるキースの瞳には関係がなかった。
アタッシュケースを左手に下げてキースはゆっくりとした歩調で、倉庫に向かって行った。周囲に人の気配がないかどうか神経を張り巡らさせながら近づいていく。やがて、鉄の扉の前までたどり着くとキースは立ち止まった。
右手でノブを掴みゆっくりと回す。ギィィときしんだ音をたてて扉は開き、キースは中に入っていく。倉庫の中は明かりがともっていた。夜の照明にしては強烈で、まるで昼間のような明るさだ。
カツーン、カツーンと高い足音を響かせて、キースはコンクリートの上を慎重に進んでいった。倉庫の中は半分程が乱雑に積まれたコンテナに占拠されていたが、残りは全て膨大な空間だった。
コンテナの影から男と女が現れて、キースは立ち止まった。二人との距離は10メートルあまり、がらんとした何もない空間の真ん中に彼は立ち止まった。アタッシュケースを足下に置くと、鋭い視線を男に突き立てる。
男は神崎、女はアイリスだった。神崎は初めて会ったときと同じグレーのスーツを着ていたが、その目は真剣味を帯びているというよりも血走っていた。一方、アイリスはしっかりとした表情でキースを見つめている。
神崎は銃を抜いていたが、それをアイリスに突きつけるというようなことはしていなかった。ただ、アイリスやキースが少しでも変な動きをすれば即座に彼女を撃ち殺すだろうことは明白な事実だ。そして、その動きを阻止できるかどうかキースには全く自信がなかった。
「こういう風に報酬とブツを交換するのが、お前のやり方なのか?」
半ば本気でキースは大声で言った。神崎がなぜ、アイリスをさらってアタッシュケースと交換しようとしたのか、彼には全くわからなかった。金を払えば手にはいるのに、なぜこんな危険なことをしたのか………。
「それとも………金を惜しくなったのか?」
挑発的なキースの言葉に神崎の顔がすっと険しくなる。眉間にしわを寄せ感情のままに飛び出した言葉は、キースの想像と全く違っていた。
「俺をバルキリーに売ろうとしたのはそっちだろ!」
神崎の言葉の意味を理解するのに、キースは少しの時間を要した。言葉の理解はできたものの、次になぜ神崎がそう考えたのかを理解できない。自分の行動を素早く振り返り、神崎がそういう風に考えた行動に思いあたる。昨夜の今日子との密会である。
「俺にそんな意志はない!! お前が何を勘違いしているのかしらないが、金さえ払えばこいつは渡す。だから、アイリスを………」
「何を言ってる! お前は全て知ってるんだろ!! 俺がバルキリーからKSの特務7課に移ろうとしていることも、全て少佐から聞いているんだろ!!」
その言葉を聞いた瞬間、キースは神崎の言葉を全て理解した。
神崎はバルキリーからKS、カワサキ・セキュリティ社特務7課に移ろうとしているのだが、その時の手みやげとしてこのアタッシュケースの中身を持っていくことにしたのだろう。だが、自分自身で動くといろいろと危険なので、アタッシュケースを奪うようキースに仕事を依頼した。ところが、そのキースがバルキリー隊長である今日子と接触してしまい、神崎は自分の計画がばれていると思いこんでしまったのだ。パラノイアと化した彼はアイリスを誘拐し、キースから無理矢理アタッシュケースを奪おうと考えた。
「………そんなところか」
全てはキースの推測でしかなかった。だが、神崎の行動のつじつまを合わせるにはこの推測が一番のように思えた。
では、どのようにしてアイリスを返して貰うか。パラノイアとなってしまった神崎がキースの言葉に耳を貸すとは思えない。神崎の言葉に素直に従いつつ隙を見て力技で奪い返すか………。
「まず、銃を捨ててもらおう」
尊大な口調で神崎が告げた。
「別にアイリスとアタッシュケースを交換するだけだろ。俺にお前を傷つける気なんてない。素直にこいつと彼女を交換してくれないか?」
「いいから!!」
叫ぶような声で神崎に催促されて、キースは素直に応じることにした。ショットガンを床の上にゆっくりと置き、銃をホルスターから抜いて銃身を持って床に置く。それから彼は数歩下がって、銃との間をあけた。
そのとき、キースの視界の隅で何かが動いた。チラッと視線を動かしてそれが何かを確認する。
「アタッシュケースをそのままにして、ゆっくりと後ろに下がれ。10メートルだ」
言われたとおりにキースは下がったが、その距離は言われたとおりではなかった。適当に5メートルほど下がったところで立ち止まる。だが、神崎は何も言わなかった。
「よし………そのままでいろ」
満足そうに神崎は言うとアイリスに何か耳打ちしてから、ゆっくりと歩き出した。アイリスが歩き出し数歩、遅れて神崎が歩き出す。その瞬間、神崎とアイリスの間が大きく離れた瞬間、全てが動き出した。
スーツの裾を翻して振り返る動作と同時に、神崎が銃を抜く。「伏せろ!」とキースが叫ぶ。訳が分からないままにアイリスが床の上に転がる。神崎の顔が歪む。キースの右手が動き尻ポケットのリボルバーを抜く。
銃声が轟いた。コンテナの向こう、今日子の銃が火を噴いたのだ。神崎は今日子の放った強烈な殺気に無意識のうちに反応してしまい振り返ってしまったたのである。自分がとんでもない失敗を起こしたことに気づき、神崎は後ろに飛ぶように移動するとサッとコンテナの影に隠れた。
「大丈夫か………アイリス」
リボルバーの銃口を神崎の隠れた方向に向けながら、キースはアイリスに駆け寄ると彼女を抱き起こした。キースの腕の中でアイリスは小さくこくりとうなずく。
「その女は倉庫の外に出した方がいい」
キースのそばまでやってきて今日子が冷たい声で言った。
「わかってる」
うなずきキースはアイリスを立ち上がらせると、彼女にカードキーを渡す。
「車のキーだ。俺の車はわかるな」
「わかるけど………」
歯切れの悪い口調でアイリスは言いキースの袖を掴んだが、彼はその掴んだ腕を半ば強引に放すと、
「早くしろ。ここは危険だが、車の中なら大丈夫だ」
「………わかった」
わずかに顎を引くようにアイリスはうなずくと、倉庫のドアに向かって走っていた。彼女が鉄の扉を開けて外に出ていったのを確かめると、彼はゆっくりと銃とショットガンを拾い上げた。
「で、なんでこんなところにいるんだ?」
銃をホルスターにしまいながらキースは今日子に訊いた。
「神崎は私の部下だ」
感情のこもってない平坦な口調で今日子はそう告げた。
「知ってる。あの男がさっき、そう言ってた」
答えるキースの言葉もどこか素気ない。
「奴はKSの特務7課にヘッドハンティングされていたんだ。で、そいつを手みやげにしようとした」
言いながら、今日子はアタッシュケースを持ち上げようとしたが、それよりも早くキースがアタッシュケースの取っ手を掴んだ。驚く今日子の表情に対して、キースの表情はあくまでも冷たかった。
「労せずに取り替えそうってのは虫が良すぎるんじゃないのか? 今日子」
「まったくだな」
フッと笑みを浮かべて今日子が肩をすくめた瞬間、二人の足下で銃弾が弾けた。
キースと今日子は素早くコンテナの影に飛び込むが、そのコンテナの上で銃弾が跳ねて甲高い音を立てる。銃弾に追い込まれるようにして別のコンテナの影に隠れたが、銃弾の火花は着実に追ってきた。コンテナの影を選んで走りながらキースは神崎の姿を捜すがどこにもない。
ようやく倉庫の管理室に逃げ込んだところで、銃弾の追撃は終わった。
「野郎………どこにいるんだ?」
壁にもたれてショットガンのマガジンを確認しながら、キースがそう悪態をついた。同じように銃のマガジンを確認しグリップに装填した今日子が、
「不可視迷彩だ。しかも、うちで使ってる奴を持ってきたな」
「性能………いいのか?」
否定を期待してキースは訊ねたのだが、今日子の返事はうなずきだった。
「京レのX486Proの改造だ。市場に出回らない超A級品が悪いわけないだろ? この世でもっとも質の悪い奴だ」
今日子の言葉は冗談じみていたが中身は最悪だった。
不可視迷彩とは、特殊な光学技術を使って人間や機械を周囲の景色に溶け込ませ可視光線では見分けがつかないようにすることだ。不可視迷彩のことを”透明人間製造器”と言う人間もいるが、その言葉が不可視迷彩の性能をもっとも端的に表しているだろう。
京レのX486Proと言えば、不可視迷彩の中でもトップレベルの製品だ。可視光線はもちろんのこと、赤外線などでも見ることができない。今日子が言うように本当に質が悪いのだ。もちろん、見えなくてもその場には存在しているのだから埃が舞うなどの物理変化に注意すれば見つけることができるかもしれないが、そんなこと実戦レベルでは役に立つはずがない。不可視迷彩をした者はその性格上かなり行動を制限されるので、つけいる隙があるとすればそれぐらいしかないのだ。
「さて、どうしたもんかな………」
視線を巡らせながらじっとキースは考えていた。工具箱からコントロールパネル、掃除用具入れと視線は移動するが考えは思いつかない。と、視線が不意にコントロールパネルに吸い寄せられた。
こいつを………。
「今日子、俺の作戦に乗る気はあるか?」
不敵な笑みを浮かべてキースは言った。
静かにドアを開けてショットガンを抱えて管理室から出てきたキースを、神崎は高みの見物をきめて見おろしていた。不可視迷彩に身を包み神崎はコンテナの上にいたのだ。少し体を浮かせサブマシンガンをかまえると、神崎はトリガーを絞った。
短い連続した発射音が聞こえて、走るキースのわずか後ろに銃弾が着弾して壁に穴をあけた。立ち止まり頭を巡らせて再びキースは走り出す。場所を移動しようとして立ち上がった瞬間、神崎はあることに気づいた。
今日子がいないのだ。管理室には二人で逃げ込んだはずだ。それは透明人間のままコンテナの上から確認している。でも、管理室から出てきたのはキース一人だけだ。じゃぁ、今日子はまだ管理室にいるのか? それとも、タイムラグをつけて管理室からもう出ているのか?
敵の作戦を推測しようとして考えるうちに、神崎は天井を見上げていた。金属製の梁が縦横に走っており、その梁にスプリンクラーの鉄パイプが寄り添うように走っている。自分の頭の上にシャワーのようなスプリンクラーがあることに気づき、神崎はキースが考えた作戦を悟った。
不可視迷彩が許すぎりぎりの敏捷さでコンテナから飛び降り、雨を避けようとしたが間に合わなかった。火災報知器のけたたましい音ともに、スプリンクラーの弁が開き人工の雨が倉庫いっぱいに降り始めたのだ。
不可視迷彩が雨に濡れて自分の姿が浮き彫りになっていくのに気づいて、神崎は慌てて不可視迷彩を脱ぎ去った。不可視迷彩は雨に濡れればその効力を失う。だったら、自由を奪う不可視迷彩をいつまでも着ていることは得策ではなかった。
スプリンクラーに濡れながら神崎は出口に向かって走り始めた。自分の絶対的な優位を保証していた不可視迷彩が失われた今、キースと今日子の二人に勝てるわけがない。だったら、アタッシュケースにこだわることなく逃げ出した方がましだ。
コンテナの迷路を抜けだし、神崎は広いコンクリートの空間を出口に向かって走る。
「神崎!」
キースの名を呼ぶ声。その声で追いつかれたことを悟って、神崎は振り返った。サブマシンガンの銃口をショットガンを構えるキースに向けようとする。だが、振り返るよりも早く12番ゲージの散弾が彼の右手を肩からもぎ取った。
スプリンクラーの雨はやんでいる。
サブマシンガンを構えたまま、神崎の右腕は濡れたコンクリートの上を滑っていく。血の跡を残して滑っていく自分の右腕を、彼は呆然とした表情で見つめていた。
「………神崎」
優しく語りかけるような今日子の声に神崎はようやく我に返った。振り返り、ゆっくりと近づいてくる今日子とキースを認める。
「不可視迷彩に頼りすぎたのがお前の敗因だな。不可視迷彩に頼ることなく冷静に戦っていれば、死んでいたのは私とキースだったかもしれなかった」
「………少佐」
か細い声で今日子の階級を呟く神崎を目の前にして、今日子は冷静にゆっくりと銃をかまえた。銃口を真っ直ぐに、立ちつくす神崎の眉間にあわせる。
「少佐、待って下さい!! これは全部、特務7課の課長が仕組んだことで………」
死を目の前にして神崎は饒舌になったが、誰も彼の言葉を聞いていなかった。悲しそうな目で神崎を見ていた今日子だったが不意に表情を曇らせると、彼女は銃のトリガーを引いた。
腹に響くような銃声が轟き9ミリの銃弾が神崎の頭を貫く。ドサッという音をたてて神崎の体が倒れても、今日子の表情は変わることがなかった。
「いいのか?」
倒れ伏した神崎の死体を見おろしながらキースが訊く。だが、今日子は何も答えなかった。その質問の意味がわからなかったし、だいたいにして訊いた人間にも意味がわからなかったのだ。
「アタッシュケースはこっちで引き取っていいんだな?」
事務的な口調で今日子が訊く。キースは扉に向かって歩き始めながら、
「あぁ………そのかわり口座にしっかり金を振り込んでくれよ」
「帰るのか?」
わずかに未練と憂いを含んでいる今日子の言葉。
「どっかで飲んでいかないか?」
「やめておく」
扉のノブをつかんで答えたキースの声はどこか冷たかった。意識して冷たいのか無意識のうちに冷たいのかわからない言葉を聞いて今日子は少しだけ顔を歪ませたが、すぐに表情を繕うと、
「可愛い女の子が待ってるからか?」
「さぁな」
あくまでも、キースはポーカーフェイスだった。肩をすくめて彼は答えると、ドアを開けた。向こうへと足を進めて後ろ手に閉めるドアの隙間から、アイリスの「キース!」という声が聞こえてくる。
「ふん………勝手にしろ、ばぁ〜か」
それは冷徹な寺西今日子ではなく、一人の女としての声だった。だが、すぐに彼女は気を取り直すとバルキリー本部との回線を開いたのだ。
「寺西より、本部。すぐに2班をこっちによこしてくれ。それから………」
The END
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